2020年4月5日日曜日

4月5日(日)四旬節第6主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)イザヤ書         50章4節~9節a

(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 2章5~11

(新約聖書)マタイによる福音書   21章1節~11節

『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』


   『 栄光の王 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 皆さん、疲れてはいないでしょうか。新型コロナウイルスの被害が世界中で広まり、私たちは連日、亡くなられた方の報道を聞いています。これほどまでに亡くなられた方々の報道に連日連夜触れることは、本当は異常なことではないでしょうか。イタリアでは宗教者、つまりカトリックの神父や医療従事者が多く亡くなっています。何か、新型コロナウイルス感染の報道は日常の出来事となり、私たちは、過剰な報道に日々裸でさらされ、感覚も麻痺しているように思われます。ストレスが溜り、この社会では閉塞感が強く漂っている側面があると思われるのです。
 メディアはフィーバーのように、つまり熱に侵されているかのように過剰な報道を続けています。私たちは新型コロナウイルスにかかっていないにしても、さながら熱病のように日夜テレビの報道に釘付けになってしまい、先行きが不透明なこの社会において、私たちのそれぞれの心も不安感に覆われているのではないでしょうか。このような社会の状況の中で、本日の福音書に耳を傾けていきたく思います。

 今日の福音書では群衆が、エルサレムの民が、熱狂のなかで主イエス・キリストのエルサレム入城を迎えるのです。この閉塞感漂う日常の中で、群衆は、預言者イエス、そしてメシア・イエスが来られることを歓喜のなかで迎えるのです。マタイによる福音書21章8節からこのように書かれています。
「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主のみ名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」
「ホサナ」という言葉、この意味は「救ってください」という意味です。
 エルサレムの民らは、「自分に救いをもたらしてくださる王が登場した。このイエスこそ、その王である。どうぞ、イエスよ、私を憐れんでください。そして、この貧しいユダヤの民を救ってください」と歓喜の声をあげたのです。
 この栄光の王のエルサレムへの入城の記事を、私は何度も読むうちに、この心の中で、本当にこの栄光の王を、主イエス・キリストを、貧しい心にお迎えしたい、そう祈ってきました。
 感染症が猛威をふるう中、私たちの心も、何か殺伐としたところはないでしょうか。心が荒れてしまい、何か、なるようになってしまうがよい、そのような捨てばちな思いにとらわれてしまうときはないでしょうか。
だからこそ、四旬節を過ごす日々の中で、この貧しい心に、本当に栄光の王を、慰め主なる主イエス・キリストをお迎えしたい、そう私は祈ってきました。この新型コロナウイルスの感染が取り巻く状況は予断を許さない状況です。心が荒れて、もう耳を覆い塞ぎたくなってしまったとしても当然な状況なのです。私たちの心が暗闇に覆われても、仕方がないのです。
 このような緊急のときだからこそ、私たちは心の平安、魂の慰めの源である主イエス・キリストを私たち一人一人の心に迎えたい、そう思うのです。心が貧しければ貧しいほど、本当の意味で心安らぐ灯火を、この冷めた心に迎えたい、私は、この四旬節を送る中でそう祈ってきました。

 もちろん、主イエス・キリストのエルサレム入城は、人間の心の問題だけではなく、歴史的な事実であります。主イエス・キリストはこれまでの間で3度、ご自分の死と復活を予告しています。マタイによる福音書20章18節。
「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。」
主イエス・キリストは、このエルサレム入城からご自分の受難が具体的に始まっていくことを充分に分かっていたのです。このメシア、主イエス・キリストは私たち罪人の罪を背負い、たった一人でゴルゴダの丘に向かい、その十字架を背負ってとぼとぼと歩き、磔の刑にさせられていくのです。主イエス・キリストのゴルゴダの丘への十字架の道のりは、群衆の好意、歓待の出来事から、誰にも顧みられない孤独で絶望的な死へと繋がっていきます。この十字架を通して、主イエス・キリストは神のみ心から外れた私たち人間の罪を一身に背負い、そして、この十字架の上でボロボロになって死んでいくのです。
 今日のエルサレム入城は、栄光の王の入城だけではなく、主イエス・キリストの受難の始まりの出来事でもあるのです。この主イエス・キリストの苦悩と受難に、私たち人間のいのちと、生きていく望みがかかっています。
 今日のエルサレム入城は、主イエス・キリストの苦しみの始まりです。たった独りで孤独な十字架の死を成し遂げていくまことの救い主のみ業の始まりなのです。この人間としての限界ギリギリの十字架に、私たち人間の罪の贖いがかかっています。このことは、人間の罪とそこからの救いという、私たち人間の最も大切で必要な事柄に関わることなのです。
この主イエス・キリストのエルサレム入城からの十字架への道行きを、しっかりとふまえておきたく思います。
 
 今日から聖週間です。主イエス・キリストは、このエルサレム入城から、人間の諸々の罪を背負い、十字架にいたる道を、細々と、しかし力強く歩んでいきます。弟子たちに見捨てられ、ユダにも裏切られるこの道のりを、確信をもって、神への信頼をもって歩んでいきます。この主イエス・キリストの十字架への道行きに、私たちも今週一週間心を合わせていきたく願います。
 未曽有の感染症が、この世界を覆い満ちていたとしても、私たちは、この心の奥底にあるしっかりとした、決して動かないものに根ざして、つまり神に心を根ざして、生きていきたいと思います。この世界を恵みと愛で支配しておられるお方を、神を、しっかりと信頼して生きていきたいのです。たとえ逆境の中であったとしても、心揺らぐことなく、そして、神への信仰にしっかりと基いて今週一週間を辛抱強く生きていこうではありませんか。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。          アーメン




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