3月2日(水)午後1:30~2:30
灰の水曜日礼拝を行いました。
灰の水曜日とは?
3月2日(水)午後1:30~2:30
灰の水曜日礼拝を行いました。
灰の水曜日とは?
長野県新型コロナウィルスまん延防止重点措置適用
されたことを受け、3月6日の礼拝は家庭礼拝と
することにいたしました。
悪魔はイエスを高く引き上げ、 一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 そして悪魔は言った。 「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。 それはわたしに任されていて、 これと思う人に与えることができるからだ。 だから、もしわたしを拝むなら、 みんなあなたのものになる。」 イエスはお答えになった。 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』 |
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
今日の福音書は、いわゆる主イエスの荒れ野の誘惑です。現在の国際社会の中で、とある国への軍事進攻が行われています。私たちは、この事態をどのように見ていけばいいのでしょうか。少し、この視点で今日はみ言葉を読んでいきたいと思います。
悪魔は聖書の言葉で主イエスを誘おうとされたのです。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエスは飢えのなかにいました。飢えとは、戦争や戦後の世代を生きられた方はお分かりの通り、人間の根幹を揺るがすものです。飢えは人間に理性を失わせます。悪魔は、そこをついて空腹を覚えられた主イエスに一言、誘惑の言葉をかけるのです。3節。
「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』」
敢えて悪魔は主イエスに対して、あなたが「神の子なら」と、主イエスの立ち位置を尊重します。石をパンに変えること、主イエスならばできたことでしょう。なんの問題もなかったはずです。しかし、主イエスは、この悪魔の誘惑に毅然として答えます。4節。
「イエスは、『人はパンだけで生きるものではない』と書いてあるとお答えになった。」
この引用は、旧約聖書の申命記のからの引用です。申命記ではこのように書かれています。
申命記8章3節です。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」ここで主イエスは、人間がパンや肉の糧のみで生きるのではないと言われたのです。いや、むしろ人間は根本的に主の口から出るすべての言葉、つまり神の言葉によって生きると、人間の確信部分を突かれたのです。
ご自分の飢えを感じられた主イエスはパンの誘惑の中で、敢えて私たちが神の言葉によって生きると言われました。物質的なものが私たちを満たすのではなく、本来、私たちは神の言葉によって生きているのであると、私たち人間のもっとも大切なことを告げられたのです。
争いが支配し、闇がこの世界を覆っているかのようにも思われる時世です。人間が暴力によって、力によって、他の人間を、国家を、支配しようとすることがまかり通っている事態です。本来、人間は神の言葉、神のいのちによって生かされているものです。他のいのちを力と暴力によって奪ってはいけないのです。他のいのちを尊重して然るべきです。なぜならそもそも私たちのいのちは神から頂いているものだからです。これは人道的にも大切なことです。
この世は、神の支配する世界でしょうか。それとも悪魔の支配する世界でしょうか。次の主イエスに対する悪魔の誘惑は、この世での繁栄と権力に関するものでありました。6節。
「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
あなたに権力を与える、あなたは繁栄を手にすることができる、しかし、条件がある。もし、悪魔である私を拝むならば、と言うのです。悪魔は、私にひれ伏すならば、この世の富、権力、力、支配を与えようと言うのです。私たちは正直、このような悪魔の誘惑に負けるときがあります。侵攻、侵略によって、確かに権力を手にしようとし、暴力を正当防衛の手段にして悪魔の誘惑に屈してしまうときがあります。今の国際紛争はこのことを指し示していると思われます。主イエスはこの事態になんと答えられたのでしょうか。8節。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
権力を欲しいがために悪魔に屈してしまうのではなく、ただ純粋に神にのみ仕えなさいと言うのです。
私たちは今回の国際問題に心が乱れます。この事態をいったいどのように理解して、現状を認識していけば良いのかも戸惑う面があります。国家の暴力に国際社会はなすすべを知らないのです。しかし、悪魔に身を委ねることなく、私たちは、この世界に神の国を、まことの神の平和を形づくっていくことが求められています。軍事力という力の誇示によって尊い人間のいのちが奪われてはならないのです。主イエスはいのちと平和の立場から、人間の尊厳を守るように言います。私たちは、神の言葉、神のいのちに生かされている以上、神の国とまことの神の平和を創ることへと召し出されているのです。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」
今回の軍事侵攻は、私たちの心を暗くさせます。キリストに従う者は神に祈りを捧げ、その神に仕えることを第一の目的にして、これからもこの惨事に連帯の思いをもって歩んでいきたいと思います。悪魔の誘惑に屈することなく、平和の神の世界を形づくっていきたいと思います。人間は本来、主の口から出るすべての言葉によって生きるのです。神の言葉と神から与えられたいのちを何よりも大切にしたいのです。平和の神を真実に祈り求め、そして、この社会の平和を祈り支えていきましょう。
キリストの平和が、私たちのこの世界に、そしてこの社会を分かち合う全ての人々の心に行き渡りますように心から祈り願っています。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みであふれさせてくださるように。 アーメン
お知らせ 2月27日の礼拝を再開します!!!
お知らせ 1月30日の礼拝から家庭礼拝です!!!
奈緒ちゃん、お疲れさま! |
敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、 あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 |
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
人間の限界があると思います。「あなたがたは敵を愛しなさい」と言われても、どうしてもできないことの方が多いと私は思ってしまうのです。
しかし、私は思うのですが、信仰の役割というのは、結局、他者そして隣人同士の私たちの関わりが、一体どのような関わりであるのかということに応答するものであると思います。もう少しかみ砕いて言うならば、その信仰から、あなた自身が、他者そして隣人に接する時に、具体的などのような変化がもたらされたのか、ということです。どのような深い信仰を抱いていても、個人の心の中だけでその信仰が終始しているならば、それはその役割を果たしているとはなかなか言えません。
隣人、他者と一体どのような関わりを持つのか。これは信仰者の大きな課題であると言えるのです。今日は、この課題を受け止めて、黙想を重ねていきたいと思います。
敵を愛することはできますでしょうか。敵として私たち自身が感じている人は、それぞれにいることでしょう。どうしてもその相手を敵とみなしてしまう。憎しみの感情を抱いてしまう相手はいるのです。その相手のことを考えるとき、まるでこの世の地獄にいるような思いを抱いてしまいます。私たち神への信仰に生きる者は、この意味で、人生の暗闇を生きていかなければならないのです。
他者に本当に心を砕いて歩んでいるのです。精一杯の努力を傾けて、自分がその時に出会う一人一人と大切に接しているのです。しかし、時には相手からそっぽを向けられる時もあります。至らない結果に終わるときもあります。神に切実に祈りつつ他者と接していても、その関わりはいつも実り深いものになるとは限りません。
この葛藤を抱え、今日のみ言葉に向き合うとき、一体どのように主イエスの言葉を受け止められるでしょうか。
恐らく一つ言えることがあります。それは、憎しみが時には必要であると言うことです。本当に愛情深く生きるのならば、他者を憎むことも必要です。主イエスご自身も、当時、律法学者やファリサイ派の人々の憎しみをかったのです。民らの理解も、熱狂的な歓迎もありましたが、最終的には全ての人々から見捨てられて主は命を落としていくのです。憎しみ、心の裏腹、嫉妬、人間の抱える負の感情のただ中で、主はそのご生涯を歩まれたのです。私は、主イエスご自身も他者を憎むことがあったと思います。主イエスも律法学者やファリサイ派の人々に憎しみの思いを持っていたと思います。数々の激しい議論がそのことを証明していると思うのです。
しかし、です。主イエスは一人の人間として、憎しみを抱いていたからこそ、愛の深さも理解していたのではないでしょうか。きれいな隣人愛を説いただけではないのです。主は人間が抱える負の感情を全て理解して、その心に負っていたのです。他者を憎むほどにその相手のことを考えるのならば、その相手に時間を割いて心を傾けるのであるならば、その憎しみは愛情と同じくらいのものと理解できるのではないでしょうか。愛と憎しみはコインの表裏のようなものです。主は、まことの人として、激しい愛情と憎しみの狭間を生きぬかれました。徹底的に他者を愛し、徹底的に他者を憎み、そして全てをひっくるめて愛の生涯を生き抜いたのです。
主イエスは、「敵を愛しなさい」と言われました。これは私達にとって爆弾みたいな発言です。主は人間の愛情も、激しい憎しみも抱えて生きて来られ、その上で、「敵を愛しなさい」との声を民らに、そして弟子たちに語りかけたのです。愛と憎しみを自ら生き抜いて、最後にはゴルゴダの丘で生涯を全うされました。だからこそ、主の言葉には説得力があります。主イエスの説教の言葉から、私たちは、主イエス・キリストの愛を感じます。愛と憎しみの裏腹を自ら生き抜いて、そして人間の抱える哀しみと、さがとを受け入れて、彼は十字架までの道を歩まれるのです。
「あなたがたは敵を愛しなさい。」この説教には主イエスの実存が、そのとうといご生涯の歩みが、そして全ての思いが込められて発せられています。敵を愛せない私たち。しかし、愛の人生は、愛の生涯は、憎しみや哀しみ、その全てをひっくるめた上で考えていくものではないでしょうか。一時の憎しみの感情に縛られる必要はありません。あなたが愛を生きた人であったかどうかは、まさに神がその終わりのときに、あなたが抱えた憎しみと不条理を、哀しみを、全て見越した上で考えられていくものではないでしょうか。
安心して他者との葛藤の人生を歩んでもいいのです。負の感情に縛られてもいいのです。主イエスは、あなたの弱さの全てをかんがみないようなお方ではありません。
今週も、神が与えてくださる恵みの中を大胆に歩んでいこうではありませんか。私たちの抱えざるを得ない七転八倒の人生の全てを神が受け入れてくださいます。おそらく、神は、私達の日常の姿をこのままで受け入れて下さるのです。
日々、神が注がれる赦しの中を、たとえ、それが迷いと葛藤の中での歩みであったとしても、私たちは前を向いて、心を高く挙げて、歩んでいきたいと心から祈り願います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン
お知らせ 1月30日の礼拝から家庭礼拝です!!!
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
今日の福音書は主イエス・キリストの「平地の説教」と言われているところです。主イエスは、目を上げ、弟子たち、そして集っていた人々を前にして慰めの言葉を語るのです。20節です。
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」
ここでの貧しい人々は、貧困の中にある人を示しています。心が貧しいとか、精神的に貧しいとか、内面を指し示して言っていることではありません。具体的に貧困生活を送っており、その日の食物も手にすることが難しい人々のことです。当時は、教育制度も整っておらず、子どもも小さい時から働かなければなりませんでした。その日の食物を手にすることも難しく、毎日、日雇いの仕事をしてなんとか食いつないでいる人々に、主イエスは慰めの言葉を語るのです。
「幸いである」という言葉、「あなたに神の祝福があります」と原語から訳すこともできます。今、貧しさのただ中にある人を目の前にして、主イエスは、あなたにこそ神の豊かな祝福がある、神の国は貧しさにがんじがらめになっているあなたにあるのです、と語りかけます。神があなたと共におられ、あなたに慰めのみ手を注いで下さっている、だから、元気を出しなさい、神ご自身があなたに慰めを送るのだと、主イエスはいたわりの言葉をかけられるのです。
キリストは慰めの王でした。ご自身も貧困の中で生活をしており、神の国の宣教活動に12弟子たちを連れて進んでいました。「人の子には枕するところもない」と漏らすほど、宣教の旅路は貧しさが伴い、厳しい生活を強いられたのです。だからこそ、主イエスは、人間の本質を見抜いていました。富や快楽にふける裕福な人々と比較して、貧しい人々が神に潜心して祈り、その救いをどれだけ待ち望んでいるのか、実際に、肌感覚で理解されていたのです。
主イエスは慰めの中心点を見抜いていました。逆境の道や闇路を歩くかのような人生を送らざるを得ない人々のその心に、あなたの人生が本当に尊いものであり、あなたの悲しみの人生にも、神が慰めをもって共にいて下さるのだと、述べられたのです。
人生に慰めを見いだせない。人生の慰めの言葉が欲しいと考える方もおられると思います。私自身もときおり本当の慰めを思案し、飢え渇くこの心に、こんこんと湧き上がる泉のようなところから、いのちの水が欲しいと切望するときがあります。私たちの人生において、この生活の中で慰めを求めることは本当に切実な願いです。年を重ねるほど、この渇いた魂にいのちの水が欲しいと思うようになりました。
私の語るみ言葉の説教が、どうか慰めに満ちていてほしいと、私は何度これまで祈りを重ねてきたことでしょうか。皆さんお一人お一人の顔を思い浮かべながら、何度、この声と言葉が皆さんの魂の深いところに届き、慰めの調べとなってくれればと願ってきたことでしょうか。牧師のする説教とは、信徒への魂の配慮である牧会とは、尽きるところ人生の慰めを届ける働きのように私には思われます。
主イエス・キリストは、あきらかに、そして果敢に、貧しき者、悲嘆の中にある者の心を気遣い、魂の慰めへと挑戦するみ言葉を語られたのです。私は、主イエスの卓越したすがたをここに見るのです。
私たちは、主イエス・キリストといういのちの泉に手を伸ばしたく思います。この方は聖書のみ言葉を通して、礼拝と祈りの時を通して、そして日々の暮らしでのご臨在を通して、絶えず私たちを励ましてくださいます。ある意味、私たちの人生と生涯は、それぞれの渇きを満たしていくための果てしない歩みとも言えるでしょう。私たちは、キリストにこの渇きを委ね、キリストといういのちの泉から魂の渇きを満たしていただいて、人生の歩みを進めていきたいと願います。
日々の祈り、黙想が私たちの歩みと生活を形づくっていきます。至らない自分という人間に、キリストはいつも慰めの言葉をかけ、その御手を伸ばしてくださいます。
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」
確かに、主イエスは経済的に疲弊した人々にこの言葉を語りかけられました。しかし、この説教は奥が深いものです。主イエス・キリストは飢え乾く人間の魂を見抜いた上で、いたわりと慰めの言葉をかけられるのです。この方のいのちの泉は決して枯れたり、渇くことはありません。このいのちの泉に今日も、私たちの魂を注いで、枯れることのない井戸から豊かな水を汲んでいきたいと思います。
このみ言葉に今日も支えられ、かみしめて、そしてみ言葉から魂の養いを頂いて、今週一週間も歩んでいきたいと思います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン
お知らせ 1月30日の礼拝から家庭礼拝です!!!
奈緒ちゃん、がんばれ!! |
私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、
あなたがたにあるように。 アーメン
シモン・ペトロはある意味、人生に何の期待もしていなかったのだと思います。彼は漁師でありました。日々、暗澹たる思いの中で、漁で生計を立てていたのです。代り映えのない日常でありました。ナザレのイエスの噂話は聞いていたことと思います。しかし、ナザレのイエスの話を聞いても、毎日の生活のために漁の仕事をすることで忙しく、預言者の登場に浮かれている場合ではなかったのです。
私達もある意味、同じです。日々の生活を維持するために働くことで精一杯で、一日一日の生活は思い煩いの中で過ぎ去っていくものです。
シモン・ペトロとナザレのイエスとの出会いは、そのような生活のただ中で起こりました。疲れきっているペトロに、主イエスは網を降ろし、再び漁に出なさいと言うのです。徹夜での漁の作業をし終わって、網を洗っていたときのことです。仕事は終わっていたのです。この申し出は少し非常識でもありました。
ペトロはここで不思議なことを言います。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。彼は、主イエスの言葉のままに従い、行動したのです。
今日の福音書はここから出来事が展開します。今日も福音書に聞いていきたいと思います。
主イエスの助言は的確なものでした。おびただしい数の魚が、網に溢れるほどにとれたのです。主イエスの奇跡は今回も予想できないかたちで行われました。
日々の生活の中で、仕事に追われ、疲れはてて生計を立てていたペトロ。彼は思わず主イエスの足元に膝まずき、こう言います。8節。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」
この言葉、この告白、私たち人間が、聖なるもの、神聖なものに触れたときに発する言葉です。ペトロは生活を維持するのに精一杯あったこの時に、聖なるものに触れたのです。
昔のギリシャの言葉で、クロノスとカイロスという言葉があります。どちらも時間を指し示す言葉です。クロノスは水平の方向に延びる時間のことで、私たちが日々、日常で刻んでいる時間のことです。カイロスは出会いの時と言えば良いのでしょうか。縦の方向で、この人生で徹底的な出会いの瞬間を指し示す言葉です。一生に一度しかないような時間を指し示して言う言葉なのです。
ペトロはこれまで日常の時間、クロノスを生きてきたのです。しかし、主イエス・キリストと出会いをして、この瞬間、カイロス、神から与えられた特別な時を経験しました。主イエスを通して、人生の中で最も大切なひと時を体験したのです。それは垂直的な神との出会いの時でありました。彼はこの時、まさに人生で一番深く、大切な主イエスとの出会いを体験したのです。ペトロの出会いは神聖なものとの直接的な触れ合いでした。
ペトロの反応は興味深いものです。「わたしから離れてください」と言うのです。神が現れたとき、私たちの最初の感情は「畏れ」です。畏怖の思いとも言えるでしょう。ペトロは神の存在に対して、自分自身の小ささ、貧しさ、罪深さを告白するのです。
クロノスとカイロス、この関係は相おぎなうものです。日々の日常はクロノスで流れていきます。カイロスが神から与えられる大切な時だからと言って、このことだけを強調することはできません。しかし、人生はクロノス、普段の日常の時だけで終わるとしたら寂しいものです。やはり、神との垂直的な関係や人生の決定的な瞬間はあるものです。私たちはカイロスの時を経験したならば、その時を大切にして深めていきたいと思います。
もう少し、このクロノスとカイロスの時間の捉え方を深めます。
人生は日常の生活が何よりも大切です。私達には、この何げない日常の中に、神が与えてくださる宝物が隠されているように思います。家族や友人たちと交わすありふれた言葉、その生活に埋もれている時と場面で、神は時折、心にしみ込むような言葉を与えて下さいます。皆さん、さりげなく交わされた家族や友人の言葉を、時にいとおしく感じる時はないでしょうか。ありふれた言葉、あたりまえの出来事が、自分の心の機微に触れ、他の何よりもかえがたいものに感じるときはないでしょうか。実は、日常のクロノスの中に、ありきたりの生活のただ中に、宝物のようにカイロスのときが埋もれているとも言えるのです。
日常の時間の流れの中に、実はカイロスの時はひそんでいて、私たちは気づきさえあれば、そこで本物の出会いを経験していけるのです。
ペトロはまさに日常の中で主イエスと出会い、その当たり前の出来事の中でカイロスを見いだしました。その主イエスとの出会いから、彼は全てを捨てて主イエスに従うことにしました。
繰り返しますが、クロノスとカイロスは相おぎない合うものです。ある意味、日常の仕事や生活をしっかりと送っていたペトロであるがゆえに、主イエスとかけがえのない出会いを特別なものとして経験することができたのです。
私たちの日々の営みの中に、日常の生活のただ中に、実はペトロのようにカイロスが隠されています。私たちは、自分自身の生活を深く見つめることの中で、神の時、神の言葉、神の出来事を、見いだしていきたいと思います。
日々与えられている生活のただ中で主イエスとの交わりの時を、神の時を、見つめ続けていきたい、そう心から願います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン