2022年2月6日日曜日

2月13日(日)顕現後第6主日礼拝のご案内

 お知らせ 1月30日の礼拝から家庭礼拝です!!!

長野県新型コロナウィルスまん延防止重点措置適用された
ことを受け、1月30日の礼拝から1か月間、家庭礼拝と
することにいたしました。
皆様、十分お気を付けください。









(旧約聖書)エレミヤ書 

         17章5節~10節              

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一) 

         15章12節~20節  

(新約聖書)ルカによる福音書    
         6章17節~26節
貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。





    

       







『 幸いと不幸 』  筑田 仁 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン                    

今日の福音書は主イエス・キリストの「平地の説教」と言われているところです。主イエスは、目を上げ、弟子たち、そして集っていた人々を前にして慰めの言葉を語るのです。20節です。

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」

 ここでの貧しい人々は、貧困の中にある人を示しています。心が貧しいとか、精神的に貧しいとか、内面を指し示して言っていることではありません。具体的に貧困生活を送っており、その日の食物も手にすることが難しい人々のことです。当時は、教育制度も整っておらず、子どもも小さい時から働かなければなりませんでした。その日の食物を手にすることも難しく、毎日、日雇いの仕事をしてなんとか食いつないでいる人々に、主イエスは慰めの言葉を語るのです。

 「幸いである」という言葉、「あなたに神の祝福があります」と原語から訳すこともできます。今、貧しさのただ中にある人を目の前にして、主イエスは、あなたにこそ神の豊かな祝福がある、神の国は貧しさにがんじがらめになっているあなたにあるのです、と語りかけます。神があなたと共におられ、あなたに慰めのみ手を注いで下さっている、だから、元気を出しなさい、神ご自身があなたに慰めを送るのだと、主イエスはいたわりの言葉をかけられるのです。

 キリストは慰めの王でした。ご自身も貧困の中で生活をしており、神の国の宣教活動に12弟子たちを連れて進んでいました。「人の子には枕するところもない」と漏らすほど、宣教の旅路は貧しさが伴い、厳しい生活を強いられたのです。だからこそ、主イエスは、人間の本質を見抜いていました。富や快楽にふける裕福な人々と比較して、貧しい人々が神に潜心して祈り、その救いをどれだけ待ち望んでいるのか、実際に、肌感覚で理解されていたのです。

主イエスは慰めの中心点を見抜いていました。逆境の道や闇路を歩くかのような人生を送らざるを得ない人々のその心に、あなたの人生が本当に尊いものであり、あなたの悲しみの人生にも、神が慰めをもって共にいて下さるのだと、述べられたのです。

人生に慰めを見いだせない。人生の慰めの言葉が欲しいと考える方もおられると思います。私自身もときおり本当の慰めを思案し、飢え渇くこの心に、こんこんと湧き上がる泉のようなところから、いのちの水が欲しいと切望するときがあります。私たちの人生において、この生活の中で慰めを求めることは本当に切実な願いです。年を重ねるほど、この渇いた魂にいのちの水が欲しいと思うようになりました。

私の語るみ言葉の説教が、どうか慰めに満ちていてほしいと、私は何度これまで祈りを重ねてきたことでしょうか。皆さんお一人お一人の顔を思い浮かべながら、何度、この声と言葉が皆さんの魂の深いところに届き、慰めの調べとなってくれればと願ってきたことでしょうか。牧師のする説教とは、信徒への魂の配慮である牧会とは、尽きるところ人生の慰めを届ける働きのように私には思われます。

主イエス・キリストは、あきらかに、そして果敢に、貧しき者、悲嘆の中にある者の心を気遣い、魂の慰めへと挑戦するみ言葉を語られたのです。私は、主イエスの卓越したすがたをここに見るのです。

私たちは、主イエス・キリストといういのちの泉に手を伸ばしたく思います。この方は聖書のみ言葉を通して、礼拝と祈りの時を通して、そして日々の暮らしでのご臨在を通して、絶えず私たちを励ましてくださいます。ある意味、私たちの人生と生涯は、それぞれの渇きを満たしていくための果てしない歩みとも言えるでしょう。私たちは、キリストにこの渇きを委ね、キリストといういのちの泉から魂の渇きを満たしていただいて、人生の歩みを進めていきたいと願います。

日々の祈り、黙想が私たちの歩みと生活を形づくっていきます。至らない自分という人間に、キリストはいつも慰めの言葉をかけ、その御手を伸ばしてくださいます。

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」

確かに、主イエスは経済的に疲弊した人々にこの言葉を語りかけられました。しかし、この説教は奥が深いものです。主イエス・キリストは飢え乾く人間の魂を見抜いた上で、いたわりと慰めの言葉をかけられるのです。この方のいのちの泉は決して枯れたり、渇くことはありません。このいのちの泉に今日も、私たちの魂を注いで、枯れることのない井戸から豊かな水を汲んでいきたいと思います。

このみ言葉に今日も支えられ、かみしめて、そしてみ言葉から魂の養いを頂いて、今週一週間も歩んでいきたいと思います。

 

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。     アーメン





0 件のコメント:

コメントを投稿