2022年2月13日日曜日

2月20日(日)顕現後第7主日礼拝のご案内

 お知らせ 1月30日の礼拝から家庭礼拝です!!!

長野県新型コロナウィルスまん延防止重点措置適用された
ことを受け、1月30日の礼拝から1か月間、家庭礼拝と
することにいたしました。
皆様、十分お気を付けください。
奈緒ちゃん、お疲れさま!






(旧約聖書)創世記 

         45章3節~11節、15節              

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一) 

         15章35節~38節、42節~50節  

(新約聖書)ルカによる福音書    
         6章27節~38節
敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、
あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。






    

       







『 敵を愛しなさい 』  筑田 仁 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン                        

人間の限界があると思います。「あなたがたは敵を愛しなさい」と言われても、どうしてもできないことの方が多いと私は思ってしまうのです。

しかし、私は思うのですが、信仰の役割というのは、結局、他者そして隣人同士の私たちの関わりが、一体どのような関わりであるのかということに応答するものであると思います。もう少しかみ砕いて言うならば、その信仰から、あなた自身が、他者そして隣人に接する時に、具体的などのような変化がもたらされたのか、ということです。どのような深い信仰を抱いていても、個人の心の中だけでその信仰が終始しているならば、それはその役割を果たしているとはなかなか言えません。

隣人、他者と一体どのような関わりを持つのか。これは信仰者の大きな課題であると言えるのです。今日は、この課題を受け止めて、黙想を重ねていきたいと思います。

敵を愛することはできますでしょうか。敵として私たち自身が感じている人は、それぞれにいることでしょう。どうしてもその相手を敵とみなしてしまう。憎しみの感情を抱いてしまう相手はいるのです。その相手のことを考えるとき、まるでこの世の地獄にいるような思いを抱いてしまいます。私たち神への信仰に生きる者は、この意味で、人生の暗闇を生きていかなければならないのです。

他者に本当に心を砕いて歩んでいるのです。精一杯の努力を傾けて、自分がその時に出会う一人一人と大切に接しているのです。しかし、時には相手からそっぽを向けられる時もあります。至らない結果に終わるときもあります。神に切実に祈りつつ他者と接していても、その関わりはいつも実り深いものになるとは限りません。

この葛藤を抱え、今日のみ言葉に向き合うとき、一体どのように主イエスの言葉を受け止められるでしょうか。

恐らく一つ言えることがあります。それは、憎しみが時には必要であると言うことです。本当に愛情深く生きるのならば、他者を憎むことも必要です。主イエスご自身も、当時、律法学者やファリサイ派の人々の憎しみをかったのです。民らの理解も、熱狂的な歓迎もありましたが、最終的には全ての人々から見捨てられて主は命を落としていくのです。憎しみ、心の裏腹、嫉妬、人間の抱える負の感情のただ中で、主はそのご生涯を歩まれたのです。私は、主イエスご自身も他者を憎むことがあったと思います。主イエスも律法学者やファリサイ派の人々に憎しみの思いを持っていたと思います。数々の激しい議論がそのことを証明していると思うのです。

しかし、です。主イエスは一人の人間として、憎しみを抱いていたからこそ、愛の深さも理解していたのではないでしょうか。きれいな隣人愛を説いただけではないのです。主は人間が抱える負の感情を全て理解して、その心に負っていたのです。他者を憎むほどにその相手のことを考えるのならば、その相手に時間を割いて心を傾けるのであるならば、その憎しみは愛情と同じくらいのものと理解できるのではないでしょうか。愛と憎しみはコインの表裏のようなものです。主は、まことの人として、激しい愛情と憎しみの狭間を生きぬかれました。徹底的に他者を愛し、徹底的に他者を憎み、そして全てをひっくるめて愛の生涯を生き抜いたのです。

主イエスは、「敵を愛しなさい」と言われました。これは私達にとって爆弾みたいな発言です。主は人間の愛情も、激しい憎しみも抱えて生きて来られ、その上で、「敵を愛しなさい」との声を民らに、そして弟子たちに語りかけたのです。愛と憎しみを自ら生き抜いて、最後にはゴルゴダの丘で生涯を全うされました。だからこそ、主の言葉には説得力があります。主イエスの説教の言葉から、私たちは、主イエス・キリストの愛を感じます。愛と憎しみの裏腹を自ら生き抜いて、そして人間の抱える哀しみと、さがとを受け入れて、彼は十字架までの道を歩まれるのです。

「あなたがたは敵を愛しなさい。」この説教には主イエスの実存が、そのとうといご生涯の歩みが、そして全ての思いが込められて発せられています。敵を愛せない私たち。しかし、愛の人生は、愛の生涯は、憎しみや哀しみ、その全てをひっくるめた上で考えていくものではないでしょうか。一時の憎しみの感情に縛られる必要はありません。あなたが愛を生きた人であったかどうかは、まさに神がその終わりのときに、あなたが抱えた憎しみと不条理を、哀しみを、全て見越した上で考えられていくものではないでしょうか。

安心して他者との葛藤の人生を歩んでもいいのです。負の感情に縛られてもいいのです。主イエスは、あなたの弱さの全てをかんがみないようなお方ではありません。

今週も、神が与えてくださる恵みの中を大胆に歩んでいこうではありませんか。私たちの抱えざるを得ない七転八倒の人生の全てを神が受け入れてくださいます。おそらく、神は、私達の日常の姿をこのままで受け入れて下さるのです。

日々、神が注がれる赦しの中を、たとえ、それが迷いと葛藤の中での歩みであったとしても、私たちは前を向いて、心を高く挙げて、歩んでいきたいと心から祈り願います。

 

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。     アーメン


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