2020年4月21日火曜日

4月19日(日)復活節第2主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)使徒言行録        2章14節a、

                      22節~32節

(新約聖書)ペトロの手紙(一)   1章3~9

(新約聖書)ヨハネによる福音書   20章19節~31節

あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。


   『 主の平和 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 かって私は20代の後半のときに、ある神学校で学んでいました。牧師になる道を志し、学んでいたのです。挫折の連続でした。神学校で学んでいたにもかかわらず、私はキリスト者というものを信用できませんでした。牧師を志す同学年の学生との交わりの中で、どうしてもキリスト者というもの、そして人間というものを信用することができず、結局牧師になる道を諦めたのです。それは私にとって大きな挫折でありました。
 献身を途中で諦めることは多くの方々に迷惑をかけました。祈り、見守り、支えて下さる方がいたのです。私はお手紙を書いて、牧師になれない旨を書きました。キリスト者への不信な思いがつのり、私は心を閉ざしたのです。
 所属教会の牧師はこのように話しました。「筑田君、あなたは復活をした主イエスの弟子たちのようね。自分の家の戸に全て鍵をかけて閉じこもり、心をも閉ざしています。」私のふさぎこんだ心を見透かすかのような言葉でした。
 今日の福音書は、まさに弟子たちが、主イエス・キリストが十字架にかかり復活されたときに、心を固く閉ざすところから始まるのです。ご一緒にみ言葉に聞いていきたく思います。
  
主イエスが十字架にかかられたのです。多くの人間がこの方こそ、メシア、救い主ではないかと期待をして従って来たのです。しかし、主イエスは群衆から見捨てられ、ユダヤ教の為政者からののしられ、弟子達からも裏切られ、当時のローマ帝国の権力者の手によって十字架にかけられました。メシアへの期待が強かった分、その後の失望も大きかったのです。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、集まり、戸に鍵をかけて閉じこもるのです。彼らは、主イエスを大声で非難し、叫んで、糾弾したユダヤの群衆から逃げるように避けて、暗闇のなかに自分たちの身を置くのです。
弟子たちは愚かではありません。閉じこもる弟子たちの姿をみて、なんて頼りのない弟子であろうかと非難する方もいるかもしれません。しかし、弟子たちは主イエスの十字架に至るまでの暴力的な群衆の姿を、不公平な裁判のあり方を、しっかり見届けていたのです。恐れ、まさに恐れが弟子たちの心を支配していたのです。
十字架にかけられた主イエスが、まことに復活をされました。そして、誰にも心をゆるさない弟子たちに顕れるのです。ヨハネによる福音書2019節。
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
人間を恐れ、そして主イエスの十字架によって全ての望みを失った弟子たちに、キリストは「平和があるように」との慰めの声をかけるのです。平和、これはその時、弟子たちが何よりも望んでいたことでした。
主イエスの神の国の宣教活動は大勢の群衆を巻き込み、嵐の渦のようでした。病人や障がいを負った人間を癒し、罪人のその罪を赦し、徴税人や娼婦たちとの交わりを誰よりも大切にした主イエス・キリストの公生涯。そのご生涯を通して、弟子たちは主イエスと一緒にパレスチナ地方をかけめぐり、神のみ業と癒しを目撃し、神の国の宣教に主イエスと共に必死に仕えてきたのです。この出来事を終えて、心と魂の平和、平安が弟子たちにとって何よりも必要であったのです。
加えて、ここで主イエス・キリストから弟子たちに与えられる平和は、この世がもたらすようなありがちな平和とは違っていました。ヨハネによる福音書1427節。
「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
主イエスはここで、心を騒がせるな、おびえるな、と語ります。そして、気休めの平和ではなく神が与えてくださる本当の平和を、まことの平和を、主イエス・キリストが残していくことを弟子たちに告げるのです。
だれもが今、この世情のなかで見失っている心の平和。主イエス・キリストが与えてくださるまことの心の慰め、平安があることを私たちは覚えておきたく思います。この世が与える気休めの安息ではなく、私たちの心の奥底には、決して誰にも侵されない平安があるのです。
たとえ、この世界が揺れ動き、震撼するような出来事が起こったとしても、神への信仰にしっかりと根ざし、キリストのみが与えてくださる平安、平和が私たちの魂の奥底にあるのだと、主イエスは語るのです。この揺らぐことのないキリストの平和を、主は今日のみ言葉を通して弟子たちに宣言されるのです。私たちは、このみ言葉を信じ、受け入れたいと思います。

弟子たちは、主イエスの復活と、主がこのように顕れたことに触れて、喜んだと書かれています。主イエス・キリストはまことに復活され、信じる一人一人に平和を残して下さいます。これは、世が与えるその場限りの慰めではありません。きっと、祈りの中で、私たちは揺らぐことのない平安、安心が心の深いところに与えられていることに気づくのではないでしょうか。
主イエス・キリストは、まことに復活されました。復活のキリストが私たちと共にいて下さるという事実だけで、もう平安と救いは近いのです。天と地をつかさどり、この世の全てを統べ治めたもう力なるキリストが、私たちの隣りを歩いて下さいます。「神、我らと共にいます」-このインマヌエルの事実に励まされて、慰められて、厳しい逆境の中を生きていきたく思います。
今、この世界を覆う全ての出来事に耳を塞ぎたくなるときがあります。人生は短いのですが、この短い人生に、こんなに厳しい試練があるということを不思議にも思います。怯えた弟子たちが全ての戸に鍵をかけて閉じこもった出来事は、私たちの今の日常にもあることです。
この限界を越えて、復活の主イエス・キリストが私たちのど真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と、慰めと労わりの声をかけられるのです。この方が残される確かな平和があることを信じ、受け入れて、今週一週間、心揺らぐことなく歩みを進めていきたく思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                     アーメン

0 件のコメント:

コメントを投稿