2021年4月26日月曜日

5月2日(日)復活節第5主日礼拝のご案内

 お知らせ  礼拝中止!!!

5月9日まで、礼拝は中止し家庭礼拝とします。

皆様、ステイホーム・マスク着用を心がけてください。






(新約聖書)使徒言行録

           8章26節~40節

(新約聖書)ヨハネの手紙(一)

              4章7節~21節  

(新約聖書)ヨハネによる福音書 
              15章1節~8節



        


『 ぶどうの木 』 筑田 仁 牧師

2021年4月19日月曜日

4月25日(日)復活節第4主日礼拝のご案内

           お知らせ  礼拝中止!!!

5月9日まで、礼拝は中止し家庭礼拝とします。

皆様、ステイホーム・マスク着用を心がけてください。




(新約聖書)使徒言行録

            4章5節~12節

(新約聖書)ヨハネの手紙(一)

               3章16節~24節  

(新約聖書)ヨハネによる福音書
               10章11節~18節
わたしは良い羊飼いである。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

        








2021年4月11日日曜日

4月18日(日)復活節第3主日礼拝のご案内

お知らせ  短縮礼拝!!!

新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
マスクを着けて、ぜひお出かけください!

4月11日(日)教会の近く、横河川の桜が満開です。信者の方が画像を送ってくださいました。



(新約聖書)使徒言行録 

           3章12節~19節

(新約聖書)ヨハネの手紙(一)

             3章1節~7節  

(新約聖書)ルカによる福音書
            24章36節b~48節
あなたがたはこれらのことの証人となる。
わたしは、父が約束されたものをあなた方に送る。
高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

        

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

                          アーメン

「いつまでむなしさを愛し、偽りを求めるのか。」

今日の讃美唱、詩編の4編の言葉です。

  むなしさ、私たちはこのむなしさに捉われてしまいます。躓きと、困難の中を歩く人生において、一時的に自分の心を満たしてくれるものに心を捉われるのです。これはむなしいものだと分かっていても、この渇いた心を一時でも満たしてくれるものなら良いとばかりに、快楽や、安易に手に入るものに心を奪われてしまうのです。この詩編記者の言葉は私たちの事実、そしてある面、人間の真実を表しているのです。「いつまでむなしさを愛し、偽りを求めるのか。」

 弟子たちもそうであったかもしれません。主イエス・キリストは復活した後、何度か女性たちを通して、弟子たちにその復活を伝えていたのです。しかし、今日の福音書では、復活の主イエスに実際に出会っても、弟子たちの心は主を迎えることができませんでした。今日の福音書の37節。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と書かれています。

 むなしさを愛し、偽りを求める心。この心の暗闇に支配され、弟子たちは主イエスの復活を、その事実を受け入れることができなかったのです。たとえ主イエスと3年間、宣教の旅をしてきた弟子達であったとしても、この主イエスのメッセージの核心部分が見えなかったのです。主イエスは死んでしまった。所詮、主イエスなんて預言者の一人でしかなかった。彼は、ユダヤ社会で期待された人であったけど、結局、私たちの期待に応えるような人物ではなかった。私たちは、この人生を諦め、どうせこの世界には失望しかないのだと、呟いて終わってしまうのです。私たちは、先ほどの詩編4編の言葉の通り、むなしさを愛します。主イエスの復活が見えなくて、自信喪失、そして自暴自棄になってしまうのです。主イエスのメッセージの核心部分を掴みそこなってしまうのです。

 しかし、主イエスのみ言葉は、この失望から違う視点を与えてくれるのです。それは45節。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と書かれています。注意深く読んでみると、主イエスは、私たちの心の目を開くと、書かれているのです。キリストが頑固で、物わかりの悪い私たちの目を開いてくださるのです。

 キリストに目を開かれ、そして開かれたことによって私たちの人生が少しづつ変えられていくと言えるのではないでしょうか。むなしいものにとらわれて、人生を悲観していた私たちです。しかし、復活のキリストによって、もっと人生を活き活きと生きて、もっと希望や望みと共に、この人生を展望できるようになるのではないでしょうか。

 この世界はただの世界ではありません。甦られたキリストが支配する世界に私たちは生きているのです。神から与えられた私たちのいのちそのものは今、活き活きと保たれ、私たちは大自然や動物や植物の背後にも、神の姿を見出していけるのです。

 ここそこに、いたるところに、主イエスの復活の片りんを、輝くかけらを、見出していくことができます。私たちは、希望と共に、この秩序に保たれた世界の中で生きていくのです。私たちは、もっと顔を上げ、前を向いて歩いても良いのです。

今日の福音書の47節ではこう書かれています。

「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」

 キリストの復活を通して生きる力を与えられ、そこから慰めを見出し、私たちはこの世界に送り出されていきます。キリストの使者として、キリストの復活を伝える伝道者として、私たちはこの世界に派遣されていくのです。むなしさと偽りがまかり通る世界の中で、望みに生き、慰めを語る者として少しづつ変えられて、私たちはこの世界に押し出されていくのです。皆さん、主イエスの復活から世界を見てみるならば、この世界は穏やかで、もっと平らかな地平が広がっているのではないでしょうか。 

 キリストの証人、証し人として生きること、それは、この世界は神が支配したもう世界であり、甦りの主イエスの片りんが、ここそこに見られる世界に生きることです。私たちはむなしさ、偽りに固執してしまうときもあります。しかし、この世界は復活の主が支配したもう世界です。望みと慰めのある世界なのです。私たちは人生を深く肯定して、人生を深く受け入れて、波乱にみちた人生だったとしても、復活された主イエスと共に生きていく道を歩こうではありませんか。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。             アーメン 

       

2021年4月4日日曜日

4月11日(日)復活節第2主日礼拝のご案内

             お知らせ  短縮礼拝!!!

新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
マスクを着けて、ぜひお出かけください!

先週4月4日は、復活祭(イースター)でした。
イースターエッグ

1年ぶりの聖餐式

コロナ禍で、少ない出席者ですが、
イースターを迎えると、この寒い諏訪にも
春がやっていいたのを感じます。


(新約聖書)使徒言行録

            4章32節~35節

(新約聖書)ヨハネの手紙(一)

              章1節~2章2節  

(新約聖書)ヨハネによる福音書
              20章19節~31節
あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

       



牧師のコラム

~律法と福音~
 牧師になり3年目を迎えている。これまで2年間ははやく過ぎていった。説教をする者になり、覚束ないままで今日まで歩いてきた。1年目の説教は無我夢中であった。おそらく的を射ていない説教が大半であったことだろう。2年目は、ようやく自分のカラーが出て来た。筑田らしい、筑田の心の深みからみ言葉が出て来たようにも思われる。
 しかし、問題もある。それは、律法である。 私の語る言葉に律法が直接的に出てくるのではない。私の語るみ言葉のその奥に潜んでいる律法的な捉え方が出てくるのである。~であるべきという捉え方が、この口から出るみ言葉の端々に見受けられるのである。
 私はルター派の牧師である。この口からは、福音の軽やかな調べが出てこないとならない。しかし、私の口からは律法的で自分をがんじがらめにする言葉しか出てこないのである。福音によってこの魂が解放されていない。この魂は、主イエス・キリストによって自由に解放されていないとも言える。これだけは仕方がない。これまで、自分を縛り付ける言葉によって50年間生きてきたからである。
 この事実とこれまでの人生を、簡単に変えることはできない。私が福音を語れるようになるには、これからも福音に取り組み、主イエス・キリストと正面から向き合うことしかない。福音によって、この魂が解放されるまで取り組まなければならないのである。おそらくこれから最低10年はかかるであろう。これが、ルター派の牧師のため息である。
 律法と福音。この神学的なテーゼは、実は個人の信仰と魂の深みにある根本的なところにまで関係しているのである。