2020年4月25日土曜日

4月26日(日)復活節第3主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。


(旧約聖書)使徒言行録        2章14節a、

                      36節~41節

(新約聖書)ペトロの手紙(一)   1章17~23

(新約聖書)ルカによる福音書    24章13節~35節


道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか。

   『我が臨在、汝と共に行くべし』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 モーセは激しい怒りの中にいました。イスラエルの民をこれまで長い間導いてきたのです。モーセは、イスラエルの民の指導者としてエジプトの国から出発し、約束の地を目指して、荒れ野を率いて来ました。途中、葦の海の奇跡がありました。そして、幾つもの困難を越えたのち、主なる神、ヤハウェからシナイ山で十戒を授けられます。
 ところが、モーセがシナイ山の上でヤハウェから石の掟の板を授けられたとき、なんと、ふもとにいたイスラエルの民はアロンに金の子牛を造るようにお願いするのです。モーセが少しの間、不在であったためです。民はその金の子牛を、自分たちをエジプトから導き出した神々であるとみたて、崇め、そして祭りを行い、堕落した儀式を行うのです。
 私はここで考えてしまいました。民はなぜ腐敗するのであろうかと。神の人モーセは断固として民を荒れ野で導いてきたのです。しかし、その選ばれたイスラエルの民は、ほんのつかの間、モーセがシナイ山に登り、留守にするだけで偶像崇拝に走るのです。金の子牛をつくること、このことは偶像崇拝の罪を犯し、十戒にも反することなのです。
私には、この金の子牛の意味は、それだけではないように思います。民衆は、安易な慰めに走ってしまうのです。一見、金の子牛は豊穣の神を示し、豊かな実りを祝えることに結びつき、民衆の心を引きつけるのです。他方、ヤハウェの神は、一神教で厳しく、どんなに憐れみと恵みに富み給う神であったとしても、民衆の心を惹かないのです。この民衆は、安易なものにすぐ結びついてしまう心の暗闇を抱え、一時だけの快楽に酔いしれてしまうのです。
そこで、モーセは直ちに下山します。民が歌を歌い、祭りに酔いしれている様子を見て、激しく怒り、掟の板を粉々に砕いてしまいます。モーセはこの民を嘆きます。そして、モーセは、レビ人に命じて、その兄弟や友人、隣人を三千人殺させます。
 今日の説教はここからです。民は悔い改める一方で、神ご自身がモーセに、もはやイスラエルの民と同行しないと告げるのです。これまでイスラエルの民と共に歩んでくださったヤハウェの神が、もう民と一緒に歩まないと言います。このことは、イスラエルにとって一大事です。ヤハウェが一緒に歩んでくれたからこそ、モーセと民らは、この出エジプトという難局をかろうじて歩んでこれたのです。民は嘆き、モーセも神に必死に嘆願します。出エジプト記3313節を読みます。
「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。」
 モーセは自分の歩む道を見失い、深い嘆きの言葉を神に訴えます。神に民らの犯した罪の贖いを申し出るのです。

ここで憐れみ深い神は、モーセに応答します。このみ言葉は心に響く言葉です。出エジプト記3314節。「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」み言葉は新共同訳聖書の訳ですが、文語訳ではこのように書かれていました。
「我が臨在、汝と共に行くべし」
 神は、モーセと、そしてイスラエルの民とこれからも共におられると言われるのです。このみ言葉はモーセの存在を貫いたはずです。モーセだけではありません。このみ言葉は、ここから始まり旧約聖書全体を貫き、ひいては旧新約聖書全巻の根底に流れるような、神が私たちと共におられるという神の臨在の思想になったのです。
 わたしがこのみ言葉、「我が臨在、汝と共に行くべし」に出会ったのは、恥ずかしながら最近です。わたしは、新共同訳聖書で「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と読んできました。これまで正直、「ああ、共にいて下さる神様なんだな」と理解し、とくに深い印象を受けなかったのです。
しかし、ある時、ある印刷物に目を通していたときに、不意にみ言葉に出会いました。
「我が臨在、汝と共に行くべし」このみ言葉に神の峻厳さを感じます。み言葉一つで聖書信仰の大切なことを表現しています。私にとってこのみ言葉は衝撃でありました。
このみ言葉に出会った後、実はわたしは夜もあまり眠れませんでした。日中、み言葉が頭の中をぐるぐる回り、黙想を重ねました。そうなんだ、こんなに聖書信仰はシンプルで単純素朴でいいのだなと、心に染み込んでくるようでした。正直、身が引き裂かれるような体験でもありました。新型コロナウイルスがこの社会に蔓延し、無意識のうちに不安と恐れがこの身を覆う中、み言葉が、暗い私の先を照らし、光をもたらすかのように感じられたからです。
恥ずかしながら、ここまでみ言葉が私の心と体を貫いたことはありませんでした。み言葉がわたしの魂を捉え、掴みました。
 「我が臨在、汝と共に行くべし」実は、このみ言葉一つで一週間のわたしの生活が支えられ守られてきたのです。失意の中にあり、逆境の中で、わたしが生きていく道しるべになったように思います。
 新型コロナウイルスの感染拡大で、恐れ、そして緊張感が私たちの社会を覆っているように思われます。しかし、逆境の生活の中で、主なる神は「わたしがあなたと共にいる」と告げられるのです。「我が臨在、汝と共に行くべし」聖書では、神はどこにいるのか分からない神ではありません。弱く貧しいわたし、そしてわたしたちと共に、いて下さり歩みをそろえて下さる神なのです。
 
十戒を破り、偶像に走り、まことの神を侮るイスラエルの民らと共に神ヤハウェはおられます。モーセは必死に執り成しの祈りを捧げました。この祈りに答えるかのように、主なる神は「我が臨在、汝と共に」と答えられるのです。
 主なる神は、この世を覚束なく歩む私たちと共におられます。私たちはみ言葉に支えられ、慰められ、時にはみ言葉によって存在が引き裂かれるような思いを経験しつつも、それでもみ言葉と共に生きていくのです。
 「我が臨在、汝と共に行くべし」厳しい状況のなかで、み言葉が今日もわたしを捕らえ、離しません。神のみ言葉から慰めと、そして厳しさをも頂いて、暗闇の中の歩みを、希望と共に進めていきたく願います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                   アーメン 

2020年4月21日火曜日

4月19日(日)復活節第2主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)使徒言行録        2章14節a、

                      22節~32節

(新約聖書)ペトロの手紙(一)   1章3~9

(新約聖書)ヨハネによる福音書   20章19節~31節

あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。


   『 主の平和 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 かって私は20代の後半のときに、ある神学校で学んでいました。牧師になる道を志し、学んでいたのです。挫折の連続でした。神学校で学んでいたにもかかわらず、私はキリスト者というものを信用できませんでした。牧師を志す同学年の学生との交わりの中で、どうしてもキリスト者というもの、そして人間というものを信用することができず、結局牧師になる道を諦めたのです。それは私にとって大きな挫折でありました。
 献身を途中で諦めることは多くの方々に迷惑をかけました。祈り、見守り、支えて下さる方がいたのです。私はお手紙を書いて、牧師になれない旨を書きました。キリスト者への不信な思いがつのり、私は心を閉ざしたのです。
 所属教会の牧師はこのように話しました。「筑田君、あなたは復活をした主イエスの弟子たちのようね。自分の家の戸に全て鍵をかけて閉じこもり、心をも閉ざしています。」私のふさぎこんだ心を見透かすかのような言葉でした。
 今日の福音書は、まさに弟子たちが、主イエス・キリストが十字架にかかり復活されたときに、心を固く閉ざすところから始まるのです。ご一緒にみ言葉に聞いていきたく思います。
  
主イエスが十字架にかかられたのです。多くの人間がこの方こそ、メシア、救い主ではないかと期待をして従って来たのです。しかし、主イエスは群衆から見捨てられ、ユダヤ教の為政者からののしられ、弟子達からも裏切られ、当時のローマ帝国の権力者の手によって十字架にかけられました。メシアへの期待が強かった分、その後の失望も大きかったのです。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、集まり、戸に鍵をかけて閉じこもるのです。彼らは、主イエスを大声で非難し、叫んで、糾弾したユダヤの群衆から逃げるように避けて、暗闇のなかに自分たちの身を置くのです。
弟子たちは愚かではありません。閉じこもる弟子たちの姿をみて、なんて頼りのない弟子であろうかと非難する方もいるかもしれません。しかし、弟子たちは主イエスの十字架に至るまでの暴力的な群衆の姿を、不公平な裁判のあり方を、しっかり見届けていたのです。恐れ、まさに恐れが弟子たちの心を支配していたのです。
十字架にかけられた主イエスが、まことに復活をされました。そして、誰にも心をゆるさない弟子たちに顕れるのです。ヨハネによる福音書2019節。
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
人間を恐れ、そして主イエスの十字架によって全ての望みを失った弟子たちに、キリストは「平和があるように」との慰めの声をかけるのです。平和、これはその時、弟子たちが何よりも望んでいたことでした。
主イエスの神の国の宣教活動は大勢の群衆を巻き込み、嵐の渦のようでした。病人や障がいを負った人間を癒し、罪人のその罪を赦し、徴税人や娼婦たちとの交わりを誰よりも大切にした主イエス・キリストの公生涯。そのご生涯を通して、弟子たちは主イエスと一緒にパレスチナ地方をかけめぐり、神のみ業と癒しを目撃し、神の国の宣教に主イエスと共に必死に仕えてきたのです。この出来事を終えて、心と魂の平和、平安が弟子たちにとって何よりも必要であったのです。
加えて、ここで主イエス・キリストから弟子たちに与えられる平和は、この世がもたらすようなありがちな平和とは違っていました。ヨハネによる福音書1427節。
「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
主イエスはここで、心を騒がせるな、おびえるな、と語ります。そして、気休めの平和ではなく神が与えてくださる本当の平和を、まことの平和を、主イエス・キリストが残していくことを弟子たちに告げるのです。
だれもが今、この世情のなかで見失っている心の平和。主イエス・キリストが与えてくださるまことの心の慰め、平安があることを私たちは覚えておきたく思います。この世が与える気休めの安息ではなく、私たちの心の奥底には、決して誰にも侵されない平安があるのです。
たとえ、この世界が揺れ動き、震撼するような出来事が起こったとしても、神への信仰にしっかりと根ざし、キリストのみが与えてくださる平安、平和が私たちの魂の奥底にあるのだと、主イエスは語るのです。この揺らぐことのないキリストの平和を、主は今日のみ言葉を通して弟子たちに宣言されるのです。私たちは、このみ言葉を信じ、受け入れたいと思います。

弟子たちは、主イエスの復活と、主がこのように顕れたことに触れて、喜んだと書かれています。主イエス・キリストはまことに復活され、信じる一人一人に平和を残して下さいます。これは、世が与えるその場限りの慰めではありません。きっと、祈りの中で、私たちは揺らぐことのない平安、安心が心の深いところに与えられていることに気づくのではないでしょうか。
主イエス・キリストは、まことに復活されました。復活のキリストが私たちと共にいて下さるという事実だけで、もう平安と救いは近いのです。天と地をつかさどり、この世の全てを統べ治めたもう力なるキリストが、私たちの隣りを歩いて下さいます。「神、我らと共にいます」-このインマヌエルの事実に励まされて、慰められて、厳しい逆境の中を生きていきたく思います。
今、この世界を覆う全ての出来事に耳を塞ぎたくなるときがあります。人生は短いのですが、この短い人生に、こんなに厳しい試練があるということを不思議にも思います。怯えた弟子たちが全ての戸に鍵をかけて閉じこもった出来事は、私たちの今の日常にもあることです。
この限界を越えて、復活の主イエス・キリストが私たちのど真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と、慰めと労わりの声をかけられるのです。この方が残される確かな平和があることを信じ、受け入れて、今週一週間、心揺らぐことなく歩みを進めていきたく思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                     アーメン

2020年4月11日土曜日

4月12日(日)復活祭主日礼拝のご案内

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。

新型コロナウイルスの影響で、世界中で多くの感染者、死者が出ています。さながら過去のペストのように、この感染症は重い肺炎をもたらし、死に導くのです。私たちの社会でも都市を中心に、感染症の広がりが勢いを止めません。神よ、この慰めのない状況で、私たちは何を頼りに生きていけばいいのでしょうか。新型コロナウイルスの感染は、誰の手によっても守りようがなく、これができていれば感染が防げるという手立てもないのです。深い闇の力が私達を覆っています。もし、この世界的な苦悩の現実があなたの導きであるならば、どうぞ私たちにこの出来事から学ぶ謙虚な姿勢と深い信仰を与え、教えてください。



(旧約聖書)使徒言行録        10章34節~43節

(新約聖書)コロサイの信徒への手紙 3章1~4

(新約聖書)ヨハネによる福音書   20章1節~18節

わたしの父であり、あなたがたの父である方、
またわたしの神であり、あなたがたの神である方の
ところへわたしは上る。


    筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 イースター、おめでとうございます。「日曜日は、小さいイースターだ」という言い回しを聞いたことがありますか。毎週の主日は、主の復活を祝うイースターの縮 小版であるということでしょうか。私にとってこの表現は、長く納得のできるものでした。しかし、ある礼拝学者が次のように言うのを聞いて、考えをあらためさせられました。「毎週の日曜日は、決して小さいイースターではない。なぜなら、教会暦の成立を考えれば、主日としての日曜日の方が先であり、イースターはあとで加えられたものだからである。だから、日曜日が小さなイースターではなく、むしろ、イースターが大きな日曜日なのだ。」 
 毎日曜日、毎主日を小さなイースターと言うとき、そこで意識的・無意識的とに拘らず意図されるのは、毎週の礼拝は何か不完全なものであるということです。しかし、この礼拝学者はそうではないと言います。毎週の主日礼拝はそのままで充分であり、そこには欠けたものはないのです。そのような日曜日の、さらに大きなものがイースターであると言うとき、主の復活をおぼえる喜び、新しい命への希望も またさらに増し加えられるということになるでしょう。
 私たちはそのような大きな 日曜日、主日を、今日祝います。しかしそれは、新型コロナウイルスの感染拡大の 不安と恐れの中、いつもとは違うかたちで祝われます。教会での礼拝としてではなく、個人での、また少人数での祈りというかたちで祝われるのです。私たちはこの現実を、どのように受け取ればいいのでしょう。
 復活したイエスは、触れようとするマリアに、「私に触れてはいけない」(ヨハネ 20:17。聖書協会共同訳)と言います。死んだものと思っていたイエスが生きてい たという喜びに満たされ、驚き、興奮してイエスに触れようとするマリアの気持ちを想像することは難しくありません。しかしイエスは、それに水をかけるように言うのです、「触れてはいけない」と。おそらくマリアはがっかりしたことでしょう。 また、もどかしく感じたはずです。死んだと思っていたイエスが生きていること、主の復活を、その姿を見て、声を聞くだけでなく、実際に触れることを通して体験し、喜び、祝いたかったのではないでしょうか。しかしイエスはそれを遮り、彼女を弟子たちのところへと遣わしました。復活の知らせを伝える使者として、福音の 宣言者として遣わしたのです。そうして教会がはじまりました。 
 教会は、復活のキリストのからだです。いつものように集まることのできない今 年のイースター、私たちはマリアともどかしさを共有します。しかしそれは、私たちこそが、この世にあってすでにキリストのからだであるからです。私たちは自分のからだに触れることに執着するのではなく、キリストのからだとして、与えられた隣人のよい隣人となるように遣わされています。私たちは離れていてもキリストのからだであり、イエスは私たち一人ひとりと今ここに共におられます。そしてこのイエスを通して、私たちはたとえ離れていても一つなのです。この喜びをもって、 大きな日曜日を共に祝いましょう。アーメン。

2020年4月5日日曜日

4月5日 教会の祈り

 〈新型コロナウイルスの祈りの言葉〉


地球規模の災難の今、感染した人々、苦しんでいる人々、怖れと不安の中にいる人々のために祈ります。医師、看護師、病院の職員、介護にあたる人々、家族、友人、その他の人々も含めて、最前線にいる人々に感謝し、この人々の安全、健康、体力、精神力が保たれますように祈ります。
特に、為政者、リーダーとして決定をする立場にある人々、法的な対応をする人々の、その決定や行動をあなたが導いてくださいますように祈ります。 科学者たちのために祈ります。コロナウイルスを封じ込め、弱体化する方法を見つけることができますように。
 母なる地球のために祈ります。原因が私たちにある消耗や荒廃から回復することがでるように。そしてウイルスにどのように対応したらよいかを教えてください。自然の美しさと多様性を取り戻すことができるように。私たちの意識を新たにし、生活様式を改めることができますように。
そして、お互いのために祈ります。
 

―――この緊迫した状況の中で、麻痺してしまうことなく用心することができますよ
  うに。
―――社会的責任を果たし、最も弱い立場の人々、傷つきやすい人々のことを考える
  こができますように。
―――互いにつながる方法、心遣いを示し、思いやりを共有することができる創造的
  なやり方を見つけることができますように。
―――この現象に対応するにあたって、最も過酷な状況に置かれる人々を助けること
  ができますように。
―――そしてこの経験からメッセージをよく聞き、学ぶことができますように。
   信頼をもって、いのちと希望の神に憐れみと癒しを与えてくださるように、切
  にお願いたします。


神様、今回のコロナウイルスで亡くなられた方々の魂の平安を祈ると共に、感染された方々の回復と、この事態の終息を心からお祈りいたします。
様、今回のコロナウイルスで亡くなられた方々の魂の平安を祈ると共に、感染された方々の回復と、この事態の終息を心からお祈りいたします。
今日は、枝の主日です。み子主イエス・キリストはこの日、栄光の王としてエルサレム入城を果たしました。しかし、主は、この後十字架の受難へと辿っていきます。全ての人々から裏切られ、排除され、弟子達からも見放された栄光の王は、実は茨の冠をかぶり「苦難の僕」として人間の罪を担い、磔刑にかかられます。私たちを永遠の滅びから救い出すためでありました。このみ子の十字架を心に刻み、今週一週間歩むことができますように。

あなたはどんなときにも私たちと共にいてくださると、約束してくださいました。私たちは、その約束を信じ、今週一週間もあなたにすべてをゆだねてまいります。
日々、キリストのいのちに生かされ、支えられ、あなたと隣人とに仕えながら、力強くこの世の歩みを続けていくことができますようにお導き下さい。
私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。       アーメン

4月5日(日)四旬節第6主日礼拝の説教

お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!牧師からの説教メッセージをご覧ください。



(旧約聖書)イザヤ書         50章4節~9節a

(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 2章5~11

(新約聖書)マタイによる福音書   21章1節~11節

『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』


   『 栄光の王 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 皆さん、疲れてはいないでしょうか。新型コロナウイルスの被害が世界中で広まり、私たちは連日、亡くなられた方の報道を聞いています。これほどまでに亡くなられた方々の報道に連日連夜触れることは、本当は異常なことではないでしょうか。イタリアでは宗教者、つまりカトリックの神父や医療従事者が多く亡くなっています。何か、新型コロナウイルス感染の報道は日常の出来事となり、私たちは、過剰な報道に日々裸でさらされ、感覚も麻痺しているように思われます。ストレスが溜り、この社会では閉塞感が強く漂っている側面があると思われるのです。
 メディアはフィーバーのように、つまり熱に侵されているかのように過剰な報道を続けています。私たちは新型コロナウイルスにかかっていないにしても、さながら熱病のように日夜テレビの報道に釘付けになってしまい、先行きが不透明なこの社会において、私たちのそれぞれの心も不安感に覆われているのではないでしょうか。このような社会の状況の中で、本日の福音書に耳を傾けていきたく思います。

 今日の福音書では群衆が、エルサレムの民が、熱狂のなかで主イエス・キリストのエルサレム入城を迎えるのです。この閉塞感漂う日常の中で、群衆は、預言者イエス、そしてメシア・イエスが来られることを歓喜のなかで迎えるのです。マタイによる福音書21章8節からこのように書かれています。
「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主のみ名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」
「ホサナ」という言葉、この意味は「救ってください」という意味です。
 エルサレムの民らは、「自分に救いをもたらしてくださる王が登場した。このイエスこそ、その王である。どうぞ、イエスよ、私を憐れんでください。そして、この貧しいユダヤの民を救ってください」と歓喜の声をあげたのです。
 この栄光の王のエルサレムへの入城の記事を、私は何度も読むうちに、この心の中で、本当にこの栄光の王を、主イエス・キリストを、貧しい心にお迎えしたい、そう祈ってきました。
 感染症が猛威をふるう中、私たちの心も、何か殺伐としたところはないでしょうか。心が荒れてしまい、何か、なるようになってしまうがよい、そのような捨てばちな思いにとらわれてしまうときはないでしょうか。
だからこそ、四旬節を過ごす日々の中で、この貧しい心に、本当に栄光の王を、慰め主なる主イエス・キリストをお迎えしたい、そう私は祈ってきました。この新型コロナウイルスの感染が取り巻く状況は予断を許さない状況です。心が荒れて、もう耳を覆い塞ぎたくなってしまったとしても当然な状況なのです。私たちの心が暗闇に覆われても、仕方がないのです。
 このような緊急のときだからこそ、私たちは心の平安、魂の慰めの源である主イエス・キリストを私たち一人一人の心に迎えたい、そう思うのです。心が貧しければ貧しいほど、本当の意味で心安らぐ灯火を、この冷めた心に迎えたい、私は、この四旬節を送る中でそう祈ってきました。

 もちろん、主イエス・キリストのエルサレム入城は、人間の心の問題だけではなく、歴史的な事実であります。主イエス・キリストはこれまでの間で3度、ご自分の死と復活を予告しています。マタイによる福音書20章18節。
「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。」
主イエス・キリストは、このエルサレム入城からご自分の受難が具体的に始まっていくことを充分に分かっていたのです。このメシア、主イエス・キリストは私たち罪人の罪を背負い、たった一人でゴルゴダの丘に向かい、その十字架を背負ってとぼとぼと歩き、磔の刑にさせられていくのです。主イエス・キリストのゴルゴダの丘への十字架の道のりは、群衆の好意、歓待の出来事から、誰にも顧みられない孤独で絶望的な死へと繋がっていきます。この十字架を通して、主イエス・キリストは神のみ心から外れた私たち人間の罪を一身に背負い、そして、この十字架の上でボロボロになって死んでいくのです。
 今日のエルサレム入城は、栄光の王の入城だけではなく、主イエス・キリストの受難の始まりの出来事でもあるのです。この主イエス・キリストの苦悩と受難に、私たち人間のいのちと、生きていく望みがかかっています。
 今日のエルサレム入城は、主イエス・キリストの苦しみの始まりです。たった独りで孤独な十字架の死を成し遂げていくまことの救い主のみ業の始まりなのです。この人間としての限界ギリギリの十字架に、私たち人間の罪の贖いがかかっています。このことは、人間の罪とそこからの救いという、私たち人間の最も大切で必要な事柄に関わることなのです。
この主イエス・キリストのエルサレム入城からの十字架への道行きを、しっかりとふまえておきたく思います。
 
 今日から聖週間です。主イエス・キリストは、このエルサレム入城から、人間の諸々の罪を背負い、十字架にいたる道を、細々と、しかし力強く歩んでいきます。弟子たちに見捨てられ、ユダにも裏切られるこの道のりを、確信をもって、神への信頼をもって歩んでいきます。この主イエス・キリストの十字架への道行きに、私たちも今週一週間心を合わせていきたく願います。
 未曽有の感染症が、この世界を覆い満ちていたとしても、私たちは、この心の奥底にあるしっかりとした、決して動かないものに根ざして、つまり神に心を根ざして、生きていきたいと思います。この世界を恵みと愛で支配しておられるお方を、神を、しっかりと信頼して生きていきたいのです。たとえ逆境の中であったとしても、心揺らぐことなく、そして、神への信仰にしっかりと基いて今週一週間を辛抱強く生きていこうではありませんか。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。          アーメン