2020年5月31日日曜日

6月7日(日)三位一体主日礼拝のご案内

お知らせ  礼拝再開!!!

新型コロナウィルス感染に十分気をつけながら、

礼拝を再開いたします。ぜひお出かけください!



(旧約聖書)創世記           1章1節~2章4節b

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(二)

                    13章11~13

(新約聖書)マタイによる福音書    28章16節~20節



わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。

   『 世の終わりまで 』 筑田 仁 牧師

5月31日(日)聖霊降臨祭礼拝のご案内

お知らせ  礼拝再開!!!

新型コロナウィルス感染に十分気をつけながら、

礼拝を再開いたします。ぜひお出かけください!



(旧約聖書)使徒言行録         2章1節~21節

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一)

                     12章3b~13

(新約聖書)ヨハネによる福音書    20章19節~23節

聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は許される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、許されないまま残る。

   『 聖霊が降る 』 筑田 仁 牧師

2020年5月23日土曜日

5月24日(日)主の昇天主日礼拝のご案内

お知らせ  礼拝再開!!!

新型コロナウィルス感染に十分気をつけながら、

礼拝を再開いたします。ぜひお出かけください!



(旧約聖書)使徒言行録         1章1節~11節

(新約聖書)エフェソの信徒への手紙  1章15~23

(新約聖書)ルカによる福音書     24章44節~53節


キリストの昇天
ルカ・デッラ・ロッピア 1450年頃
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ)


   『 キリストとの交わり 』 筑田 仁 牧師

2020年5月15日金曜日

5月17日(日)復活節第6主日の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。


(旧約聖書)使徒言行録        17章22節~31節

(新約聖書)ペトロの手紙(一)   3章13~22

(新約聖書)ヨハネによる福音書   14章15節~21節

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。
あなたがたのところに戻って来る。

   『 聖霊の希望とともに 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。   アーメン

主日礼拝が家庭礼拝になって3ヶ月になります。この切迫した状況の中で、私は信徒の方々から近況報告を聞きます。大変ありがたい報告です。一人一人がよく家庭礼拝を守ってくださっています。一人での祈りのとき、家族での祈りのときを、説教原稿や讃美歌や教会の祈りを用いて守って下さっています。その報告に私自身も慰められ、励まされ、そしてなんとかこれまで歩んでこられました。キリスト者の歩み、それは交わりの歩みと言えるでしょう。
礼拝そのものも、私達のルーテル教会では会衆の交わりと祈りの中で行なうものです。牧師一人の働きでは、聖餐式を行う際、パンとぶどう酒をキリストの現臨を指し示すものとはならなのです。いわゆるパンとぶどう酒の変化は会衆の祈りの中で、聖霊の助けをかりて行われるものです。
私達の信仰の歩みは交わりの中で支えられ、守られるものです。キリスト者相互の交わりの中で、またいのちのみ霊である聖霊との交わりの中で、私たちは日々の生活を生きていくのです。生活の様々なところで、私たちは神のみ声に従っていきたいと思います。今日も聖書のみ言葉に耳をすませていきましょう。
感染症が広がっています。この感染症は私たちにとって最も手痛い一撃を与えています。それは他者との、隣人との、「交わり」を壊すことです。飛沫感染、接触感染。感染症は、私たちが隣人とのふれあいを保って生きているこの社会の中で、交わりそのものを断ってしまうことを広げているのです。私たちにとって、隣人との交わりは、いのちと生活に直接かかわることです。私たちの弱点、ウイークポイントをこの感染症はついてくるのです。
主イエス・キリストは、ご自身の召天の後、聖霊を送ることを今日の福音書で話されます。この社会で交わりが途絶え、人と人との関わりが希薄になっている時に、まさにいのちのみ霊、聖霊が私たちに降ってくると約束されるのです。この世はそれを理解できないと主は言われます。ここで、ヨハネによる福音書1417節。
「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」
ここで「世」という言葉は、この世に暮らす人々と、その人々を支配しようとする悪の勢力のことを意味しています。悪の勢力というものがあることを聖書はみているのです。感染症が悪の勢力に該当するかどうかは、後の歴史家の判断に委ねなければなりません。安易な感染症の信仰的な理解と判断は避けなければなりません。私たちは、感染症の意味を内心問いつつも、もう少し長い目でこの推移を見守る必要があるでしょう。
主イエスは聖霊を弟子たちに送ることを伝えます。ヨハネによる福音書1416節。
「父は別の弁護者を遣わせて、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」
主は、永遠に私たちと一緒にいて下さる弁護者を送ると言います。この弁護者は、もともとのギリシャ語を調べると「慰める」、「守る」、「勇気づける」という意味があります。困窮した状況にいる者達を慰めてくださる、力づけてくださる、そのような神のみ霊を主イエスは送って下さると言うのです。
そのみ言葉を受けて、聖霊が、キリストに生きる私たちの傍らにいます。たとえ感染症がどんなに広がっても、私たちには決して途絶えることのないいのちのみ霊の臨在があるのです。私たちを包み込み、この心の底にある深いうめき、嘆きを聞いてくださり、慰めて下さる方がそばにいるのです。聖書をもっと読んでみるならば、そのみ霊は私たちの魂の内におられると書かれています。ヨハネによる福音書1417節。
「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである。」
み霊によって私たちのいのちは支えられ、神への信仰を保たれています。私たちは実際には浅い祈りしかできません。魂の深みから神に真心の祈りを捧げたいと、日々願うけれども、実際には、軽い言葉しかこの魂から出てこないものです。しかし、聖霊は、この魂の深みにいて下さり、言葉にならない私たちの思い患いを、うめきと嘆きを、神に取り次いでくださるのです。この聖霊の働きに導かれるままに、私たちは祈りの日々をこれからも続けていきたく思うのです。
社会のあり様が大きく変わろうとしているこの状況において、私たちはみ霊が、新しく降ってくださることを信じていきたく思います。閉塞感ばかりではないのです。この状況から新しい何かが生まれてくるきざしがあり、そこで一番原動力となるのはみ霊の働きです。社会を、人間を、根本から変えるあり方が、み霊の存在とその働きによって起こってくると言えるでしょう。
感染症は、私たちの日々の生活に大きな影を落としています。人と人との触れ合いができない状況を生み出しています。この苦境を越えて、聖霊が、キリストの霊が、働き出しています。新型コロナウイルス以降の世界を目指して、いのちのみ霊は、人間の社会に新しい何かをもたらすはずです。
主イエス・キリストは、聖霊において、私たちの社会を導いておられます。軽率に時代に流されることなく、しかし、主イエスのもたらす新しい始まりを受け入れていきたく思います。悲嘆に沈むことなく、この社会の行く末に希望を抱きたく思います。
今日も、私たちは家庭礼拝で祈りのひと時を持ちました。私たちのか細い祈りの声に、聖霊の祈りが重なり、その祈りは広がるように神へと繋がっていくのです。聖霊が、私たちの魂の中心で祈っておられます。
私たちは感染症が落ち着いた後の新しい生活に向けて、聖霊の働きの中で希望を失うことなく祈り続けていきたいと願います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                   アーメン

2020年5月10日日曜日

5月10日(日)復活節第5主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。


(旧約聖書)使徒言行録        7章55節~69節

(新約聖書)ペトロの手紙(一)   2章2~10

(新約聖書)ヨハネによる福音書   14章1節~14節

心を騒がせるな。神を信じなさい。
そして、わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住むところがたくさんある。
もしなければ、あなたがたのために
場所を用意しに行くと言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、
戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
こうして、わたしのいる所に、
あなたがたもいることになる。

   『 心を騒がせるな 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。 

「心を騒がせるな。」ヨハネによる福音書141節の言葉です。この言葉は主イエス・キリストが弟子たちにお別れの説教をする中で言われたものです。キリストは頼りない弟子たちの言動を見つめ、「心を騒がせるな」と言われたのです。しかし、それだけではありません。キリストはご自分の十字架と復活を視野にいれて、自分自身に語りかけるように「心を騒がせるな」と言われたのではないでしょうか。主イエス・キリストの中に、これから自分が飲まなければならない杯が見えていたのです。律法学者や時の為政者から処罰され、弟子たちに見捨てられ、主にとってこの先にあるのは十字架です。この苦難の杯を飲むことになるということに主イエス・キリストは心を騒がせ、自分の心の動揺に向き合わなければならなかったのです。
 だれもが自分の弱さと向き合わねばなりません。この社会情勢の中で、孤独で、頼りなく、覚束なく歩まざるをえない自分と向き合わなければならないのです。しかし、主イエス・キリストご自身も、強い説教口調の裏側で、自分の弱さと向き合っていたのです。このことは慰めであります。キリストは、弱い自分自身と向き合い、自分の内面を深く掘り下げつつ見つめていたと思われるのです。
 今日の福音書は、十字架への道のりの途上での記述です。福音の大切なエッセンスが語られています。今日のみ言葉に耳を傾けていきましょう。
 キリストの弟子たちを、ある人はこのように形容します。「愚か者である」と。私たちは、弟子たちを見てみると確かに頼りなく、主イエスのご生涯を全く理解していなく、その場限りの言動が多いように感じてしまいます。しかし、よくよく読んでみるとき、実は私たちと何の変わりもないことに気づかされます。主が今日の福音書で、十字架と復活、再臨を暗にほのめかします。それに対するトマスの反応はこのような言葉でありました。ヨハネによる福音書145節。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。」
単純で、素朴な答えです。しかし、キリストが弟子たちの足を自ら洗ったり、一人の弟子の冷酷な裏切りを予告する状況です。主は、「わたしの行く所に、あなたは今、ついて来ることはできない」と意味不明のことも言われます。弟子たちは、キリストの言われることの全てを理解するまでにはいかなくても、ほんの僅かでも自分が理解している主の言葉を、励まし、慰めとしてこれまで受け入れてきたのです。確かに、いたらない弟子であるかもしれない。しかし、主と生活を共にし、この3年間無我夢中で歩いてきました。弟子たちのその単純素朴な心と信仰は、私たちにも通じるものがあるのはないでしょうか。
今日の福音で、キリストはその勘違いばかりの弟子たちに言われます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことはできない。」
キリストが、道であると言うのです。キリストがあなたと共に歩んでいる。その人生が、キリストと共なる人生が、道であると言うのです。あなたはすでに神を見て、神と共に生きている。キリストと共に歩む人は、まさに神と共に歩む人であり、神と一つであるとも言われるのです。キリストは、神の私たちへの深い臨在を説かれるのです。
また、キリストは、命である私を信じるか、と言われます。私がラザロを復活させたときのことを思い起こすがよい。死んだラザロに命の息を吹き込んだのは、他の誰でもない私である。私は、この世と、死後の世界の全てを治めている。私は人間に命を吹き込むこともできれば、逆に、命を奪うこともできる。すべての命は私の手にあるのだ。この事実をあなたは信じるか、と主は言われるのです。
弟子達のキリストへの誤解、無理解、勘違い。これは今に始まったことではありません。弟子たちは、私たちと同じなのです。キリストを分かっているようで、分かっておらず、ほんの少しキリストを理解できたと言っては、ぬかよろこびで喜んでいるのです。
その弟子達の歩みに、キリストは共におられると宣言されます。キリストが道であり、真理であり、復活の命であると言うのです。私に信頼して、そのいのちの歩みを続けるがよいと、主は言われます。あなたはわたしの復活のいのちに今、生かされ、あなたは神と共に人生を歩んでいる。神が一緒に歩んでいる以上、あなたは安心してこれからも生きていきなさい、主イエスはそのように語っているのです。
最後に、主イエス・キリストの抱えた孤独というものがもしあるならば、今、この福音書でそれがあらわれているようにも思われます。苦難の十字架と復活への道をたどって行こうとされる主イエス・キリスト。その道は孤独で、誰にも理解もされず、寂しさに押しつぶされそうにご自分の道を歩まれていく、そのように私には思われます。
冒頭で、キリストはご自分の弱さと向き合ったと言いました。自分の抱える弱さ、嘆き、悲しみと向きあいつつキリストはその人生を歩まれたのではないでしょうか。
その他方で、逆説的ですが、キリストは、どれだけ弟子たち、人々とのその人生を、その時々の語らいと交わりを楽しんだことでしょう。孤独であるからこそ、人々との交わりに慰められ、力を与えられて、主は、30年の短い激動のご生涯を、神への信仰と共に貫かれたのです。それは十字架と甦りの道でした。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」弱い私達を支える力強いみ言葉です。弟子たちだけではなく、それぞれが、神の臨在と共に歩みを続けているのです。新型コロナウイルスという見えない敵との戦いの中で、私たちは疲れを覚えるときもあるかもしれません。それでも、キリストの臨在の中で神の道を歩みつつ、そしてキリストにあらわれている真理の力を信じ、最後に、キリストの復活に私たちの命の希望を抱きつつ、今週一週間を力強く歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                      アーメン

2020年5月5日火曜日

5月3日(日)復活節第4主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。


(旧約聖書)使徒言行録        2章42節~47節

(新約聖書)ペトロの手紙(一)   2章19~25

(新約聖書)ヨハネによる福音書   10章1節~10節


わたしは門である。
わたしを通って入る者は救われる。
その人は、門を出入りして牧草を見つける。
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために他ならない。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

   『 良い羊飼いのもとで 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

エゼキエル書の言葉を聞いて下さい。エゼキエル書3414節からです。
「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼等の牧場となる。…わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ出し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」
預言者エゼキエルは、バビロン捕囚で連行された先の土地で、神の言葉を語ります。南王国ユダは隣国バビロニアとの戦争で、多くの民が亡くなり、敵国に連れていかれたのです。いわゆるバビロン捕囚です。その捕囚先で、悲しみと失意の底にある民に、慰めの言葉を語るのが、預言者エゼキエルです。
このみ言葉を通して、羊飼いである神が、羊であるあなたを慰め、いたわり、憩わせると言います。傷ついたあなたを包みこむと言うのです。その預言者のみ言葉は、民の心の悲しみを癒したことでありましょう。
主イエス・キリストご自身も、今日の福音書で自分が良い羊飼いであることを語ります。本日もみ言葉に聞いていきましょう。
新型コロナウイルス感染防止の生活の中で、私たちは閉塞感が漂う社会生活を送っています。今日は、この説教で一つ分かち合いたいことがあります。甲府・諏訪両教会では、31日から主日礼拝を家庭礼拝としています。もう、34月が過ぎて、5月に入りました。私は、牧師の職務に様々なことがありますが、その中で一番大切なことはまつりごとを司ることであると思っています。祭司の役割です。その意味で、主日礼拝が家庭礼拝になっていることに正直心苦しいものがあるのです。
先日、ある教会員の方から、このような言葉を聞きました。「先生、あそこの教会では、何がなんでも礼拝をするということで礼拝を守っていますよ」と。その時、聞き流した言葉でありました。しかし、実はこの言葉が私の心に突き刺さるかのように残りました。私の心の奥底には、公開礼拝ができない状況にもどかしい思いがあります。
公開礼拝ができないこと、それは教会で集団感染を防ぐためです。教会が、持病や、年齢を重ねておられる方々の感染源にならないためです。信仰的に、この状況であるからこそ、公開礼拝をしたく思うその気持ちはよく分かります。み言葉を生で聞きたい、信仰の糧を公開礼拝で得たい、何よりも毎週の公開礼拝は自分にとっていのちと人生に関わる大切なことである、その思いは私にもよく分かるのです。
しかし、私たちは、全国の諸教会に合わせて、先駆けて、公開礼拝を家庭礼拝というかたちにすることを信仰において選んできました。教会はある意味、社会的な存在です。緊急事態宣言が出されている状況の中で、今、集団になって公開礼拝をすることは社会的に問題があるのではないかと私は考えています。「何が何でも礼拝をする。」とても勇ましい礼拝態度である、信仰的であると言えるでしょう。私たちはそのような姿勢を尊重すべきです。しかし、他方で、私は公開礼拝を、私たちのいのちを守るために、家庭礼拝にすることも大切な選択肢の一つであると思うのです。
新型コロナウイルス感染拡大で混乱が続く中、今日のみ言葉で主イエス・キリストは、ご自分が羊の門であることを説教で語ります。私たちは、感染症が広がり、緊迫感が漂う社会の中で、主イエス・キリストご自身が私たち羊の門であり、牧者であることを今日のみ言葉から聞くことができるのです。
この感染症の拡大そのものが、今の私たちにとってどのような意味があるのかと問うてしまうときがあります。この感染症との戦いは長期戦です。先行きが見えない中で、自宅待機の生活を守らなければなりません。どこにも、意味が見だせない状況の中で、主イエスはご自分の羊たちにこのように語りかけるのです。ヨハネによる福音書1010節です。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」
不安と、動揺が隠せない私たちに、主イエスは自分がこの世界に来られた理由を語ります。それは、私たちがいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためであると言うのです。意味を見いだせない暗闇の中を生きている私たちに、それでもあなたは、本当のいのちを得て、この人生を豊かに生きることができると主は言います。もっと、あなたが自由になり、もっとあなたの悲しみが拭われ、いきいきと人生を生きていくことができるようになるため、そのためにキリストは来られたと言うのです。混乱に満ちた地上の世界を統べ治めておられるのは、良い羊飼い、つまり私たちの生きる希望であり、慰めの源である主イエス・キリストの父なる神です。
主イエスが世を照らす光としてこの世界におられ、私たちの傷ついた心と体に、憐れみに満ちたみ手を伸ばしてくださっています。たとえどんなに苦境の中にいても、まるで羊飼いとその羊の関係のように、主イエスは一人ひとりの羊に名指しで声をかけ、愛情をこめてのぞんでくださるのです。
一見、先行きが見えない社会状況の中で、主イエス・キリストが羊飼いとしてこの世を照らし、それぞれの人生に生きる望みと慰めを与えてくださいます。私たちはもっと前向きに、殺伐とした社会のその奥に広がる神の恵みの世界に目を留めていくたく思います。
私たちは、今の社会の現実に落胆だけで終わるのではなく、なおも羊飼い主イエスのみ声に導かれるままに信仰の歩みを進め、望みを抱いて生きていきたく願うのです。
預言者エゼキエルについて説教の始めに話しました。古く旧約聖書の時代から、神ご自身とその民を、羊飼いとその牧場の羊として、たとえることがあったのです。パレスチナの土地で、牧羊はそれだけ一般的でありました。預言者エゼキエルはバビロニアに捕囚されている民に対して、あなたの涙は他の誰でもない神が拭ってくださると、慰めと解放の言葉を語ったのです。その言葉は、民に新しい展望を与えたことでしょう。
教会の礼拝は、今、家庭礼拝となっております。家庭礼拝に於いても、罪を告白し、神を賛美・感謝する思いを大切にしたいと思います。
羊飼い主イエス・キリストは、この家庭礼拝の時にも、私たち羊を名指しで呼び、愛情を注いで下さるのです。
キリストが確かに、私たちのこの緊張した状況にも、憐れみをもって見守っていて下さることを信じ、祈り続けたく思います。聖書のみ言葉を通して羊飼いキリストの呼び声に従いつつ、この困難な状況を力強く乗り越えていきたい、そう祈ります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                   アーメン