2020年3月22日日曜日

3月22日(日)四旬節第4主日の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)サムエル記 上      16章1節~13節

(新約聖書)エフェソ信徒への手紙  5章8~14

(新約聖書)ヨハネによる福音書   9章1節~41節

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。」

   『 神の業 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の使徒書はエフェソの信徒への手紙です。とても大切な記述がこのエフェソの信徒への手紙の中に残されています。エフェソの信徒への手紙514節です。
 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
 この記述は初代キリスト教共同体で、洗礼を授ける時に言われていた言葉であるようです。洗礼を受けること、このことはまさに眠りの中にある者が、死から起こされ、復活したキリストの溢れるいのちに与かることと言えるでしょう。キリストにある者は、自らの罪に死んだ後、キリストの贖いの十字架を通して、新しくキリストのいのちに生かされる者とされるのです。
洗礼のことを指し示して、「re-born」と言うときがあります。この言葉の意味は再び生まれる、再び生まれかわるということです。キリストのいのちにのみこまれること。聖霊の働きにおいて、新しい者とされていくこと。ここに私たちのひとすじの望みがあります。深い失望で決して終わらないキリストのいのちへの希望があるのです。キリストにおいて、すでに新しいいのちが始っている。春のきざしが最近見受けられるようになってきましたが、小さな芽が少しづつ花開いていくのと同じように、私たちの生にも、新しい何かが始まっている。
キリストにあって新しく生かされること、これは洗礼における神のみ業と言ってもいいのです。この神のみ業を信じて、今日もみ言葉に耳を傾けていきたく思います。

今日の福音書は生まれつきの盲人の開眼がテーマになっています。主イエスと弟子たちが宣教活動の途中で盲人を見かけるのです。弟子たちが思わず、主イエスに訪ねます。ヨハネによる福音書92節。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
思わず出てきたこの言葉には、現代にも通じる、障害をもっている方への偏見、誤解が表れているように思います。つまり、障害や病は、罪の結果であるというものです。そして、その罪は、本人や両親が犯したゆえのものであるというのです。私たちは、このような捉え方を、昔の時代で言われていたものとして片付けることができるでしょうか。この障害者への差別的な見方、偏見は現代においても実は根強く残っているのではないでしょうか。
先ごろ、相模原市にあった障害者施設での殺傷事件の裁判が行われました。多くの障害者を殺傷したこの事件は日本の社会に深い傷跡を残しているように思われます。犯人は明らかに障害者の存在を否定しています。障害者には生産性が無い。そのような人間は生きていても税金の無駄であると犯人は主張するのです。明らかに人間のいのちと尊厳を軽視する思想であります。
主イエスの弟子たちも、罪の結果としての盲人の障害、病を考えているのです。ここにある視点は、障害者や病者を否定的に見る視点であり、無くてもいいものとして理解しているのではないでしょうか。弟子たちは、障害者、病者を健常の人間よりも低いものとして見なしているのです。自分だけは避けたいものだと、ある意味都合よく考えているのです。
今日の福音書にある主イエス・キリストの視点は、この発想の真逆をいくものでした。ヨハネによる福音書93節。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
主イエスは障害、病は、否定的なものではないと言います。なによりも神の業が、人間的な思いを越えて、その方に現れると言うのです。障害や病は、罪の結果として起こるのではありません。また、因果応報的に両親の罪の継続として引き起こされるものでもありません。ただ、その障害を通じて、病を通じて、私たちの人間の思いを越えて、神のみ業が現れる。そのような人生を、その障害者、その病者は送ることができるのです。ここにある世界は、人間の偏見や誤解が渦巻く世界ではなくて、神の恵みが支配する世界です。つまり、障害や病は神のみ業の世界であり、この盲人にしか現すことのできない神から与えられた生があるということです。
人知れず、障害・病をお持ちで暮している方々がおられることと思います。人知れず、ですので常人ではおよびもつかない思いを抱えて生きている方もいると思います。神のみ業が、障害、病の人生を通して現れるのです。その病を抱えた人にしか現れない人生があり、その人にしか現れない神の証しの人生があるのです。その唯一の人生を通して、神のみ業が成されていくのです。
主イエスの障害者、病者の捉え方は、現代の社会にも通用するほどラディカルで、物事の価値観をひっくり返すような、神の恵みに基づく理解であったのです。

盲人は見えるようになりました。しかも、今日の福音書をよくよく読んでみると、この盲人の主イエス・キリストへの呼び方が微妙に変わってくるのです。「あの方」と発言していた当初の呼び方が、「預言者」へと移り、最後には「主」と、主イエスに跪いて呼ぶようになっていくのです。おそらく、この盲人は主イエス・キリストをその生涯を通じて証しし、神の栄光を現す器へと変えられていったのではないでしょうか。この盲人は次のように発言します。ヨハネによる福音書926節。
「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
冒頭でお話しした洗礼と一緒なのです。目の見えなかったものが、今や見えるようになりました。主イエス・キリストを自分の救い主と呼び、信仰告白できるようになったのです。人生を通じて、神のみ業によって主イエス・キリストを証しする者として変えられていったのです。障害、病で見えてなかったこの盲人は、視界が開けただけではなく、まさにこの世の救い主の存在を認めることとなりました。この意味においても、盲人はまことに目が開かれたと言っても過言ではないでしょう。
主イエス・キリストの救いに与かり、今、ほんとうのことが見えるようになったこの盲人。この盲人は、救いについて、洗礼について、現代においても、語りかけてくださるものが沢山あるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
                              アーメン

0 件のコメント:

コメントを投稿