2020年4月11日土曜日

4月12日(日)復活祭主日礼拝のご案内

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。

新型コロナウイルスの影響で、世界中で多くの感染者、死者が出ています。さながら過去のペストのように、この感染症は重い肺炎をもたらし、死に導くのです。私たちの社会でも都市を中心に、感染症の広がりが勢いを止めません。神よ、この慰めのない状況で、私たちは何を頼りに生きていけばいいのでしょうか。新型コロナウイルスの感染は、誰の手によっても守りようがなく、これができていれば感染が防げるという手立てもないのです。深い闇の力が私達を覆っています。もし、この世界的な苦悩の現実があなたの導きであるならば、どうぞ私たちにこの出来事から学ぶ謙虚な姿勢と深い信仰を与え、教えてください。



(旧約聖書)使徒言行録        10章34節~43節

(新約聖書)コロサイの信徒への手紙 3章1~4

(新約聖書)ヨハネによる福音書   20章1節~18節

わたしの父であり、あなたがたの父である方、
またわたしの神であり、あなたがたの神である方の
ところへわたしは上る。


    筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 イースター、おめでとうございます。「日曜日は、小さいイースターだ」という言い回しを聞いたことがありますか。毎週の主日は、主の復活を祝うイースターの縮 小版であるということでしょうか。私にとってこの表現は、長く納得のできるものでした。しかし、ある礼拝学者が次のように言うのを聞いて、考えをあらためさせられました。「毎週の日曜日は、決して小さいイースターではない。なぜなら、教会暦の成立を考えれば、主日としての日曜日の方が先であり、イースターはあとで加えられたものだからである。だから、日曜日が小さなイースターではなく、むしろ、イースターが大きな日曜日なのだ。」 
 毎日曜日、毎主日を小さなイースターと言うとき、そこで意識的・無意識的とに拘らず意図されるのは、毎週の礼拝は何か不完全なものであるということです。しかし、この礼拝学者はそうではないと言います。毎週の主日礼拝はそのままで充分であり、そこには欠けたものはないのです。そのような日曜日の、さらに大きなものがイースターであると言うとき、主の復活をおぼえる喜び、新しい命への希望も またさらに増し加えられるということになるでしょう。
 私たちはそのような大きな 日曜日、主日を、今日祝います。しかしそれは、新型コロナウイルスの感染拡大の 不安と恐れの中、いつもとは違うかたちで祝われます。教会での礼拝としてではなく、個人での、また少人数での祈りというかたちで祝われるのです。私たちはこの現実を、どのように受け取ればいいのでしょう。
 復活したイエスは、触れようとするマリアに、「私に触れてはいけない」(ヨハネ 20:17。聖書協会共同訳)と言います。死んだものと思っていたイエスが生きてい たという喜びに満たされ、驚き、興奮してイエスに触れようとするマリアの気持ちを想像することは難しくありません。しかしイエスは、それに水をかけるように言うのです、「触れてはいけない」と。おそらくマリアはがっかりしたことでしょう。 また、もどかしく感じたはずです。死んだと思っていたイエスが生きていること、主の復活を、その姿を見て、声を聞くだけでなく、実際に触れることを通して体験し、喜び、祝いたかったのではないでしょうか。しかしイエスはそれを遮り、彼女を弟子たちのところへと遣わしました。復活の知らせを伝える使者として、福音の 宣言者として遣わしたのです。そうして教会がはじまりました。 
 教会は、復活のキリストのからだです。いつものように集まることのできない今 年のイースター、私たちはマリアともどかしさを共有します。しかしそれは、私たちこそが、この世にあってすでにキリストのからだであるからです。私たちは自分のからだに触れることに執着するのではなく、キリストのからだとして、与えられた隣人のよい隣人となるように遣わされています。私たちは離れていてもキリストのからだであり、イエスは私たち一人ひとりと今ここに共におられます。そしてこのイエスを通して、私たちはたとえ離れていても一つなのです。この喜びをもって、 大きな日曜日を共に祝いましょう。アーメン。

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