2020年3月30日月曜日

3月29日(日)四旬節第5主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)エゼキエル記       37章1節~14節

(新約聖書)ローマ信徒への手紙   8章6~11

(新約聖書)ヨハネによる福音書   11章1節~45節


すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、
「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われた。


   『 ラザロの死 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 先日、諏訪教会教会員の望月雄光兄がお亡くなりになりました。私は、木曜日、金曜日と、大阪の方へ出向きまして前夜式、告別式を執り行ってきました。雄光兄は、以前、病気で倒れて右半身麻痺があり、福祉の施設で療養生活を送っていたのです。その福祉施設での生活は人知れず、困難や苦労があったのではなかろうかと私は思っていました。
今は、神様のみ許で安らかな眠りについている雄光兄。彼の人生を通して、私は人間の生老病死について改めて考える機会を与えられています。人が天に召されていくとき、それは残された人々に大きな宿題を与えるもののように思います。残された者は、正面から人間の生と死に直面し、考えなければならないのです。私は、望月雄光兄の残して下さった宿題、課題に向きあっていきたく思います。生きること、死ぬことの本質というものがもしあるのならば、私は、人生の全てを用いてそれを考えなければならないのです。
新型コロナウイルスの猛威が様々な面で影響を与えています。しかし、私たちは、この緊迫した日常生活の中で、自分の生と死を深く内省し、整理し、受け入れていく作業をしていきたく願います。人生で与えられている課題は沢山あります。一つひとつを丁寧に見て、考えていきたく思うのです。現在、私たちを取り巻く社会の中で、いたずらに社会の動向に流されることなく、しかし、この社会現象の底にあるものをしっかりと見極めて、この追い立てられるような世相を見ていきたく願います。
本日の福音書はヨハネによる福音書111節から45節までです。物語の主人公はラザロという男でした。このラザロの病と、死をめぐり、その姉妹であるマルタとマリアが出て来ます。このラザロ、詳しい説明は出てきませんが、一つだけ特徴があるのです。それは115節。
イエスは、マルタとその姉妹と、ラザロを愛しておられた。
ラザロは主イエスに愛された人間であったのです。主イエスはおそらく、ラザロへの愛と同じように、主の僕である私たち一人一人をも深く愛しておられると思います。私たち一人ひとりは、確かに、主イエス・キリストから愛されている者であります。それぞれが主イエス・キリストにとってかけがえのない人間でありましょう。
ラザロが死に瀕していました。もうそのいのちの限界でありました。姉妹であるマルタとマリアは泣き崩れます。主イエスと弟子たちが到着した時には、ラザロはもうすでに墓に葬られて四日もたっていました。マルタが、マリアが、それぞれ主イエスに訴えます。1121節。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
まことの救い主がこの世に到来しても、死は避けられない運命でした。死の力は、私たちの現実を確かに縛り付けて、私たちはどうにもできないのです。この死の力に私たちは直面しなければなりません。
しかし、ヨハネによる福音書は、ここで驚くべき、主イエス・キリストの行動を書いています。33節です。
「イエスは、一緒にいたユダヤ人たちが泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」と書かれています。35節には、「イエスは涙を流された」とも書かれているのです。
人間を覆う死の現実を目の前にして、救い主イエス・キリストもこの事実を変えることはできません。この人間を襲う悪魔的な力を目の前にして、主イエス・キリストも涙を流してしまうのです。ラザロの死、それは人間の力の敗北でありました。主イエス・キリストご自身もこの死の力に逆らうことはできませんでした。主イエス・キリストはこの敗北を目のまえにして、憤り、興奮し、涙を流されたのです。この世界の此岸では、この事実はどうにもならないのです。人間は死の力に屈服するほかないのです。
しかし、なのです。この此岸ではどうにもならない現実を覆すのが、主イエス・キリストという神のみ子です。40節と43節にこう書かれています。
「もし、信ずるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか。ラザロ、出て来なさい。
この世界の現実を越えて、彼岸から、向こう側から、私たちを囲む世界の外から、主イエス・キリストのみ声が響いてきます。私たちを取り巻くこの現実は何も変わりません。死が包むこの現実は何も変わらないのです。しかし、この私たちを、この惨めな姿のまま包み込むかのように、主イエス・キリストの宣言が、ラザロへの叫びが、この世界に響き渡るのです。死の暗闇を突き破る主イエス・キリストの力強い声が、「ラザロ、出て来なさい」という力強いその声が、私たちを包みこむのです。これは私たちに死人の復活の希望を与える主イエス・キリストのいのちの叫びです。
ラザロは生き返ったのです。キリストの叫びに答えるかのように、新しいいのちが与えられたのです。死に及んでも、尚、復活のいのち、永遠のいのちへの道がここにあるのです。ここに人間の希望があります。本当の慰めがあるのです。
私たちは、死と、暗闇の深い失望から、復活のいのちそして永遠のいのちへと、希望を繋いで生きていくことが赦されているのです。

ある方が、このように言われています。「人間は、いのちの短さ、長さではかられるのではない。大切なのは、そのいのちにどれだけ周りの人間が誠実に関わり、どれだけそのいのちが十全に生きたのかである。」
この言葉は慰めであります。人生は、いのちの短さ、長さで測られてはならないのです。いのちは時間で測られてはならないのです。大切なことは、どれだけ周りの人間が、その人のいのちに誠実に深くかかわったのか。そして、どれだけその人が十全に生きてきたのか、なのです。天に召された望月雄光兄は、その意味で、十全に生きてこられたのではないかと私は思います。
今日は、主イエス・キリストの叫びと、ラザロの甦りの話をしました。私たちは、キリストに招かれ、復活のいのちへの希望が与えられています。それは、春に芽吹く新芽のように始まっているのです。
このキリストにある永遠のいのちを信じて、今週一週間も神さまの深い愛と恵みに包まれて、信仰の歩みを進めていきたく願います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                   アーメン 

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