お知らせ 本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の
ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。
(旧約聖書)使徒言行録 7章55節~69節
(新約聖書)ペトロの手紙(一) 2章2節~10節
(新約聖書)ヨハネによる福音書 14章1節~14節
心を騒がせるな。神を信じなさい。 そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住むところがたくさんある。 もしなければ、あなたがたのために 場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、 戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。 こうして、わたしのいる所に、 あなたがたもいることになる。 |
『 心を騒がせるな 』 筑田 仁 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
「心を騒がせるな。」ヨハネによる福音書14章1節の言葉です。この言葉は主イエス・キリストが弟子たちにお別れの説教をする中で言われたものです。キリストは頼りない弟子たちの言動を見つめ、「心を騒がせるな」と言われたのです。しかし、それだけではありません。キリストはご自分の十字架と復活を視野にいれて、自分自身に語りかけるように「心を騒がせるな」と言われたのではないでしょうか。主イエス・キリストの中に、これから自分が飲まなければならない杯が見えていたのです。律法学者や時の為政者から処罰され、弟子たちに見捨てられ、主にとってこの先にあるのは十字架です。この苦難の杯を飲むことになるということに主イエス・キリストは心を騒がせ、自分の心の動揺に向き合わなければならなかったのです。
だれもが自分の弱さと向き合わねばなりません。この社会情勢の中で、孤独で、頼りなく、覚束なく歩まざるをえない自分と向き合わなければならないのです。しかし、主イエス・キリストご自身も、強い説教口調の裏側で、自分の弱さと向き合っていたのです。このことは慰めであります。キリストは、弱い自分自身と向き合い、自分の内面を深く掘り下げつつ見つめていたと思われるのです。
今日の福音書は、十字架への道のりの途上での記述です。福音の大切なエッセンスが語られています。今日のみ言葉に耳を傾けていきましょう。
キリストの弟子たちを、ある人はこのように形容します。「愚か者である」と。私たちは、弟子たちを見てみると確かに頼りなく、主イエスのご生涯を全く理解していなく、その場限りの言動が多いように感じてしまいます。しかし、よくよく読んでみるとき、実は私たちと何の変わりもないことに気づかされます。主が今日の福音書で、十字架と復活、再臨を暗にほのめかします。それに対するトマスの反応はこのような言葉でありました。ヨハネによる福音書14章5節。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。」
単純で、素朴な答えです。しかし、キリストが弟子たちの足を自ら洗ったり、一人の弟子の冷酷な裏切りを予告する状況です。主は、「わたしの行く所に、あなたは今、ついて来ることはできない」と意味不明のことも言われます。弟子たちは、キリストの言われることの全てを理解するまでにはいかなくても、ほんの僅かでも自分が理解している主の言葉を、励まし、慰めとしてこれまで受け入れてきたのです。確かに、いたらない弟子であるかもしれない。しかし、主と生活を共にし、この3年間無我夢中で歩いてきました。弟子たちのその単純素朴な心と信仰は、私たちにも通じるものがあるのはないでしょうか。
今日の福音で、キリストはその勘違いばかりの弟子たちに言われます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことはできない。」
キリストが、道であると言うのです。キリストがあなたと共に歩んでいる。その人生が、キリストと共なる人生が、道であると言うのです。あなたはすでに神を見て、神と共に生きている。キリストと共に歩む人は、まさに神と共に歩む人であり、神と一つであるとも言われるのです。キリストは、神の私たちへの深い臨在を説かれるのです。
また、キリストは、命である私を信じるか、と言われます。私がラザロを復活させたときのことを思い起こすがよい。死んだラザロに命の息を吹き込んだのは、他の誰でもない私である。私は、この世と、死後の世界の全てを治めている。私は人間に命を吹き込むこともできれば、逆に、命を奪うこともできる。すべての命は私の手にあるのだ。この事実をあなたは信じるか、と主は言われるのです。
弟子達のキリストへの誤解、無理解、勘違い。これは今に始まったことではありません。弟子たちは、私たちと同じなのです。キリストを分かっているようで、分かっておらず、ほんの少しキリストを理解できたと言っては、ぬかよろこびで喜んでいるのです。
その弟子達の歩みに、キリストは共におられると宣言されます。キリストが道であり、真理であり、復活の命であると言うのです。私に信頼して、そのいのちの歩みを続けるがよいと、主は言われます。あなたはわたしの復活のいのちに今、生かされ、あなたは神と共に人生を歩んでいる。神が一緒に歩んでいる以上、あなたは安心してこれからも生きていきなさい、主イエスはそのように語っているのです。
最後に、主イエス・キリストの抱えた孤独というものがもしあるならば、今、この福音書でそれがあらわれているようにも思われます。苦難の十字架と復活への道をたどって行こうとされる主イエス・キリスト。その道は孤独で、誰にも理解もされず、寂しさに押しつぶされそうにご自分の道を歩まれていく、そのように私には思われます。
冒頭で、キリストはご自分の弱さと向き合ったと言いました。自分の抱える弱さ、嘆き、悲しみと向きあいつつキリストはその人生を歩まれたのではないでしょうか。
その他方で、逆説的ですが、キリストは、どれだけ弟子たち、人々とのその人生を、その時々の語らいと交わりを楽しんだことでしょう。孤独であるからこそ、人々との交わりに慰められ、力を与えられて、主は、30年の短い激動のご生涯を、神への信仰と共に貫かれたのです。それは十字架と甦りの道でした。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」弱い私達を支える力強いみ言葉です。弟子たちだけではなく、それぞれが、神の臨在と共に歩みを続けているのです。新型コロナウイルスという見えない敵との戦いの中で、私たちは疲れを覚えるときもあるかもしれません。それでも、キリストの臨在の中で神の道を歩みつつ、そしてキリストにあらわれている真理の力を信じ、最後に、キリストの復活に私たちの命の希望を抱きつつ、今週一週間を力強く歩んでいこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
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