2020年3月30日月曜日

3月29日(日)四旬節第5主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)エゼキエル記       37章1節~14節

(新約聖書)ローマ信徒への手紙   8章6~11

(新約聖書)ヨハネによる福音書   11章1節~45節


すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、
「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われた。


   『 ラザロの死 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 先日、諏訪教会教会員の望月雄光兄がお亡くなりになりました。私は、木曜日、金曜日と、大阪の方へ出向きまして前夜式、告別式を執り行ってきました。雄光兄は、以前、病気で倒れて右半身麻痺があり、福祉の施設で療養生活を送っていたのです。その福祉施設での生活は人知れず、困難や苦労があったのではなかろうかと私は思っていました。
今は、神様のみ許で安らかな眠りについている雄光兄。彼の人生を通して、私は人間の生老病死について改めて考える機会を与えられています。人が天に召されていくとき、それは残された人々に大きな宿題を与えるもののように思います。残された者は、正面から人間の生と死に直面し、考えなければならないのです。私は、望月雄光兄の残して下さった宿題、課題に向きあっていきたく思います。生きること、死ぬことの本質というものがもしあるのならば、私は、人生の全てを用いてそれを考えなければならないのです。
新型コロナウイルスの猛威が様々な面で影響を与えています。しかし、私たちは、この緊迫した日常生活の中で、自分の生と死を深く内省し、整理し、受け入れていく作業をしていきたく願います。人生で与えられている課題は沢山あります。一つひとつを丁寧に見て、考えていきたく思うのです。現在、私たちを取り巻く社会の中で、いたずらに社会の動向に流されることなく、しかし、この社会現象の底にあるものをしっかりと見極めて、この追い立てられるような世相を見ていきたく願います。
本日の福音書はヨハネによる福音書111節から45節までです。物語の主人公はラザロという男でした。このラザロの病と、死をめぐり、その姉妹であるマルタとマリアが出て来ます。このラザロ、詳しい説明は出てきませんが、一つだけ特徴があるのです。それは115節。
イエスは、マルタとその姉妹と、ラザロを愛しておられた。
ラザロは主イエスに愛された人間であったのです。主イエスはおそらく、ラザロへの愛と同じように、主の僕である私たち一人一人をも深く愛しておられると思います。私たち一人ひとりは、確かに、主イエス・キリストから愛されている者であります。それぞれが主イエス・キリストにとってかけがえのない人間でありましょう。
ラザロが死に瀕していました。もうそのいのちの限界でありました。姉妹であるマルタとマリアは泣き崩れます。主イエスと弟子たちが到着した時には、ラザロはもうすでに墓に葬られて四日もたっていました。マルタが、マリアが、それぞれ主イエスに訴えます。1121節。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
まことの救い主がこの世に到来しても、死は避けられない運命でした。死の力は、私たちの現実を確かに縛り付けて、私たちはどうにもできないのです。この死の力に私たちは直面しなければなりません。
しかし、ヨハネによる福音書は、ここで驚くべき、主イエス・キリストの行動を書いています。33節です。
「イエスは、一緒にいたユダヤ人たちが泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」と書かれています。35節には、「イエスは涙を流された」とも書かれているのです。
人間を覆う死の現実を目の前にして、救い主イエス・キリストもこの事実を変えることはできません。この人間を襲う悪魔的な力を目の前にして、主イエス・キリストも涙を流してしまうのです。ラザロの死、それは人間の力の敗北でありました。主イエス・キリストご自身もこの死の力に逆らうことはできませんでした。主イエス・キリストはこの敗北を目のまえにして、憤り、興奮し、涙を流されたのです。この世界の此岸では、この事実はどうにもならないのです。人間は死の力に屈服するほかないのです。
しかし、なのです。この此岸ではどうにもならない現実を覆すのが、主イエス・キリストという神のみ子です。40節と43節にこう書かれています。
「もし、信ずるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか。ラザロ、出て来なさい。
この世界の現実を越えて、彼岸から、向こう側から、私たちを囲む世界の外から、主イエス・キリストのみ声が響いてきます。私たちを取り巻くこの現実は何も変わりません。死が包むこの現実は何も変わらないのです。しかし、この私たちを、この惨めな姿のまま包み込むかのように、主イエス・キリストの宣言が、ラザロへの叫びが、この世界に響き渡るのです。死の暗闇を突き破る主イエス・キリストの力強い声が、「ラザロ、出て来なさい」という力強いその声が、私たちを包みこむのです。これは私たちに死人の復活の希望を与える主イエス・キリストのいのちの叫びです。
ラザロは生き返ったのです。キリストの叫びに答えるかのように、新しいいのちが与えられたのです。死に及んでも、尚、復活のいのち、永遠のいのちへの道がここにあるのです。ここに人間の希望があります。本当の慰めがあるのです。
私たちは、死と、暗闇の深い失望から、復活のいのちそして永遠のいのちへと、希望を繋いで生きていくことが赦されているのです。

ある方が、このように言われています。「人間は、いのちの短さ、長さではかられるのではない。大切なのは、そのいのちにどれだけ周りの人間が誠実に関わり、どれだけそのいのちが十全に生きたのかである。」
この言葉は慰めであります。人生は、いのちの短さ、長さで測られてはならないのです。いのちは時間で測られてはならないのです。大切なことは、どれだけ周りの人間が、その人のいのちに誠実に深くかかわったのか。そして、どれだけその人が十全に生きてきたのか、なのです。天に召された望月雄光兄は、その意味で、十全に生きてこられたのではないかと私は思います。
今日は、主イエス・キリストの叫びと、ラザロの甦りの話をしました。私たちは、キリストに招かれ、復活のいのちへの希望が与えられています。それは、春に芽吹く新芽のように始まっているのです。
このキリストにある永遠のいのちを信じて、今週一週間も神さまの深い愛と恵みに包まれて、信仰の歩みを進めていきたく願います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                   アーメン 

2020年3月22日日曜日

3月22日(日)四旬節第4主日の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)サムエル記 上      16章1節~13節

(新約聖書)エフェソ信徒への手紙  5章8~14

(新約聖書)ヨハネによる福音書   9章1節~41節

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。」

   『 神の業 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の使徒書はエフェソの信徒への手紙です。とても大切な記述がこのエフェソの信徒への手紙の中に残されています。エフェソの信徒への手紙514節です。
 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
 この記述は初代キリスト教共同体で、洗礼を授ける時に言われていた言葉であるようです。洗礼を受けること、このことはまさに眠りの中にある者が、死から起こされ、復活したキリストの溢れるいのちに与かることと言えるでしょう。キリストにある者は、自らの罪に死んだ後、キリストの贖いの十字架を通して、新しくキリストのいのちに生かされる者とされるのです。
洗礼のことを指し示して、「re-born」と言うときがあります。この言葉の意味は再び生まれる、再び生まれかわるということです。キリストのいのちにのみこまれること。聖霊の働きにおいて、新しい者とされていくこと。ここに私たちのひとすじの望みがあります。深い失望で決して終わらないキリストのいのちへの希望があるのです。キリストにおいて、すでに新しいいのちが始っている。春のきざしが最近見受けられるようになってきましたが、小さな芽が少しづつ花開いていくのと同じように、私たちの生にも、新しい何かが始まっている。
キリストにあって新しく生かされること、これは洗礼における神のみ業と言ってもいいのです。この神のみ業を信じて、今日もみ言葉に耳を傾けていきたく思います。

今日の福音書は生まれつきの盲人の開眼がテーマになっています。主イエスと弟子たちが宣教活動の途中で盲人を見かけるのです。弟子たちが思わず、主イエスに訪ねます。ヨハネによる福音書92節。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
思わず出てきたこの言葉には、現代にも通じる、障害をもっている方への偏見、誤解が表れているように思います。つまり、障害や病は、罪の結果であるというものです。そして、その罪は、本人や両親が犯したゆえのものであるというのです。私たちは、このような捉え方を、昔の時代で言われていたものとして片付けることができるでしょうか。この障害者への差別的な見方、偏見は現代においても実は根強く残っているのではないでしょうか。
先ごろ、相模原市にあった障害者施設での殺傷事件の裁判が行われました。多くの障害者を殺傷したこの事件は日本の社会に深い傷跡を残しているように思われます。犯人は明らかに障害者の存在を否定しています。障害者には生産性が無い。そのような人間は生きていても税金の無駄であると犯人は主張するのです。明らかに人間のいのちと尊厳を軽視する思想であります。
主イエスの弟子たちも、罪の結果としての盲人の障害、病を考えているのです。ここにある視点は、障害者や病者を否定的に見る視点であり、無くてもいいものとして理解しているのではないでしょうか。弟子たちは、障害者、病者を健常の人間よりも低いものとして見なしているのです。自分だけは避けたいものだと、ある意味都合よく考えているのです。
今日の福音書にある主イエス・キリストの視点は、この発想の真逆をいくものでした。ヨハネによる福音書93節。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
主イエスは障害、病は、否定的なものではないと言います。なによりも神の業が、人間的な思いを越えて、その方に現れると言うのです。障害や病は、罪の結果として起こるのではありません。また、因果応報的に両親の罪の継続として引き起こされるものでもありません。ただ、その障害を通じて、病を通じて、私たちの人間の思いを越えて、神のみ業が現れる。そのような人生を、その障害者、その病者は送ることができるのです。ここにある世界は、人間の偏見や誤解が渦巻く世界ではなくて、神の恵みが支配する世界です。つまり、障害や病は神のみ業の世界であり、この盲人にしか現すことのできない神から与えられた生があるということです。
人知れず、障害・病をお持ちで暮している方々がおられることと思います。人知れず、ですので常人ではおよびもつかない思いを抱えて生きている方もいると思います。神のみ業が、障害、病の人生を通して現れるのです。その病を抱えた人にしか現れない人生があり、その人にしか現れない神の証しの人生があるのです。その唯一の人生を通して、神のみ業が成されていくのです。
主イエスの障害者、病者の捉え方は、現代の社会にも通用するほどラディカルで、物事の価値観をひっくり返すような、神の恵みに基づく理解であったのです。

盲人は見えるようになりました。しかも、今日の福音書をよくよく読んでみると、この盲人の主イエス・キリストへの呼び方が微妙に変わってくるのです。「あの方」と発言していた当初の呼び方が、「預言者」へと移り、最後には「主」と、主イエスに跪いて呼ぶようになっていくのです。おそらく、この盲人は主イエス・キリストをその生涯を通じて証しし、神の栄光を現す器へと変えられていったのではないでしょうか。この盲人は次のように発言します。ヨハネによる福音書926節。
「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
冒頭でお話しした洗礼と一緒なのです。目の見えなかったものが、今や見えるようになりました。主イエス・キリストを自分の救い主と呼び、信仰告白できるようになったのです。人生を通じて、神のみ業によって主イエス・キリストを証しする者として変えられていったのです。障害、病で見えてなかったこの盲人は、視界が開けただけではなく、まさにこの世の救い主の存在を認めることとなりました。この意味においても、盲人はまことに目が開かれたと言っても過言ではないでしょう。
主イエス・キリストの救いに与かり、今、ほんとうのことが見えるようになったこの盲人。この盲人は、救いについて、洗礼について、現代においても、語りかけてくださるものが沢山あるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
                              アーメン

2020年3月14日土曜日

教会の祈り





私たちの慰めの源である父なる神様。今日は主日礼拝を家庭礼拝で守っています。教会に集う教会員・求道者・ご家族の方々の健康をあなたのお守りのうちにおいてください。
神様、四旬節を迎えつつ私たちはキリストの受難と十字架を思い起こし、その苦しみを心に刻みつつ祈る日々を過ごしています。私たちを囲む状況がどんなに厳しさを増したとしても、あなたへの信仰と信頼を決して見失うことなく、この四旬節を自らの悔い改めとともに歩ませて下さい。

新型コロナウイルスが猛威をふるっています。しかし、神様、私たちは今こそこの社会の過剰な報道に惑わされることなく、キリストが民の苦しみを背負い、私たちの罪と咎のために十字架にかかられたことを思い、忍耐と克己の心で耐え忍びつつ、日々の生活を送ることができますようにお導き下さい。神様、キリストの受難と十字架は、私たちの日々の生活の苦しみを共に分かち合うためのものでありました。キリストが私たちの苦しみに寄り添い、私たちと共に苦悩しておられるのです。ここにキリスト者の慰めがあります。キリストが一人ひとりの苦悩を担ってくださるのです。私たちは独りで苦悩するのではなく、十字架上でのキリストの苦しみと共に、一人ひとりが生きていくのです。
 どうぞ、至らない私たちの信仰と祈りを、神様、かえりみて下さい。
神様、今回のコロナウイルスで亡くなられた方々の魂の平安を祈ると共に、感染された方々の回復と、この事態の終息を心からお祈り申し上げます。

 東日本大震災から9年を迎えました。被災された方々の道のりは尚も厳しく、多くの方々が復興を感じることができないまま9年の年月が流れています。震災そのものがこの国全体の出来事であるにも関わらず、最近の報道のあり方を見るならば、東北3県でのローカルな出来事であるかのように報道されています。生きる望みを見失い途方に暮れている方、震災で亡くなった人への悲嘆のうちに過ごす方、そして復興を目指して必死に努力を重ねられている方、それぞれの方々がまだまだ本当の意味での復興とは程遠い現実の中で生きているのです。どうぞ、神様、あなたの慰めを被災された一人ひとりの方々に注いで下さい。震災で亡くなられた方々のあなたのみ許での平安をお祈りするとともに、逆境と苦悩の中で生きていかざるを得ない方々のその歩みを支えて下さいますようにお願いいたします。

 今、家庭での礼拝のときとしています。教会員、求道者、それぞれの信仰をあなたがその場にあってお守りください。どうか、教会の小さな群れが、元気な顔で再会し、あなたの顔を見上げ、ふたたび礼拝できるときが与えられますようにお願いいたします。このようなときにこそ、どうぞキリストの教会の歩むべき道を、神様、どうぞお示しください。

悩みや悲しみ、不安や迷い、孤独のうちにいる者たちが、あなたとの祈りの中で慰められ、魂の憩いと平安を与えられますようにお願い致します。私たち人間の限界の越えたところで働かれるあなたのみ力に信頼して、たとえ試練の中にあっても、慰めを見出していくことができますようにお願いいたします。

神様、あなたはどんなときにも私たちと共にいてくださると、約束してくださいました。私たちは、その約束を信じ、今週一週間もあなたにすべてをゆだねてまいります。
日々、新型コロナウイルスで混乱している社会の中にあっても、私たちがキリストのいのちに生かされ、支えられ、あなたと隣人とに仕えながら、力強くこの世の歩みを続けていくことができますようにお導き下さい。

私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。  アーメン

3月15日(日)四旬節第3主日の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。


(旧約聖書)出エジプト記       17章1節~7節

(新約聖書)ローマ信徒への手紙   5章~11

(新約聖書)ヨハネによる福音書   4章5節~42節

「この水(井戸の水)を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、
永遠の命に至る水がわき出る。」


   『 サマリアの女 』 筑田 仁 牧師

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

渇く、だれもが経験していることと思います。
この社会に生きるうえで、私たちは渇きつつ生活をしています。私たちは、確かに「神の口からでる一つひとつの言葉で生き」ています。食事のパンだけではなく、神のみ言葉に養われて、日々生きているのです。
しかし、です。にもかかわらず、私たちの飢え、渇きはおさまりません。毎日、何かが足りないように思われ、毎日、心の深いところで満足することを求めているのです。一体、なぜこんなに渇きを覚えるのか。私は一体何を求めているのであろうか。私たちにも分からない面が確かにあるのです。渇く自分と向き合いつつ、日々の生活を送らざるを得ないのです。
今日の福音書はこの私たちの渇きをテーマとしています。今日も主イエス・キリストのみ言葉に聞いていきたく願います。

今日の福音書の日課はサマリアの女性の話です。このサマリアの女性は正午頃に水を汲みに井戸にくるのです。本来、この地域の女性は朝に井戸の水を汲みにくるものです。日中の日差しは強く、朝でないと暑くて仕方がないのです。この女性の場合には、朝に水を汲みに来れない事情があったようです。隣りの人々の人目をはばかり、暑い日差しの照りつける中、正午頃に水を汲みにくるのです。そのような状況の中で、ユダヤからガリラヤへ旅をしている主イエスと出会うのです。
渇く、と先ほど言いました。まさにこのサマリアの女性は渇きの中で生きている女性でした。主イエスはここで「水を飲ませてください」とこの女性に求めます。しかし、この女性は、主イエスに否と断るのです。そこで、主イエスは答えます。ヨハネによる福音書410節。
「イエスは答えて言われた。もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人は生きた水を与えたことであろう。」
主イエスは明確に、この女性に答えるのです。私は、あなたののどの渇きを潤す水を与えることができるのであると。あなたは、5人も夫をかえて、日々人目をはばかり、隠れるように暮らしているかもしれない。誰にも癒されない心を抱えて生きているかもしれない。あなたは求めても、求めても、満たされない心の渇きを、もう既にどうにもできない心の渇きを抱えているかもしれない。
しかし、私は生きた水をもっており、しかもその水は永遠に至る水であり、あなたの根本的な渇きを潤すほどのものであるとー。ヨハネによる福音書413節を読みましょう。
「この水(井戸の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
決して乾かない永遠の命に至る水を主イエスは持っておられるのです。主イエスの与える水は、その人の内で泉となる。主イエス・キリストは、もう渇きを覚えることのない永遠の命の水を与えることができるのです。いや、主イエス・キリストの存在そのものが永遠に渇くことのない命の水そのものであるのです。
この命の水に、このサマリアの女性は触れました。この女性は、この後どうしたでしょう。水がめをその井戸のところに置いたまま町に行き、主イエスのことを町中の人々に知らせるのです。
それだけではありません。この知らせを聞いた町の人々も主イエスのところを訪ね、主イエスは結局二日間町に滞在することになり、最後に町の人々はこのように言うのです。442節。
「私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」と。
サマリアの女性だけではなく、町の人々もこの主イエスの命の水、永遠に渇くことのない生きた水に触れたのです。この命の水に触れた人々は、本当に飢えと渇きから癒され、のどを潤され、主イエスが神のみ子であることを信じるところまで導かれていったのです。
のどの渇きを潤す神のみ子、主イエスの存在そのものは、この人間の渇きを徹底的に満たしてくれるものなのです。
「わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
主イエスは「決して乾かない」と言われています。私たちはこのみ言葉を信じて、信仰において歩んでいきたく思います。

冒頭で述べた通り、私たちは渇く自分と向き合っていかなければなりません。日々、自分ではどうにもできないくらいの渇きとともに、生きていかなければならないときもあります。
しかし、主イエス・キリストは「わたしが与える水を飲む者は決して乾かない」と言われています。この慰めの言葉を信じて、まさに命の水を主イエス・キリストから頂き、信仰の糧にして歩んでいきたく思います。サマリアの女性や町の人々が、この主イエスとの対話から潤され、いきいきと人生が変わったように、私たちも命の水、永遠の命の水へと招かれているのです。
主イエスと本当の意味で出会うことができたサマリアの女性の喜びが、今日の福音書から読み取れます。永遠の命の水をもっておられる主イエス・キリストと本当の意味で出会い、その水で潤され、心が満たされ、嬉々として日々の人生の歩みが変わったのです。
今日のみ言葉はやはり、望みに満ちたみ言葉なのです。渇きから永遠の命の水へと移り変わり、決して落胆することなく、今週一週間も希望を抱いて生きていきたい、そう願います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
                                              アーメン

2020年3月7日土曜日

3月8日四旬節第2主日礼拝の説教


お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)創世記          12章1節~4節a

(新約聖書)ローマ信徒への手紙   4章~5

(新約聖書)ヨハネによる福音書   3章1節~17節

Henry Ossawa Tanner 「ニコデモの訪問」 1899


   『 世に来た光 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 新型コロナウィルスが日々刻々と広がりを見せています。私たちの生活が揺らぐような事態に展開しています。
 先日、このような電話がありました。「先生、聖書に書かれているように、疫病が流行り、この世界の終わりが近づいているように思うのですが・・・。」私は答えました。「世界の終わりではありません。ここで聖書の描く終末論を簡単に結びつけることは危険ではないでしょうか。」
 誰もが、この現実生活の危機を感じていることと思います。しかし、安易にこの事態を聖書の週末に結び付けることは危険です。私たちは、信仰の書物として聖書のみ言葉に神のみ心を訪ねつつ、しかし、人間の不安や恐怖をあおるような聖書の読み方を自制しなければなりません。
 教会の暦はレント、四旬節を迎えています。主イエス・キリストの受難を心に留めて、自分自身のあり方、そして罪を内省しつつ、悔い改めの日々を過ごすときです。
 一見、艱難と辛苦がこの社会を包んでいるように思われます。だからこそ、私たちはこの状況の中で、決して一時の不安や迷いに振り回されることなく、冷静に対応していきたく思うのです。
 今日も、み言葉に耳を傾けていきたく願います。

 今日のみ言葉は、議員のニコデモが主イエスを訪問する出来事が書かれています。このニコデモは、夜、主イエスのもとを訪ねるのです。議員であるニコデモは、おそらく昼間は人目をはばかり主イエスに会いに行くことを避けたのでしょう。ニコデモの訪問は「夜」でした。
 実は、ニコデモを筆頭に、この時代、イスラエルの民は夜の暗闇の中にいたのです。なぜなら、当時ローマ帝国がパレスチナ地方を納めていました。巨大な帝国が、経済的に民の生活を搾取し、また政治的にも官僚たちが抑圧していたのです。ユダヤの民は、帝国の圧政のもとで貧苦の生活を送っていました。誰もが、メシア・救い主を求めていたのです。夜、そして暗闇がこのユダヤの民を覆っていました。そして、ニコデモ自身も夜の中にいたのです。
 イスラエルの教師であり、ファリサイ派であり議員でもあったニコデモ。彼自身が、罪と悪を背負い、自分の力では救われない生活を送っていたのです。彼は夜、まことの光である主イエス・キリストのもとを、ひっそりと訪ねました。そして、ニコデモの主イエスへの発言は、的を射たものでした。(ヨハネによる福音書3章2節)
 「神が共におられるのでなければ、あなたのようなしるしを誰も行うことはできないからです。」
 主イエスが神のもとから来られたお方であることを、ニコデモは見抜いていたのです。主イエスが暗闇の中で生きるこの自分に対して、救いの力を持っていることを察知していたのです。しかし、主イエスのニコデモに対する応答は、全く新鮮な答えでした。(ヨハネによる福音書3章3節)
 「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは、あくまでも人間の視点から救いを考えていました。主イエスがその希望を与えてくださることと考えていたのです。人間の救いを人間の足元から考えていたのです。それに対して主イエスは、救いは天に希望をおいて見るべきである、と答えるのです。それは、天からの視点、神からの視点でありました。(ヨハネによる福音書3章5節)
 「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
 神の国に入ることとは、救いに与かることです。この神の国に入るためには、水と霊において新たに生まれ変わる必要があると主イエスは言われるのです。このことを、世々の教会は洗礼のことを指し示すものとして理解してきました。洗礼の本質は、神が与えてくださることであり、水と霊において新たに生まれ変わることにあるのです。
 この主イエスの視点は、明らかに人間では想像もできないほど、神からの視点でありました。主イエスとニコデモの会話はちぐはぐで対話になっていません。しかし、主イエス・キリストは人間的なものに捉われ、闇の中を歩くニコデモに、神からの視点、そして神からの光、人間の本当の希望を教えていたのです。
 今日の福音書の日課は、最後にキリスト教の本質をついた言葉で終わります。(ヨハネによる福音書3章16節)
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 「世」とはコスモス、この世界の森羅万象の全てを表します。この「世」を神は愛されました。その独り子をお与えになられるほどです。この独り子を信じる者が、まさに一人も滅びることなく、永遠の命を受け継ぐ者となるためです。ニコデモの主イエスへの訪問に見られるような暗い夜が支配するこの世界に、神の独り子が現れました。神は、この罪と死と悪に染まった世界を愛されているのです。その独り子をお与えになるほどに、そして罪の贖いであるキリストの十字架をお与えになるほどに、この世界、この民を愛されています。主イエス・キリストの全ての事柄は、今日のみ言葉から、私たちは慰めと、生きていく力をいただきたく願います。

 もう一度ヨハネによる福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 主イエスとニコデモとのやり取りから、聖書の本質を表すような言葉が展開されてきました。主イエス・キリストはまことに神の独り子であり、救い主・メシアであります。様々な社会現象が起こる中、憐みの神がこの世界を治めておられることを信じて歩んでいきたく思います。このことは、必ずしもこの世界が私たちの願い通りになることを意味していませんが、しかし、神の治めたもう所には必ず希望があることを、神においてまことの希望があることを、心に刻み込んでいきたく思います。
 神のみ子主イエス・キリストを信じる者は、その十字架と復活において一人も滅びることなく、み国の世継ぎとされていきます。信仰において、永遠の命が与えれられています。この「世」を愛される神に希望を置いて、今週一週間も歩んでいきたい、そう願います。
 
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。   アーメン。

2020年3月2日月曜日

礼拝中止のお知らせ!

新型コロナウィルス感染が急速に拡大しています。
諏訪教会は、昨今の状況を鑑みて、礼拝の中止を決断いたしました。

3月1日、8日、15日の日曜日の主日礼拝は、
お休みにいたします。

皆さま、マスク・手洗いなど、十分にお気をつけください。

そして4月12日(日)の
イースターには、元気で集まりましょう!