2022年2月2日水曜日

2月6日(日)顕現後第5主日礼拝のご案内

 お知らせ 1月30日の礼拝から家庭礼拝です!!!

長野県新型コロナウィルスまん延防止重点措置適用された
ことを受け、1月30日の礼拝から1か月間、家庭礼拝と
することにいたしました。
皆様、十分お気を付けください。

奈緒ちゃん、がんばれ!!








(旧約聖書)イザヤ書 

         6章1節~8節              

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一) 

         15章1節~11節  

(新約聖書)ルカによる福音書    
         5章1節~11節


恐れることはない。
今から後、あなたは人間を取る漁師になる。


    

       







『 弟子 』  筑田 仁 牧師

私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、

あなたがたにあるように。   アーメン

シモン・ペトロはある意味、人生に何の期待もしていなかったのだと思います。彼は漁師でありました。日々、暗澹たる思いの中で、漁で生計を立てていたのです。代り映えのない日常でありました。ナザレのイエスの噂話は聞いていたことと思います。しかし、ナザレのイエスの話を聞いても、毎日の生活のために漁の仕事をすることで忙しく、預言者の登場に浮かれている場合ではなかったのです。

私達もある意味、同じです。日々の生活を維持するために働くことで精一杯で、一日一日の生活は思い煩いの中で過ぎ去っていくものです。

シモン・ペトロとナザレのイエスとの出会いは、そのような生活のただ中で起こりました。疲れきっているペトロに、主イエスは網を降ろし、再び漁に出なさいと言うのです。徹夜での漁の作業をし終わって、網を洗っていたときのことです。仕事は終わっていたのです。この申し出は少し非常識でもありました。

ペトロはここで不思議なことを言います。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。彼は、主イエスの言葉のままに従い、行動したのです。

今日の福音書はここから出来事が展開します。今日も福音書に聞いていきたいと思います。

主イエスの助言は的確なものでした。おびただしい数の魚が、網に溢れるほどにとれたのです。主イエスの奇跡は今回も予想できないかたちで行われました。

日々の生活の中で、仕事に追われ、疲れはてて生計を立てていたペトロ。彼は思わず主イエスの足元に膝まずき、こう言います。8節。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」

この言葉、この告白、私たち人間が、聖なるもの、神聖なものに触れたときに発する言葉です。ペトロは生活を維持するのに精一杯あったこの時に、聖なるものに触れたのです。

昔のギリシャの言葉で、クロノスとカイロスという言葉があります。どちらも時間を指し示す言葉です。クロノスは水平の方向に延びる時間のことで、私たちが日々、日常で刻んでいる時間のことです。カイロスは出会いの時と言えば良いのでしょうか。縦の方向で、この人生で徹底的な出会いの瞬間を指し示す言葉です。一生に一度しかないような時間を指し示して言う言葉なのです。

ペトロはこれまで日常の時間、クロノスを生きてきたのです。しかし、主イエス・キリストと出会いをして、この瞬間、カイロス、神から与えられた特別な時を経験しました。主イエスを通して、人生の中で最も大切なひと時を体験したのです。それは垂直的な神との出会いの時でありました。彼はこの時、まさに人生で一番深く、大切な主イエスとの出会いを体験したのです。ペトロの出会いは神聖なものとの直接的な触れ合いでした。

ペトロの反応は興味深いものです。「わたしから離れてください」と言うのです。神が現れたとき、私たちの最初の感情は「畏れ」です。畏怖の思いとも言えるでしょう。ペトロは神の存在に対して、自分自身の小ささ、貧しさ、罪深さを告白するのです。

クロノスとカイロス、この関係は相おぎなうものです。日々の日常はクロノスで流れていきます。カイロスが神から与えられる大切な時だからと言って、このことだけを強調することはできません。しかし、人生はクロノス、普段の日常の時だけで終わるとしたら寂しいものです。やはり、神との垂直的な関係や人生の決定的な瞬間はあるものです。私たちはカイロスの時を経験したならば、その時を大切にして深めていきたいと思います。

もう少し、このクロノスとカイロスの時間の捉え方を深めます。

人生は日常の生活が何よりも大切です。私達には、この何げない日常の中に、神が与えてくださる宝物が隠されているように思います。家族や友人たちと交わすありふれた言葉、その生活に埋もれている時と場面で、神は時折、心にしみ込むような言葉を与えて下さいます。皆さん、さりげなく交わされた家族や友人の言葉を、時にいとおしく感じる時はないでしょうか。ありふれた言葉、あたりまえの出来事が、自分の心の機微に触れ、他の何よりもかえがたいものに感じるときはないでしょうか。実は、日常のクロノスの中に、ありきたりの生活のただ中に、宝物のようにカイロスのときが埋もれているとも言えるのです。

日常の時間の流れの中に、実はカイロスの時はひそんでいて、私たちは気づきさえあれば、そこで本物の出会いを経験していけるのです。

ペトロはまさに日常の中で主イエスと出会い、その当たり前の出来事の中でカイロスを見いだしました。その主イエスとの出会いから、彼は全てを捨てて主イエスに従うことにしました。

繰り返しますが、クロノスとカイロスは相おぎない合うものです。ある意味、日常の仕事や生活をしっかりと送っていたペトロであるがゆえに、主イエスとかけがえのない出会いを特別なものとして経験することができたのです。

私たちの日々の営みの中に、日常の生活のただ中に、実はペトロのようにカイロスが隠されています。私たちは、自分自身の生活を深く見つめることの中で、神の時、神の言葉、神の出来事を、見いだしていきたいと思います。

日々与えられている生活のただ中で主イエスとの交わりの時を、神の時を、見つめ続けていきたい、そう心から願います。

 

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。      アーメン


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