2025年6月29日日曜日

7月6日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。












つらいことがある方や、誰かに話を聞いても
らいたい方、このページの下の「コメントを
投稿」にご連絡ください。秘密は守ります。
お電話を希望する方は、
090-6461-5960(牧師直通)です。
名乗っていただかなくても大丈夫です。
キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。








★ 主日の祈り

私たちの主イエスの父である神様。

あなたはシオン、私たちを守る町、慰めの母で

す。

あなたの平和を世界中に広めるために、私たち

の人生の旅路を、あなたの霊が共に歩んでくだ

さい。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)イザヤ書

       66章10節~14節                                                                 (新約聖書)ガラテヤの信徒への手紙

       6章1節~16

(新約聖書)ルカによる福音書    
       10章1節~11節、
          16節~20節

行きなさい。
わたしはあなたがたを遣わす。
それは狼の群れに子羊を
送り込むようなものだ。


















「 必ずしも歓迎されない 

          浅野 直樹 牧師


2025年6月22日日曜日

6月29日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

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★ 主日の祈り

すべての人の心を知っておられる、いと高き神様。

あなたはご自分に従うように私たちを招き、真の

自由を与えてくださいます。

御子の道に従って、

妨げとなるものをことごとく捨て、あなたの道を

まっすぐに進むことができるように、私たちを助

てください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)列王記(上)

       19章15節~16節

          19節~21節                                                                 (新約聖書)ガラテヤの信徒への手紙

       5章1節、13節~25

(新約聖書)ルカによる福音書    
       9章51節~62節


鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、
神の国にふさわしくない。

















「 嬉しいことばかりじゃない 

          浅野 直樹 牧師

2025年6月15日日曜日

6月22日聖霊降臨後第2主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

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★ 主日の祈り

主なる神様。

悲しみ多い世の叫びをお聞きください。

私たちを憐れみ、囚われの鎖から解き放ち、すべて

の悪から守ってください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)イザヤ書

       65章1節~9節                                                         (新約聖書)ガラテヤの信徒への手紙

       3章23節~29

(新約聖書)ルカによる福音書    
       8章26節~39節

自分の家に帰りなさい。
そして、神があなたになさったことを
ことごとく話して聞かせなさい。
















「 願い退けられて 

          浅野 直樹 牧師

2025年6月8日日曜日

6月15日(日)三位一体主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

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三位一体とは何ですか?





一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えていると
いうのが三位一体の意味です。
三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子
としての人格、そして神の霊・聖霊としての人格
の三つです。
これらが同時に一つであるというのが私たちの神
であります。



★ 主日の祈り

私たちの創り主である神様。

地上の民はみな、御子の復活によって命をいただき

ます。

聖霊によって愛の炎を燃え立たせ、私たちを強めて

奉仕と賛美の生活へと向かうことができますように。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)箴言

       8章1節~4節、22節~31節                                                         (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       5章1節~5

(新約聖書)ヨハネによる福音書    
       16章12節~15節

今、あなたがたには理解できない。
しかし、その方、すなわち、
真理の霊が来ると、あなたがたを導いて
真理をことごとく悟らせる。













「 父と子と聖霊 

          浅野 直樹 牧師

 今、私たちルーテル教会も含め、日本の

リスト教界は大変困難な時代の中にある、

と言われたりします。皆さんもそうお感じ

になっておられるかもしれません。教会員・

牧師数が減り、経済状況も悪化の一途を辿っ

ているのは紛れもない事実だからです。伝

道活動も知恵を尽くしてそれなりに一所懸

命にやっているつもりですが、一向に成果

が上がりません。衰退期に入っていると指

摘されても、仕方がない面がある。でも、

かつてはそうではありませんでした。最初

に赴任した静岡市の小鹿教会は二十数人の

小さな教会でした。もう15年ほども前に

なります。教会学校も先生はいましたが、

生徒がいない状態でした。しかし、そん

な地方の小さな教会も、数十年前は近くの

小学校の校庭を借りて、教会学校の運動会

を行なっていたほどだった、と思い出話を

聞かされ、驚いたことを今でもよく覚えて

います。私自身は、まだその頃は教会には

行っていませんでしたので、そんな様子を

直には見ていませんが、でもその頃はどの

教会も似たようなものだったとよく聞きま

した。子どもたちもいっぱい集まって、青

年たちも熱心に集って、活気に満ちた、賑

わっていたそんな時代があった、と。それ

が、なぜこうなってしまったのだろう、と

私なりに思い巡らすことも度々ある。

 しかし一方で、立ち止まって考えるので

す。「迫害」もないのに、大変困難な時代

というのは、一体どういうことなのだろう。

「迫害」があるなら分かる。「迫害」があ

るから大変困難な時代ということなら、良

く分かる。教会はたびたびそういった危機

にも遭遇してきた。禁教の時代と言わずと

も、80年前の戦時中もそうでした。やす

やすと伝道などできなかった。礼拝を守

ることさえ困難だった。周りから、身内か

らも後ろ指さされ、その信仰ゆえに牢屋に

入れられることも起こった。場合によって

は、命を落とすことも。そんな大変困難

な時代に、人数が減り、衰退していくのは

分かる。この信仰が許されないのだから。

でも、そうではない信教の自由の中で、な

おも衰退していく大変困難な時代とは、一

体どういうことなのだろうか、と私自身は

思う。少なくとも、この「大変困難な時代」

とは外部からの力によるのではなくて、内

部、つまり、私たち自身の内に問題があ

るからではないか、と。

 この「大変困難な時代」の中で、私たち

は何を感じているのだろうか。無力です。

無力感です。ウクライナとロシアの戦争は

一向に終わらない。ガザでの虐殺、非人道

的な行為も終わらない。現地の子どもたち

の映像を見て、我が子を失って泣き叫ぶ母

親たちの姿を見て、胸が裂けそうになる。

どちらも、大なり小なり私たちと同じキリ

スト教の信仰を持つ人々が関わっている。

なのに、なぜ止めないのか、止めさせられ

ないのか、と苛立ちも覚える。そのために

私たちも祈っています。世界中の人々も祈っ

ているでしょう。なのに、一向に改善の兆

しが見えない。信仰って何だろう。祈りっ

て何だろう。本当に意味があるのだろうか。

本当に神さまはおられるのか。疑いたくも

なる。そればかりでもない。日常の中で、

生活の様々な局面で無力さを感じる。どう

して喧嘩を止められないのだろう。どうし

てもっと優しくできないのだろう。どう

て赦せないのだろう。どうしてあの人を助

けることができないのだろう。どうしてあ

の人の病いの苦しみを取り去れないのだろ

う。どうしてあの人の生活を改善してあげ

られないのだろう。したいことはいっぱい

あるのに。もっと力があればいいのに。

どうして、どうして。無力感でいっぱい

になる。それが、私たちの偽らざる気持ち

なのではないだろうか。そして、それが、

逆にますます私たちの信仰の力を削ぐこと

になってしまっているのではないだろうか。

 今日の福音書の日課は、たびたび触れら

れてきたと思いますが、イエスさまの「告

別説教」と言われるものの一部です(ちな

みに、この「告別説教」は13章から17章に

まで及びます)。弟子たちは、それまで

はある種の「万能感」、イエスさまの弟

子であるという万能感を持っていたのでは

ないか、と思うのです。自分たちの力では

ないのに、イエスさまの側にいるというこ

とで、自分たちにできないことはない、と

勘違いしていたのではないか。それも分か

らなくもない。悪霊も出ていくし、病人は

元気になるし、当時の権力者・宗教的指導

者たちをギャフンと言わせるしで、俺たち

に敵なし、と勘違いしても、仕方がなかっ

たかもしれません。ひょっとして、先生・

イエスさまさえいてくれれば、あのローマ

にだって勝てるかもしれない、と思ってい

たのかもしれない。まさに、我が世の春で

す。しかし、突然、イエスさまがご自分の

身に起こるご受難について語られるように

なった。もちろん、弟子たちは受け入れら

れません。そんなことあるはずがない、と

思い込んでいた。しかし、いくら鈍い弟子

たちであっても、だんだんと雲行きが怪し

くなってきていることは感じ始めていたの

でしょう。どうやら、今まで通りとはいか

なくなるかもしれない、と。そこに「告別

説教」です。ご自分の死を前提として、別

れの言葉を語られはじめられた。もちろん、

弟子たちはその全てを理解できたわけで

ないでしょうが、徐々にその深刻さを受け

止め始めていた、と思います。ですから、

イエスさまはこの「告別説教」で、何度も

「心を騒がせるな」と語られた。弟子たち

の心が騒いでいたからです。あるいは、こ

うも言われている。16章5節、「今わた

しは、わたしをお遣わしになった方のもと

に行こうとしているが、あなたがたはだれ

も、『どこへ行くのか』と尋ねない。むし

ろ、わたしがこれらのことを話したので、

あなたがたの心は悲しみで満たされている。」

イエスさまが天の父なる神さまの元に帰ら

れると言った時、誰も「どこへ行くのか」

と尋ねなかった、と言います。ある方は、

この時、もう弟子たちは尋ねる気力も失っ

ていた、と言います。そうかもしれません。

だんだんと弟子たちも、ただ事ではないこ

とを悟り始めていた。それでも、力を振り

絞って、たとえ死ぬことになってもあなた

に従う、と言ったのです。それが彼らのプ

ライドだったかもしれない。しかし、その

後の弟子たちがどうなったかはお分かりで

しょう。皆イエスさまを見捨てて逃げてし

まった。ペトロは3度もイエスさまを知ら

ない、と言ってしまった。そして、イエス

さまの死に目に立ち会おうともしなかった。

イエスさまが死なれた後は、ユダヤ人たち

を恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもってい

た。ヨハネ20章19節以下に記されている通

りです。私は、これらは弟子たちの自信喪

失の物語りとも思っています。最初自信

満々だったにに、だんだんとその自信がは

ぎ落とされ、全てを失い、無力感に苛まれ

る物語。ですから、そもそも教会の歴史、

信仰の歴史はそこからはじまったと言って

も良いと思うのです。全てを失い、無力感

からはじまったのが、私たち信仰者の、

教会の歴史のはじまり・・・。つまり、死

と復活、喪失と再生の歴史です。自分に死

に、神さまの力、恵みだけが鮮明にされて

いく物語・・・

 今日の日課について、たびたびご紹介し

ています雨宮慧神父が興味深いことを記し

ておられますので、少しご紹介したいと

います。「『告別説教』と呼ばれるイエスの

言葉がいよいよ終わりに差し掛かったとき、

イエスは弟子たちに『言っておきたいこと

は、まだたくさんあるが、今、あなたがた

には理解できない』と言います。『理解で

ない』と新共同訳が訳した語は、直訳する

と『担えない』あるいは『耐えられない』

となります。ここでは『聞いて理解するこ

とに耐えられない』の意味であれば、弟子

たちはイエスの言葉を理解する力を欠いて

いるということになります。新共同訳はこ

の意味にとっています。しかし、『イエス

言葉がやがてひき起こすことになる迫害に

耐えられない』の意味にもとることができ

ます。この場合は、弟子たちはイエスの言

葉は理解できるけれども、その結果を恐れ

て担うことができない、という意味になり

ます。おそらく、ここでは両方の意味が響

いており、弟子たちは十分な意味において

イエスの言葉を理解できないだけでなく、

イエスの言葉を運び続ける勇気にも欠けて

いることを表していると思われます。だか

らこそ、イエスは弟子たちのために『聖霊』

が遣わされることを約束します。」

 先ほど、イエスさまの十字架後の弟子た

ちの様子に触れましたが、これは弟子たち

にとっての最大の危機と言えるでしょう。

全てを失ったのですから。自信も、プライ

ドも、今まで持っていた信仰も、確信も、

希望も、イエスさまの死とともに全てを失っ

てしまった。もう生きる力も、立ち上がる

力もないに等しい。逃げることによって、

隠れることによって、閉じこもることによ

て、命は助かったかもしれない。しかし、

弟子としては、キリスト者としては、完全

に死んだのです。なぜか。彼らがイエスさ

まの言葉にしっかりと立ってはいなかった

からです。イエスさまのお言葉ではなくて、

自分の信念、信心、理解に頼っていた。

だから、潰れた。自分たちの理解を超えた

イエスさまの死に。しかし、それで終わら

なかった。幸いにして、復活のイエスさま

が訪ねてくれた。そして、平安を与え、赦

しを与え、聖霊を与えてくれた。だから、

彼らは立ち上がることができた。死んでい

たのに、復活することができた。みな、神

さまの、イエスさまの、聖霊のおかげです。

 現代の大変困難な時代に生きる私たちは、

ひょっとしたら、そんなプロセスすら忘れ

てしまっているのかもしれません。復活す

るためには、まず死ななければならない、

というプロセスを。回復するためには、無

くしてしまわなければならないものがある、

というプロセスを。神さまが神さまである

ためには、イエスさまがイエスさまである

ためには、この恵みと力とが大いに発揮さ

れるためには、消してしまわなければなら

ない己自身がいるのかもしれない。そこを

すっ飛ばそうとするから、楽をしようとす

るから、かえって私たちは大切なものを、

力を、見失うことになっているのかもしれ

ない。

 私たちがこの大変困難な時代に立ち向か

うには、信仰の新鮮な喜びを取り戻すこと

に懸かっているのかもしれません。そのた

めには、死んで復活するしかない。己に死

んで、ただ神さまを頼るようになるために。

そこに、神さまの力を体験する術がある。

第二コリント1章8節から、「兄弟たち、ア

ジア州でわたしたちが被った苦難について、

ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐え

られないほどひどく圧迫されて、生きる望

みさえ失ってしまいました。わたしたちと

しては死の宣告を受けた思いでした。それ

で、自分を頼りにすることなく、死者を復

活させてくださる神を頼りにするようにな

りました。神は、これほど大きな死の危険

からわたしたちを救ってくださったし、ま

た救ってくださることでしょう。これから

も救ってくださるにちがいないと、わたし

たちは神に希望をかけています。」

 これも、私たちの力でするのではありま

せん。私たちの熱意や熱心さでもありませ

ん。ですから、なんら誇れないのです。そ

うではなくて、ただただ父なる神と子なる

神と聖霊なる神が、私たちが信じる三位一

体なる神が、ご自身の愛ゆえにしてくださ

います。