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(新約聖書)使徒言行録
4章32節~35節
(新約聖書)ヨハネの手紙(一)
1章1節~2章2節
(新約聖書)ヨハネによる福音書
20章19節~31節
牧師のコラム
~律法と福音~
牧師になり3年目を迎えている。これまで2年間ははやく過ぎていった。説教をする者になり、覚束ないままで今日まで歩いてきた。1年目の説教は無我夢中であった。おそらく的を射ていない説教が大半であったことだろう。2年目は、ようやく自分のカラーが出て来た。筑田らしい、筑田の心の深みからみ言葉が出て来たようにも思われる。
しかし、問題もある。それは、律法である。 私の語る言葉に律法が直接的に出てくるのではない。私の語るみ言葉のその奥に潜んでいる律法的な捉え方が出てくるのである。~であるべきという捉え方が、この口から出るみ言葉の端々に見受けられるのである。
私はルター派の牧師である。この口からは、福音の軽やかな調べが出てこないとならない。しかし、私の口からは律法的で自分をがんじがらめにする言葉しか出てこないのである。福音によってこの魂が解放されていない。この魂は、主イエス・キリストによって自由に解放されていないとも言える。これだけは仕方がない。これまで、自分を縛り付ける言葉によって50年間生きてきたからである。
この事実とこれまでの人生を、簡単に変えることはできない。私が福音を語れるようになるには、これからも福音に取り組み、主イエス・キリストと正面から向き合うことしかない。福音によって、この魂が解放されるまで取り組まなければならないのである。おそらくこれから最低10年はかかるであろう。これが、ルター派の牧師のため息である。
律法と福音。この神学的なテーゼは、実は個人の信仰と魂の深みにある根本的なところにまで関係しているのである。
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