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★ 主日の祈り
神様。
あらゆる時代の信じる者たちとともに、いのちの
岩であるあなたをほめたたえます。私たちの堅い
土台となって、私たちを御子のからだに形づくり、
喜んで全世界に仕える者としてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
(旧約聖書)イザヤ書
51章1節~6節
(新約聖書)ローマの信徒への手紙
12章1節~8節
(新約聖書)マタイによる福音書
16章13節~20節
「あなたはペトロ。 わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐことは、 天上でもつながれる。 あなたが地上で解くことは、 天上でも説かれる。」 |
「 教会の立つべきところ 」浅野 直樹 牧師
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
唐突ですが、皆さんはキリスト教(信仰)の本質的なものは何だと思われるでしょうか。神さまを礼拝すること? 愛の実践を成すこと? 倫理・道徳観が高いこと? 神さまや隣人に仕えること? 宣教の熱心さ? 世界平和?
もちろん、その全てが大切なものに違いない訳ですが、もっとはっきりとした、単純な答えがあるはずです。それは、イエス・キリストを信じること、です。誤解を恐れずに言えば、父なる神さまを礼拝しているのはキリスト教だけではありませんし、他の宗教・他の信仰を持っておられる方々の中にも、非常に高い倫理観・道徳観を持っておられたり、愛の実践に非常に熱心に取り組んでおられる方々もいる訳です。私はつくづく思うのですが、私たちキリスト教サイドからすれば「異端」と言われる人々(キリスト教側からすれば、どことなく白い目で見られている方々)の伝道や奉仕などの実践面、熱心さやひたむきさは、私たちの方が見習うべきではないか、とさえ思っています。そういう意味では、私たちは呑気に誇ってなどいられない。むしろ、積極的に学ぶべきところも多くあるのかもしれない。では、何が違うのか。イエス・キリストを信じる、神の御子・私たちの救い主として信じている。ただこの一点です。これは、他の宗教や信仰観、イデオロギーなどにはないものです。私たちにしかない事柄。これが、私たちのユニークさ、独自性、もっと言えば、他とは違う価値・存在価値になっているのではないでしょうか。
今日の日課は、有名な「ペトロの信仰告白」の箇所です。イエスさまの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いかけに、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたからです。そのペトロの信仰告白に対して、イエスさまはこう語られた。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と。ペトロとは、ご存知のように「岩」という意味の言葉です。つまり、「わたしはこの岩の上に」とイエスさまがおっしゃったのは、このペトロの上に「教会を建てる」ということです。これには、様々な解釈がありました。もっとも有名なのが、ローマ・カトリック教会の理解です。この言葉から、カトリック教会の代々の教皇はペトロの後継者だ、と考えられてきました。そこに、ローマ・カトリック教会の優位性がある、と。それに対して、宗教改革以降のプロテスタント側は、「岩(ペトロ)の上に」と言うのは、ペトロ一個人を指すのではなくて、ペトロの信仰告白、つまり、「あなたはメシア、生ける神の子です」との告白の上に建つ、と受け止めてきた。ペトロという人格・一個人に帰するのか、それとも、信仰告白に帰するのか、難しいところがありますが、しかし、いずれにしても、「あなたはメシア、生ける神の子です」との言葉と切り離すことはできないでしょう。そういう意味でも、やはり教会の土台として、この告白「あなたはメシア、生ける神の子です」があることは疑いようのない事実だと思います。
しかも、この告白は、ペトロ一個人に帰されるものでもないことにも注意したいと思います。なぜなら、こうも言われているからです。「シモン・バルヨナ(ペトロの本名:ヨナの子・シモン)、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」。つまり、ペトロがこの信仰告白に至ったのは、彼の優秀さでも熱心さでも信仰深さでもなくて、ただ神さまがそのように示してくださったからだ、というのです。つまり、この教会の土台そのものが、神さまの恵みの業(わざ)そのものに他ならない、ということです。最初に言いましたキリスト教・教会のユニークさも、そこに尽きる。神さまによらなければ、誰もキリスト信仰には至らない。事実、今日の日課でもそのことに触れられているように思います。
弟子たちへの問いに先立って、イエスさまはこう尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と。その答えはこうでした。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者に一人だ』と言う人もいます。」。ご存知のように、「洗礼者ヨハネ」については、人々は真の預言者だと信じていました。「エリヤ」も「エレミヤ」も旧約聖書を代表する大預言者です。つまり、いずれにしても、高評価、ということです。もちろん、イエスさまに対して快く思っていない人もいたでしょうが、それにしても、人々は高評価でイエスさまを捉えていた、ということでしょう。
今日、キリスト教・教会が大変厳しい状況に置かれていることは、皆さんも痛感されておられることでしょう。かつて賑わっていた教会が廃れていき、財政も危機的状況に陥っている。これは、残念ながら教派を超えて、全国的なことです。私(浅野)自身、どうすれば良いのか、と、なかなか答えを見つけられないでいる。確かに、そうです。しかし、考えてみれば、イエスさまの時代もそうだった。今日も、キリスト教、イエスさまに対して否定的に捉えている人は多くはないと思います。むしろ、評価も高いと思う。相変わらずミッション系の学校は人気です。しかし、なかなか、それらを超えて、「あなたはメシア、生ける神の子です」との教会の土台としての告白へとは至らないでいる。先ほども言いましたように、もしこの告白が神さまのみ業(わざ)でしかないとしたら、これはもう神さまに働いていただくしかありません。
では、このペトロの信仰告白の上に建てられた教会の特徴は何だろうか。その一つの答えが、ここにあります。「陰府の力もこれに対抗できない」。これについても様々な解釈があるようですが、要するに死の力に教会は負けない、ということです。私(浅野)はこう思う。何やかんや言っても、やはり私たちの究極の願いは、死からの解放ではないか、と。つまり、安心して死ねる、ということです。穏やかに、安心して、希望をもって死ねる。心の底から…。それが、私たちの願い。つまり、イエスさまを救い主、神の子と信じている教会は、その土台の上に生きている私たちキリスト者たちは、安心して死ねる者たち、ということです。そこに、教会らしさ、発信力がある。
私(浅野)が牧師となって二十数年の間にも、時代は変わりました。特にコロナ禍で加速したような感じもいたします。葬儀です。随分とご葬儀の様子が変わった。かつては、教会員及び関係者のご葬儀は、教会員皆で行うことが通例だった。皆で仲間であるご遺族を慰めるためだと思います。それほど、その頃は死が痛々しかった。ご家族が泣き崩れることも少なくありませんでした。ですから、私自身はご葬儀を受け持つ時、何よりもご遺族・ご家族の慰めを第一に考えていったつもりです。それが、コロナ禍で一気に少人数化し、斎場を使うことも多くなりました。趣向を凝らして慰めを演出する斎場も多くなった。そのせいか、何だか死の受け止め方が淡白になってきたように、私には感じられます。だからといって、本当に死の力は弱まったのか、といえば、違うでしょう。いくら演出が凝らされたとしても、現実は厳しいものに違いない。もちろん、様々な事情がありますし、ご遺族が主体ですので、葬儀のあり方をどうのこうのと言うつもりはありませんが、しかし、イエスさまを神の子・救い主として信じている私たちの教会は、「陰府の力」に、死の力に打ち勝っているのだ、ということは、忘れないでいたいと思うのです。いいえ、自分たちのために忘れないだけでなく、それがこの告白の上に立つ教会の特徴なのだと、自ら証しを立て、発信していきたい、そう思うのです。
先ほどは、この信仰告白は神さまのみ業(わざ)でしかなく、神さまに働いていただくしかない、と言いましたが、その通りで、そのためにも私たちは祈っていく必要があるのだと思います。「み業(わざ)を成してください」と。と同時に、次のことも忘れないでいたいと思う。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。これは、非常に大きな権限です。と同時に、大きな責任でもあり、大きな使命でもある。私たちの働き次第によって、天に入れるかどうかが決まってくるのですから…。ですから、あくまでも神さまのみ業(わざ)でしかないのですから、そのことを祈り求めていくと同時に、人々が天に入れるように、私たちにできる最善のことをしていく必要もあるということでしょう。
いずれにしても、私たちの土台としては、「あなたはメシア、生ける神の子です」ということしかない、と言うことです。イエス・キリスト抜きにしては、何もはじまらない。ですから、他の大切な要素、礼拝にしろ、愛の実践にしろ、イエスさま抜きではありえないのです。私たちが、そうしたいからでも、それを成そうとする意思があるからでもない。イエスさまによらなければ、誰も敵を愛そうとなどしないでしょう。そのことに悩み苦しむこともない。イエスさまがおっしゃるからこそ、私たちは突き動かされるのです。だからこそ、この世の小さき者を愛そうとするし、私たちをお救いくださった神さまを礼拝する。そうです。だからこそ、礼拝も愛の実践も倫理・道徳観も宣教も世界平和も、似ているように思えるけれども、オリジナリティー・独自性を発揮することになる。そこに、イエスさまがおられるから。イエスさまを土台としているから。だからこその存在価値もある。キリスト教である必要がある。そうではないでしょうか。
先ほども少し触れましたように、私自身は、自分のことも含めて、「信仰と実践」の結び付きは大きな課題だと思っています。ですから、様々なところからも学ぶ必要を感じていますし、反省する必要も覚える。しかし、この土台は譲れないのです。どう言われようと、社会からどう見られようと、この土台は譲れない。この土台を無くしてしまったら、もう私たちは私たちじゃなくなってしまうから。それでは、この世界にも貢献できないし、天の門を閉ざしてしまうことにもなってしまう。それは、良くない。たとえ小さくても、私たちにしかないもの、私たちにしか語り得ないものを、私たちは土台として持っているのですから、なおもそこに立ち続けていきたいし、立って行かなければならない、そう思っています。
祈ります。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。今日は牧師の夏季休暇のために信徒礼拝となっていますが、この礼拝を豊かに祝してくださっていることを覚えて感謝をいたします。教会にとっては苦難の時が続いており、人々が、特に若い方々が教会に、キリスト教に見向きもしてくれないことに焦りを感じて、様々な計画・方法論に翻弄されているようにも感じています。しかし、私たちのこの土台を見失ってしまっては元も子もありません。今の人々に届く方法を探りながらも、なおもこの原点に堅く立ち、むしろ豊かにあなたの恵みを、イエスさまの御言葉を、陰府にも打ち勝つ力を体験・経験しながら、私たちにしかできない世への貢献を、宣教の業(わざ)を推し進めていくことができますように、小さな私たちを力づけお導きくださるようお願いいたします。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
アーメン」
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