2023年8月27日日曜日

9月3日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝のご案内

  新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、

マスクを着けて、ぜひお出かけください!



★ 主日の祈り

神様。

世のために苦しみの道を選ばれた御子に感謝し

ます。御子に倣って私たちが己を低くし、従順

の道を歩み、あなたの戒めに従うことができる

ように力を与えてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン



(旧約聖書)エレミヤ書

       15章15節~21節                       

(新約聖書)ローマの信徒への手紙 

       12章9節~21節  

(新約聖書)マタイによる福音書    
       16章21節~28節
「わたしについて来たい者は、
自分を捨て、
自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、
それを失うが、
わたしのために命を失う者は、
それを得る。」




「イエスさまに付いて行くということ」
          浅野 直樹 牧師

「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」

 今朝の福音書の日課は、いわゆる「受難予告」と言われる箇所です。先週は、ペトロの信仰告白の場面を見てまいりました。ペトロは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエスさまからの問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派な信仰告白をいたしました。そのペトロの信仰告白をイエスさまは大変に喜ばれ、その告白の上に教会が建てられる、と言われるほどでした。しかし、今朝の箇所では、その舌の根も乾かないうちに大失態をしてしまいます。イエスさまの受難予告を聞いたペトロがそれを諌(いさ)めたからです。先ほどの祝福とは打って変わって、「サタン、引き下がれ」と言われてしまうほどに、イエスさまを不快にさせてしまいました。なぜ、そんなことが起こったのか。ペトロが「メシア」の意味を全く履き違えていたからです。確かに、ペトロは立派な信仰告白をしました。それは、神さまからの賜物でした。しかし、その内実について、果たしてペトロがどのように理解していたか、といえば、イエスさまの思いとは、もっと言えば、神さまのご計画とは遠くかけ離れていたわけです。ここに、私たちの信仰告白の姿を見るような気もいたします。

 私たちもまた教会を訪れ、いろいろな経験を経て、信仰告白へと至りました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。しかし、どこまで分かっていたのか、と言えば、心もとない限りです。特に、受難、十字架の意味など全く分かっていなかったのかもしれません。もっとも、受洗前教育などで教えとしては理解していたとしても、自分のこととして、その出来事がどれほどこの私にとって決定的な意味を持つ出来事であったか、といったことには、なかなか気づけていなかったのかもしれません。そういう意味では、私たちもまた、イエスさまから「サタン、引き下がれ」と言われてしまう者であったのかもしれない。それでも、やはり今朝の箇所を読んでいきますと、そんな不甲斐ない信仰告白であったとしても、意味があるように思わされます。21節でこう語られているからです。「このときから」。今日の箇所を含めて、マタイによる福音書には3つの受難予告が記されています。もっと正確にいえば、受難・十字架と復活の予告です。つまり、私たちキリスト者にとっての肝心要の教えが、この時からなされた、ということです。この信仰告白の前には、そのことは一切伏せられていた。つまり、後に「サタン、引き下がれ」と言われてしまうような不理解なペトロの信仰告白であったとしても、その告白がなければ受難と復活の教えは出てこなかった訳です。たとえ不完全であっても、十字架と復活の意味が全く理解できていなかったとしても、この「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白からはじまっていった。しかも、その告白を与えてくださったのも、神さまに他ならない訳です。それもまた、私たちの信仰告白の道筋ではないか。その信仰告白を確かなものとしてくださるためにも、まず神さまの恵みによってその告白へと導かれ、その告白の意味するところを十二分に理解する歩みへと導いてくださるのではないか。そうも思うからです。

 ペトロはなぜこのとき、「サタン、引き下がれ」などと言われてしまったのか。先ほども言いましたように、受難を予告されたイエスさまを諌めたからです。しかし、それが、どうしてそれほど悪かったのか。実は、私たちにも良く分からないのだと思う。なぜならば、ペトロとしては良かれと思ってやったことに過ぎないからです。ペトロなりにイエスさまのことを慮(おもんぱか)ってのことだったからです。ペトロなりの親愛の情から生まれたものだったからです。

 現在、来年の大統領選に向けて、徐々に熱がこもってきているようですが、自分が心酔し押す大統領候補がもし弱気な様子を見せたならば、「何弱気になってるんですか。大丈夫です。あなたならやれます。もっと堂々としていてください」と励まし、発破をかけないでしょうか。それと同じことをペトロはやっただけです。イエスさまをメシア・救い主と信じて止まなかったからです。しかし、それこそが間違いなのです。ここで非常に重要なことが語られている。「神のことを思わず、人間のことを思っている」と。私たちの間違いの原因は、大抵がここにかかっていると言っても言い過ぎではないでしょう。私たちは神さまのことを誤解している。何が本当に正しいことなのかも分かっていないのかもしれない。そして、悪魔のことも誤解しているのかもしれない。この悪魔のことを知りたければ、C.S.ルイスの『悪魔の手紙』を読まれたら良いと思います。ともかく、悪魔は私たちが想像するような毒々しい存在というよりも、いかにも善良そうにして近づいてくるのです。そして、私たちを神さまから引き離そうとする。もし、このペトロの提案通りにイエスさまが十字架の死と復活を辞めてしまわれたなら、それこそ人類の救いはありません。一見良さそうな、イエスさまのことを慮った提案のように思えても、文字通り、ペトロは人類の敵、悪魔になってしまうのです。しかし、当の本人はそんなことはちっとも思っていないのです。自分の心配が当然だと思っている。自分がちゃんとイエスさまを補佐して、その道筋を正してあげなければと思っている。これは、愛から生まれていることだ。善意から生まれていることだ。だから、間違うはずがない。ペトロは自分の信仰告白に確信をもってそうしたに違いないのです。しかし、その実は、善意のはずが、愛から出たはずが、神さまのご計画を破壊することになり、人類を救うというイエスさまの思いを踏みにじることになり、人類の救いの道を閉ざしてしまう人類の敵にさえなってしまいかねなかったわけです。それは、十二分に私たちも肝に命じておかなければならないことだと思う。なぜならば、私たちもペトロも全く同じだからです。自分ばかりを、人間ばかりを見ているからです。あなたは「神のことを思わず、人間のことを思っている」。私たちも、この過ちに真に気づき、戒めなければならない。

 24節以下の自分を捨てよ、自分の十字架を背負え等の言葉も、このことを抜きにしては、おそらく理解しえないでしょう。「人間のこと」、つまり、私たち自身の思いとは全く正反対のことを言っているようにしか思えないからです。私たちは自分で自分の命を守ることこそ最良の道だ、と思っている。だから、何よりも自分を大切にしようとするわけです。しかし、本当にそれで人が幸せになれるのか、といえば、私はそうは思いません。私自身のことも含めてですが、多くの悩み相談などを受けると、大抵自分を苦しめているのは、当の自分自身だということが多いからです。自分自身に縛られているからこそ、生きにくくしていることが多い。自分の過去に、自分の性格に、自分の経験に、自分の考えに、自分の感覚・感性に、自分の生い立ち・生育歴に、自分の問題性に本当に人は縛られている。そこから解放されることは至難の技です。

 私たちとは逆に、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことと正反対の生き方をされたのがイエスさまでした。「自分を捨て、自分の十字架を背負」われたのも、何よりもイエスさまご自身でした。イエスさまはご自分の命においてさえも自由でした。神さまの御手に一切を委ねておられたからです。だからこそ、イエスさまは命を得ていた。真の自分を持っておられた。真の自由の中を生きることがおできになった。

 イエスさまは「わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいます。命とはもちろん、私たちにとって最も大切なものです。私の存在自体と言い換えても良いでしょう。そして、本来の私とは自由な存在である。自分自身の命に雁字搦めになるならば、かえって自分に縛られて真の自由を奪われてしまうことになってしまいますが、——それは命を失うと言っても良いでしょう——イエスさまに命を、私たちの存在すべてを預けて、委ねてしまうならば、真の私に、真の自由な私になっていける。それが、命を得る、ということでもあるのではないか。そう思うのです。

 確かに、ペトロは大変な叱責を受けてしまいましたが、それは、この命に招かれているが故であることを忘れてはいけないと思います。私たちも、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をいたします。しかし、それは、まだまだ不十分で、「サタン、引き下がれ。あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われてしまうような有様かもしれません。しかし、それは、見放されているのではないのです。むしろ、招かれているのです。私に命を預けよ、と。私に、お前自身を委ねよ、と。そこに、真のあなた自身の姿になり得る道筋があるのだ、と。命を得る道筋が。その招きを大切にしていきたいと思います。また、それが、イエスさまに付いて行く、ということになるのではないか。そう思うのです。

 祈ります。

「憐れみ深い私たちの天の父なる神さま。御名を賛美いたします。今日も礼拝に招いてくださり、み言葉を与えてくださいましたことを心より感謝いたします。今日のみ言葉も、私たちにとっては大変痛い言葉で、身につまされる思いが致しました。しかし、それは、ペトロをはじめ、この私たちをも真の命へと招いてくださるためのものであったことを覚え感謝いたします。どうぞ自分自身や人間に囚われ過ぎるのではなく、イエスさまを見習って、あなたにこそ心を向け、真の自由を得て行くことができますように、弱い私たちをどうぞお導きください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

 「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン」

2023年8月20日日曜日

8月27日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝のご案内

 新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、

マスクを着けて、ぜひお出かけください!



★ 主日の祈り

神様。

あらゆる時代の信じる者たちとともに、いのちの

岩であるあなたをほめたたえます。私たちの堅い

土台となって、私たちを御子のからだに形づくり、

喜んで全世界に仕える者としてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン



(旧約聖書)イザヤ書

       51章1節~6節                       

(新約聖書)ローマの信徒への手紙 

       12章1節~8節  

(新約聖書)マタイによる福音書    
       16章13節~20節
「あなたはペトロ。
わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。
陰府の力もこれに対抗できない。
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
あなたが地上でつなぐことは、
天上でもつながれる。
あなたが地上で解くことは、
天上でも説かれる。」







「 教会の立つべきところ 」浅野 直樹 牧師

「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」  

 唐突ですが、皆さんはキリスト教(信仰)の本質的なものは何だと思われるでしょうか。神さまを礼拝すること? 愛の実践を成すこと? 倫理・道徳観が高いこと? 神さまや隣人に仕えること? 宣教の熱心さ? 世界平和?  
 もちろん、その全てが大切なものに違いない訳ですが、もっとはっきりとした、単純な答えがあるはずです。それは、イエス・キリストを信じること、です。誤解を恐れずに言えば、父なる神さまを礼拝しているのはキリスト教だけではありませんし、他の宗教・他の信仰を持っておられる方々の中にも、非常に高い倫理観・道徳観を持っておられたり、愛の実践に非常に熱心に取り組んでおられる方々もいる訳です。私はつくづく思うのですが、私たちキリスト教サイドからすれば「異端」と言われる人々(キリスト教側からすれば、どことなく白い目で見られている方々)の伝道や奉仕などの実践面、熱心さやひたむきさは、私たちの方が見習うべきではないか、とさえ思っています。そういう意味では、私たちは呑気に誇ってなどいられない。むしろ、積極的に学ぶべきところも多くあるのかもしれない。では、何が違うのか。イエス・キリストを信じる、神の御子・私たちの救い主として信じている。ただこの一点です。これは、他の宗教や信仰観、イデオロギーなどにはないものです。私たちにしかない事柄。これが、私たちのユニークさ、独自性、もっと言えば、他とは違う価値・存在価値になっているのではないでしょうか。
  今日の日課は、有名な「ペトロの信仰告白」の箇所です。イエスさまの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いかけに、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたからです。そのペトロの信仰告白に対して、イエスさまはこう語られた。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と。ペトロとは、ご存知のように「岩」という意味の言葉です。つまり、「わたしはこの岩の上に」とイエスさまがおっしゃったのは、このペトロの上に「教会を建てる」ということです。これには、様々な解釈がありました。もっとも有名なのが、ローマ・カトリック教会の理解です。この言葉から、カトリック教会の代々の教皇はペトロの後継者だ、と考えられてきました。そこに、ローマ・カトリック教会の優位性がある、と。それに対して、宗教改革以降のプロテスタント側は、「岩(ペトロ)の上に」と言うのは、ペトロ一個人を指すのではなくて、ペトロの信仰告白、つまり、「あなたはメシア、生ける神の子です」との告白の上に建つ、と受け止めてきた。ペトロという人格・一個人に帰するのか、それとも、信仰告白に帰するのか、難しいところがありますが、しかし、いずれにしても、「あなたはメシア、生ける神の子です」との言葉と切り離すことはできないでしょう。そういう意味でも、やはり教会の土台として、この告白「あなたはメシア、生ける神の子です」があることは疑いようのない事実だと思います。
  しかも、この告白は、ペトロ一個人に帰されるものでもないことにも注意したいと思います。なぜなら、こうも言われているからです。「シモン・バルヨナ(ペトロの本名:ヨナの子・シモン)、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」。つまり、ペトロがこの信仰告白に至ったのは、彼の優秀さでも熱心さでも信仰深さでもなくて、ただ神さまがそのように示してくださったからだ、というのです。つまり、この教会の土台そのものが、神さまの恵みの業(わざ)そのものに他ならない、ということです。最初に言いましたキリスト教・教会のユニークさも、そこに尽きる。神さまによらなければ、誰もキリスト信仰には至らない。事実、今日の日課でもそのことに触れられているように思います。
  弟子たちへの問いに先立って、イエスさまはこう尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と。その答えはこうでした。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者に一人だ』と言う人もいます。」。ご存知のように、「洗礼者ヨハネ」については、人々は真の預言者だと信じていました。「エリヤ」も「エレミヤ」も旧約聖書を代表する大預言者です。つまり、いずれにしても、高評価、ということです。もちろん、イエスさまに対して快く思っていない人もいたでしょうが、それにしても、人々は高評価でイエスさまを捉えていた、ということでしょう。
  今日、キリスト教・教会が大変厳しい状況に置かれていることは、皆さんも痛感されておられることでしょう。かつて賑わっていた教会が廃れていき、財政も危機的状況に陥っている。これは、残念ながら教派を超えて、全国的なことです。私(浅野)自身、どうすれば良いのか、と、なかなか答えを見つけられないでいる。確かに、そうです。しかし、考えてみれば、イエスさまの時代もそうだった。今日も、キリスト教、イエスさまに対して否定的に捉えている人は多くはないと思います。むしろ、評価も高いと思う。相変わらずミッション系の学校は人気です。しかし、なかなか、それらを超えて、「あなたはメシア、生ける神の子です」との教会の土台としての告白へとは至らないでいる。先ほども言いましたように、もしこの告白が神さまのみ業(わざ)でしかないとしたら、これはもう神さまに働いていただくしかありません。
  では、このペトロの信仰告白の上に建てられた教会の特徴は何だろうか。その一つの答えが、ここにあります。「陰府の力もこれに対抗できない」。これについても様々な解釈があるようですが、要するに死の力に教会は負けない、ということです。私(浅野)はこう思う。何やかんや言っても、やはり私たちの究極の願いは、死からの解放ではないか、と。つまり、安心して死ねる、ということです。穏やかに、安心して、希望をもって死ねる。心の底から…。それが、私たちの願い。つまり、イエスさまを救い主、神の子と信じている教会は、その土台の上に生きている私たちキリスト者たちは、安心して死ねる者たち、ということです。そこに、教会らしさ、発信力がある。
  私(浅野)が牧師となって二十数年の間にも、時代は変わりました。特にコロナ禍で加速したような感じもいたします。葬儀です。随分とご葬儀の様子が変わった。かつては、教会員及び関係者のご葬儀は、教会員皆で行うことが通例だった。皆で仲間であるご遺族を慰めるためだと思います。それほど、その頃は死が痛々しかった。ご家族が泣き崩れることも少なくありませんでした。ですから、私自身はご葬儀を受け持つ時、何よりもご遺族・ご家族の慰めを第一に考えていったつもりです。それが、コロナ禍で一気に少人数化し、斎場を使うことも多くなりました。趣向を凝らして慰めを演出する斎場も多くなった。そのせいか、何だか死の受け止め方が淡白になってきたように、私には感じられます。だからといって、本当に死の力は弱まったのか、といえば、違うでしょう。いくら演出が凝らされたとしても、現実は厳しいものに違いない。もちろん、様々な事情がありますし、ご遺族が主体ですので、葬儀のあり方をどうのこうのと言うつもりはありませんが、しかし、イエスさまを神の子・救い主として信じている私たちの教会は、「陰府の力」に、死の力に打ち勝っているのだ、ということは、忘れないでいたいと思うのです。いいえ、自分たちのために忘れないだけでなく、それがこの告白の上に立つ教会の特徴なのだと、自ら証しを立て、発信していきたい、そう思うのです。
  先ほどは、この信仰告白は神さまのみ業(わざ)でしかなく、神さまに働いていただくしかない、と言いましたが、その通りで、そのためにも私たちは祈っていく必要があるのだと思います。「み業(わざ)を成してください」と。と同時に、次のことも忘れないでいたいと思う。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。これは、非常に大きな権限です。と同時に、大きな責任でもあり、大きな使命でもある。私たちの働き次第によって、天に入れるかどうかが決まってくるのですから…。ですから、あくまでも神さまのみ業(わざ)でしかないのですから、そのことを祈り求めていくと同時に、人々が天に入れるように、私たちにできる最善のことをしていく必要もあるということでしょう。 
 いずれにしても、私たちの土台としては、「あなたはメシア、生ける神の子です」ということしかない、と言うことです。イエス・キリスト抜きにしては、何もはじまらない。ですから、他の大切な要素、礼拝にしろ、愛の実践にしろ、イエスさま抜きではありえないのです。私たちが、そうしたいからでも、それを成そうとする意思があるからでもない。イエスさまによらなければ、誰も敵を愛そうとなどしないでしょう。そのことに悩み苦しむこともない。イエスさまがおっしゃるからこそ、私たちは突き動かされるのです。だからこそ、この世の小さき者を愛そうとするし、私たちをお救いくださった神さまを礼拝する。そうです。だからこそ、礼拝も愛の実践も倫理・道徳観も宣教も世界平和も、似ているように思えるけれども、オリジナリティー・独自性を発揮することになる。そこに、イエスさまがおられるから。イエスさまを土台としているから。だからこその存在価値もある。キリスト教である必要がある。そうではないでしょうか。 
 先ほども少し触れましたように、私自身は、自分のことも含めて、「信仰と実践」の結び付きは大きな課題だと思っています。ですから、様々なところからも学ぶ必要を感じていますし、反省する必要も覚える。しかし、この土台は譲れないのです。どう言われようと、社会からどう見られようと、この土台は譲れない。この土台を無くしてしまったら、もう私たちは私たちじゃなくなってしまうから。それでは、この世界にも貢献できないし、天の門を閉ざしてしまうことにもなってしまう。それは、良くない。たとえ小さくても、私たちにしかないもの、私たちにしか語り得ないものを、私たちは土台として持っているのですから、なおもそこに立ち続けていきたいし、立って行かなければならない、そう思っています。

 祈ります。
 「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。今日は牧師の夏季休暇のために信徒礼拝となっていますが、この礼拝を豊かに祝してくださっていることを覚えて感謝をいたします。教会にとっては苦難の時が続いており、人々が、特に若い方々が教会に、キリスト教に見向きもしてくれないことに焦りを感じて、様々な計画・方法論に翻弄されているようにも感じています。しかし、私たちのこの土台を見失ってしまっては元も子もありません。今の人々に届く方法を探りながらも、なおもこの原点に堅く立ち、むしろ豊かにあなたの恵みを、イエスさまの御言葉を、陰府にも打ち勝つ力を体験・経験しながら、私たちにしかできない世への貢献を、宣教の業(わざ)を推し進めていくことができますように、小さな私たちを力づけお導きくださるようお願いいたします。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」 

  「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
アーメン」

2023年8月13日日曜日

8月20日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝のご案内

 新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、

マスクを着けて、ぜひお出かけください!





★ 主日の祈り

すべての民の神様。

あなたは呼び求めるすべての人を抱きしめるため、

御腕を差し伸べられます。

慈しみとたしかな心で世界を愛することにより、

御名が全地に知れ渡ることを、御子の弟子である

私たちに教えてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン


(旧約聖書)列王記(上)

       19章9節~18節                       

(新約聖書)ローマの信徒への手紙 

       10章5節~15節  

(新約聖書)マタイによる福音書    
       14章22節~33節

「キリストとカナンの女」
ルドヴィコ・カラッチ

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。
あなたの願いとおりになるように。」
そのとき、娘の病気はいやされた。




「 冷たくされても 」浅野 直樹 牧師


2023年8月6日日曜日

8月13日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝のご案内

 新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、

マスクを着けて、ぜひお出かけください!



★ 主日の祈り

私たちをお守りくださる神様。

私たちの内と外に吹き荒れる嵐は私たちを恐れ

させます。あなたの民を絶望から救い出し、

あなたの子どもたちを恐れから解き放ち、御子

を信じる信仰の内に私たちを守ってください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン



(旧約聖書)列王記(上)

       19章9節~18節                       

(新約聖書)ローマの信徒への手紙 

       10章5節~15節  

(新約聖書)マタイによる福音書    
       14章22節~33節


夜が明けるころ、イエスは湖の上を
歩いて弟子たちのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖上を歩いて
おられるのを見て、『幽霊だ』と言って
おびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。