2020年5月5日火曜日

5月3日(日)復活節第4主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。


(旧約聖書)使徒言行録        2章42節~47節

(新約聖書)ペトロの手紙(一)   2章19~25

(新約聖書)ヨハネによる福音書   10章1節~10節


わたしは門である。
わたしを通って入る者は救われる。
その人は、門を出入りして牧草を見つける。
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために他ならない。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

   『 良い羊飼いのもとで 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

エゼキエル書の言葉を聞いて下さい。エゼキエル書3414節からです。
「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼等の牧場となる。…わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ出し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」
預言者エゼキエルは、バビロン捕囚で連行された先の土地で、神の言葉を語ります。南王国ユダは隣国バビロニアとの戦争で、多くの民が亡くなり、敵国に連れていかれたのです。いわゆるバビロン捕囚です。その捕囚先で、悲しみと失意の底にある民に、慰めの言葉を語るのが、預言者エゼキエルです。
このみ言葉を通して、羊飼いである神が、羊であるあなたを慰め、いたわり、憩わせると言います。傷ついたあなたを包みこむと言うのです。その預言者のみ言葉は、民の心の悲しみを癒したことでありましょう。
主イエス・キリストご自身も、今日の福音書で自分が良い羊飼いであることを語ります。本日もみ言葉に聞いていきましょう。
新型コロナウイルス感染防止の生活の中で、私たちは閉塞感が漂う社会生活を送っています。今日は、この説教で一つ分かち合いたいことがあります。甲府・諏訪両教会では、31日から主日礼拝を家庭礼拝としています。もう、34月が過ぎて、5月に入りました。私は、牧師の職務に様々なことがありますが、その中で一番大切なことはまつりごとを司ることであると思っています。祭司の役割です。その意味で、主日礼拝が家庭礼拝になっていることに正直心苦しいものがあるのです。
先日、ある教会員の方から、このような言葉を聞きました。「先生、あそこの教会では、何がなんでも礼拝をするということで礼拝を守っていますよ」と。その時、聞き流した言葉でありました。しかし、実はこの言葉が私の心に突き刺さるかのように残りました。私の心の奥底には、公開礼拝ができない状況にもどかしい思いがあります。
公開礼拝ができないこと、それは教会で集団感染を防ぐためです。教会が、持病や、年齢を重ねておられる方々の感染源にならないためです。信仰的に、この状況であるからこそ、公開礼拝をしたく思うその気持ちはよく分かります。み言葉を生で聞きたい、信仰の糧を公開礼拝で得たい、何よりも毎週の公開礼拝は自分にとっていのちと人生に関わる大切なことである、その思いは私にもよく分かるのです。
しかし、私たちは、全国の諸教会に合わせて、先駆けて、公開礼拝を家庭礼拝というかたちにすることを信仰において選んできました。教会はある意味、社会的な存在です。緊急事態宣言が出されている状況の中で、今、集団になって公開礼拝をすることは社会的に問題があるのではないかと私は考えています。「何が何でも礼拝をする。」とても勇ましい礼拝態度である、信仰的であると言えるでしょう。私たちはそのような姿勢を尊重すべきです。しかし、他方で、私は公開礼拝を、私たちのいのちを守るために、家庭礼拝にすることも大切な選択肢の一つであると思うのです。
新型コロナウイルス感染拡大で混乱が続く中、今日のみ言葉で主イエス・キリストは、ご自分が羊の門であることを説教で語ります。私たちは、感染症が広がり、緊迫感が漂う社会の中で、主イエス・キリストご自身が私たち羊の門であり、牧者であることを今日のみ言葉から聞くことができるのです。
この感染症の拡大そのものが、今の私たちにとってどのような意味があるのかと問うてしまうときがあります。この感染症との戦いは長期戦です。先行きが見えない中で、自宅待機の生活を守らなければなりません。どこにも、意味が見だせない状況の中で、主イエスはご自分の羊たちにこのように語りかけるのです。ヨハネによる福音書1010節です。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」
不安と、動揺が隠せない私たちに、主イエスは自分がこの世界に来られた理由を語ります。それは、私たちがいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためであると言うのです。意味を見いだせない暗闇の中を生きている私たちに、それでもあなたは、本当のいのちを得て、この人生を豊かに生きることができると主は言います。もっと、あなたが自由になり、もっとあなたの悲しみが拭われ、いきいきと人生を生きていくことができるようになるため、そのためにキリストは来られたと言うのです。混乱に満ちた地上の世界を統べ治めておられるのは、良い羊飼い、つまり私たちの生きる希望であり、慰めの源である主イエス・キリストの父なる神です。
主イエスが世を照らす光としてこの世界におられ、私たちの傷ついた心と体に、憐れみに満ちたみ手を伸ばしてくださっています。たとえどんなに苦境の中にいても、まるで羊飼いとその羊の関係のように、主イエスは一人ひとりの羊に名指しで声をかけ、愛情をこめてのぞんでくださるのです。
一見、先行きが見えない社会状況の中で、主イエス・キリストが羊飼いとしてこの世を照らし、それぞれの人生に生きる望みと慰めを与えてくださいます。私たちはもっと前向きに、殺伐とした社会のその奥に広がる神の恵みの世界に目を留めていくたく思います。
私たちは、今の社会の現実に落胆だけで終わるのではなく、なおも羊飼い主イエスのみ声に導かれるままに信仰の歩みを進め、望みを抱いて生きていきたく願うのです。
預言者エゼキエルについて説教の始めに話しました。古く旧約聖書の時代から、神ご自身とその民を、羊飼いとその牧場の羊として、たとえることがあったのです。パレスチナの土地で、牧羊はそれだけ一般的でありました。預言者エゼキエルはバビロニアに捕囚されている民に対して、あなたの涙は他の誰でもない神が拭ってくださると、慰めと解放の言葉を語ったのです。その言葉は、民に新しい展望を与えたことでしょう。
教会の礼拝は、今、家庭礼拝となっております。家庭礼拝に於いても、罪を告白し、神を賛美・感謝する思いを大切にしたいと思います。
羊飼い主イエス・キリストは、この家庭礼拝の時にも、私たち羊を名指しで呼び、愛情を注いで下さるのです。
キリストが確かに、私たちのこの緊張した状況にも、憐れみをもって見守っていて下さることを信じ、祈り続けたく思います。聖書のみ言葉を通して羊飼いキリストの呼び声に従いつつ、この困難な状況を力強く乗り越えていきたい、そう祈ります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                   アーメン

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