2020年3月7日土曜日

3月8日四旬節第2主日礼拝の説教


お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)創世記          12章1節~4節a

(新約聖書)ローマ信徒への手紙   4章~5

(新約聖書)ヨハネによる福音書   3章1節~17節

Henry Ossawa Tanner 「ニコデモの訪問」 1899


   『 世に来た光 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 新型コロナウィルスが日々刻々と広がりを見せています。私たちの生活が揺らぐような事態に展開しています。
 先日、このような電話がありました。「先生、聖書に書かれているように、疫病が流行り、この世界の終わりが近づいているように思うのですが・・・。」私は答えました。「世界の終わりではありません。ここで聖書の描く終末論を簡単に結びつけることは危険ではないでしょうか。」
 誰もが、この現実生活の危機を感じていることと思います。しかし、安易にこの事態を聖書の週末に結び付けることは危険です。私たちは、信仰の書物として聖書のみ言葉に神のみ心を訪ねつつ、しかし、人間の不安や恐怖をあおるような聖書の読み方を自制しなければなりません。
 教会の暦はレント、四旬節を迎えています。主イエス・キリストの受難を心に留めて、自分自身のあり方、そして罪を内省しつつ、悔い改めの日々を過ごすときです。
 一見、艱難と辛苦がこの社会を包んでいるように思われます。だからこそ、私たちはこの状況の中で、決して一時の不安や迷いに振り回されることなく、冷静に対応していきたく思うのです。
 今日も、み言葉に耳を傾けていきたく願います。

 今日のみ言葉は、議員のニコデモが主イエスを訪問する出来事が書かれています。このニコデモは、夜、主イエスのもとを訪ねるのです。議員であるニコデモは、おそらく昼間は人目をはばかり主イエスに会いに行くことを避けたのでしょう。ニコデモの訪問は「夜」でした。
 実は、ニコデモを筆頭に、この時代、イスラエルの民は夜の暗闇の中にいたのです。なぜなら、当時ローマ帝国がパレスチナ地方を納めていました。巨大な帝国が、経済的に民の生活を搾取し、また政治的にも官僚たちが抑圧していたのです。ユダヤの民は、帝国の圧政のもとで貧苦の生活を送っていました。誰もが、メシア・救い主を求めていたのです。夜、そして暗闇がこのユダヤの民を覆っていました。そして、ニコデモ自身も夜の中にいたのです。
 イスラエルの教師であり、ファリサイ派であり議員でもあったニコデモ。彼自身が、罪と悪を背負い、自分の力では救われない生活を送っていたのです。彼は夜、まことの光である主イエス・キリストのもとを、ひっそりと訪ねました。そして、ニコデモの主イエスへの発言は、的を射たものでした。(ヨハネによる福音書3章2節)
 「神が共におられるのでなければ、あなたのようなしるしを誰も行うことはできないからです。」
 主イエスが神のもとから来られたお方であることを、ニコデモは見抜いていたのです。主イエスが暗闇の中で生きるこの自分に対して、救いの力を持っていることを察知していたのです。しかし、主イエスのニコデモに対する応答は、全く新鮮な答えでした。(ヨハネによる福音書3章3節)
 「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは、あくまでも人間の視点から救いを考えていました。主イエスがその希望を与えてくださることと考えていたのです。人間の救いを人間の足元から考えていたのです。それに対して主イエスは、救いは天に希望をおいて見るべきである、と答えるのです。それは、天からの視点、神からの視点でありました。(ヨハネによる福音書3章5節)
 「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
 神の国に入ることとは、救いに与かることです。この神の国に入るためには、水と霊において新たに生まれ変わる必要があると主イエスは言われるのです。このことを、世々の教会は洗礼のことを指し示すものとして理解してきました。洗礼の本質は、神が与えてくださることであり、水と霊において新たに生まれ変わることにあるのです。
 この主イエスの視点は、明らかに人間では想像もできないほど、神からの視点でありました。主イエスとニコデモの会話はちぐはぐで対話になっていません。しかし、主イエス・キリストは人間的なものに捉われ、闇の中を歩くニコデモに、神からの視点、そして神からの光、人間の本当の希望を教えていたのです。
 今日の福音書の日課は、最後にキリスト教の本質をついた言葉で終わります。(ヨハネによる福音書3章16節)
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 「世」とはコスモス、この世界の森羅万象の全てを表します。この「世」を神は愛されました。その独り子をお与えになられるほどです。この独り子を信じる者が、まさに一人も滅びることなく、永遠の命を受け継ぐ者となるためです。ニコデモの主イエスへの訪問に見られるような暗い夜が支配するこの世界に、神の独り子が現れました。神は、この罪と死と悪に染まった世界を愛されているのです。その独り子をお与えになるほどに、そして罪の贖いであるキリストの十字架をお与えになるほどに、この世界、この民を愛されています。主イエス・キリストの全ての事柄は、今日のみ言葉から、私たちは慰めと、生きていく力をいただきたく願います。

 もう一度ヨハネによる福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 主イエスとニコデモとのやり取りから、聖書の本質を表すような言葉が展開されてきました。主イエス・キリストはまことに神の独り子であり、救い主・メシアであります。様々な社会現象が起こる中、憐みの神がこの世界を治めておられることを信じて歩んでいきたく思います。このことは、必ずしもこの世界が私たちの願い通りになることを意味していませんが、しかし、神の治めたもう所には必ず希望があることを、神においてまことの希望があることを、心に刻み込んでいきたく思います。
 神のみ子主イエス・キリストを信じる者は、その十字架と復活において一人も滅びることなく、み国の世継ぎとされていきます。信仰において、永遠の命が与えれられています。この「世」を愛される神に希望を置いて、今週一週間も歩んでいきたい、そう願います。
 
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。   アーメン。

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