2020年4月25日土曜日

4月26日(日)復活節第3主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。


(旧約聖書)使徒言行録        2章14節a、

                      36節~41節

(新約聖書)ペトロの手紙(一)   1章17~23

(新約聖書)ルカによる福音書    24章13節~35節


道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか。

   『我が臨在、汝と共に行くべし』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 モーセは激しい怒りの中にいました。イスラエルの民をこれまで長い間導いてきたのです。モーセは、イスラエルの民の指導者としてエジプトの国から出発し、約束の地を目指して、荒れ野を率いて来ました。途中、葦の海の奇跡がありました。そして、幾つもの困難を越えたのち、主なる神、ヤハウェからシナイ山で十戒を授けられます。
 ところが、モーセがシナイ山の上でヤハウェから石の掟の板を授けられたとき、なんと、ふもとにいたイスラエルの民はアロンに金の子牛を造るようにお願いするのです。モーセが少しの間、不在であったためです。民はその金の子牛を、自分たちをエジプトから導き出した神々であるとみたて、崇め、そして祭りを行い、堕落した儀式を行うのです。
 私はここで考えてしまいました。民はなぜ腐敗するのであろうかと。神の人モーセは断固として民を荒れ野で導いてきたのです。しかし、その選ばれたイスラエルの民は、ほんのつかの間、モーセがシナイ山に登り、留守にするだけで偶像崇拝に走るのです。金の子牛をつくること、このことは偶像崇拝の罪を犯し、十戒にも反することなのです。
私には、この金の子牛の意味は、それだけではないように思います。民衆は、安易な慰めに走ってしまうのです。一見、金の子牛は豊穣の神を示し、豊かな実りを祝えることに結びつき、民衆の心を引きつけるのです。他方、ヤハウェの神は、一神教で厳しく、どんなに憐れみと恵みに富み給う神であったとしても、民衆の心を惹かないのです。この民衆は、安易なものにすぐ結びついてしまう心の暗闇を抱え、一時だけの快楽に酔いしれてしまうのです。
そこで、モーセは直ちに下山します。民が歌を歌い、祭りに酔いしれている様子を見て、激しく怒り、掟の板を粉々に砕いてしまいます。モーセはこの民を嘆きます。そして、モーセは、レビ人に命じて、その兄弟や友人、隣人を三千人殺させます。
 今日の説教はここからです。民は悔い改める一方で、神ご自身がモーセに、もはやイスラエルの民と同行しないと告げるのです。これまでイスラエルの民と共に歩んでくださったヤハウェの神が、もう民と一緒に歩まないと言います。このことは、イスラエルにとって一大事です。ヤハウェが一緒に歩んでくれたからこそ、モーセと民らは、この出エジプトという難局をかろうじて歩んでこれたのです。民は嘆き、モーセも神に必死に嘆願します。出エジプト記3313節を読みます。
「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。」
 モーセは自分の歩む道を見失い、深い嘆きの言葉を神に訴えます。神に民らの犯した罪の贖いを申し出るのです。

ここで憐れみ深い神は、モーセに応答します。このみ言葉は心に響く言葉です。出エジプト記3314節。「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」み言葉は新共同訳聖書の訳ですが、文語訳ではこのように書かれていました。
「我が臨在、汝と共に行くべし」
 神は、モーセと、そしてイスラエルの民とこれからも共におられると言われるのです。このみ言葉はモーセの存在を貫いたはずです。モーセだけではありません。このみ言葉は、ここから始まり旧約聖書全体を貫き、ひいては旧新約聖書全巻の根底に流れるような、神が私たちと共におられるという神の臨在の思想になったのです。
 わたしがこのみ言葉、「我が臨在、汝と共に行くべし」に出会ったのは、恥ずかしながら最近です。わたしは、新共同訳聖書で「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と読んできました。これまで正直、「ああ、共にいて下さる神様なんだな」と理解し、とくに深い印象を受けなかったのです。
しかし、ある時、ある印刷物に目を通していたときに、不意にみ言葉に出会いました。
「我が臨在、汝と共に行くべし」このみ言葉に神の峻厳さを感じます。み言葉一つで聖書信仰の大切なことを表現しています。私にとってこのみ言葉は衝撃でありました。
このみ言葉に出会った後、実はわたしは夜もあまり眠れませんでした。日中、み言葉が頭の中をぐるぐる回り、黙想を重ねました。そうなんだ、こんなに聖書信仰はシンプルで単純素朴でいいのだなと、心に染み込んでくるようでした。正直、身が引き裂かれるような体験でもありました。新型コロナウイルスがこの社会に蔓延し、無意識のうちに不安と恐れがこの身を覆う中、み言葉が、暗い私の先を照らし、光をもたらすかのように感じられたからです。
恥ずかしながら、ここまでみ言葉が私の心と体を貫いたことはありませんでした。み言葉がわたしの魂を捉え、掴みました。
 「我が臨在、汝と共に行くべし」実は、このみ言葉一つで一週間のわたしの生活が支えられ守られてきたのです。失意の中にあり、逆境の中で、わたしが生きていく道しるべになったように思います。
 新型コロナウイルスの感染拡大で、恐れ、そして緊張感が私たちの社会を覆っているように思われます。しかし、逆境の生活の中で、主なる神は「わたしがあなたと共にいる」と告げられるのです。「我が臨在、汝と共に行くべし」聖書では、神はどこにいるのか分からない神ではありません。弱く貧しいわたし、そしてわたしたちと共に、いて下さり歩みをそろえて下さる神なのです。
 
十戒を破り、偶像に走り、まことの神を侮るイスラエルの民らと共に神ヤハウェはおられます。モーセは必死に執り成しの祈りを捧げました。この祈りに答えるかのように、主なる神は「我が臨在、汝と共に」と答えられるのです。
 主なる神は、この世を覚束なく歩む私たちと共におられます。私たちはみ言葉に支えられ、慰められ、時にはみ言葉によって存在が引き裂かれるような思いを経験しつつも、それでもみ言葉と共に生きていくのです。
 「我が臨在、汝と共に行くべし」厳しい状況のなかで、み言葉が今日もわたしを捕らえ、離しません。神のみ言葉から慰めと、そして厳しさをも頂いて、暗闇の中の歩みを、希望と共に進めていきたく願います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                   アーメン 

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