2021年8月22日日曜日

8月29日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝のご案内

 お知らせ!!  

8月29日の礼拝は中止し、家庭礼拝となりました。

諏訪地方にも、「コロナウィルス特別警報レベル5」

が出されています。

皆様、十分にお気を付けください。




(旧約聖書)申命記

           4章1節~2節、6節~9節

(新約聖書)ヤコブの手紙 

          1章17節~27節  

(新約聖書)マルコによる福音書    
          7章1節~8節、14節~15節、
          21節~23節
     

皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。
外から人の体に入るもので
人を汚すことができるものは何もなく、
人の中から出てくるものが、人を汚すのである。


      
       
 
 


         




『 偽善者  』  筑田 仁 牧師


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。  アーメン                             

今日の福音書は、わざわざエルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者が、主イエスを訪れるところから始まる日課です。彼らは、主の弟子達が食事の前に手を洗わなかったことを指摘し、注意するのです。75節。

「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

このファリサイ派の言葉、当時の信仰生活の中心をついています。当時、祭儀の規定から始まって、汚れから身を浄めるために様々な細則があったのです。しかし、私たちは、この細かな規定をあなどることはできません。この規定、実は、直接的にモーセが神から与えられた十戒や、旧約聖書の律法の規定のことではありません。紀元前6世紀頃から、ユダヤ教が律法を重視するようになってから作られた生活上の細則のことです。当時のファリサイ派や律法学者は、この「昔の人の言い伝え」と言われている細則を重視し、生活の中で実践しました。この規定を守ることが、神に従う道であると固く信じていたのです。

私たち、キリスト教の信仰者は、この細則にがんじがらめになっていた当時のユダヤ教の民の生活を批判的に見てしまうところがあります。当時の生活を「律法主義者」として批判するところがあると思います。

少し考えてみたいのです。この信仰の生活は神のいのちに至る道として、当時の真面目なファリサイ派や律法学者たちは熱心に取り組んでいたのです。ローマ帝国に重税を課せられ、一部の裕福な者が多くの富をもち、一般の民衆は貧しく厳しい生活を強いられている状況でした。先行きの不透明な生活の中で、信仰が日々の暮らしの中で多くの役割を担っていました。規定の細則を守ること、このことは、日々の神への信仰生活に熱心に取り組むことと一緒でした。神に至る道を誠実に、一途に歩むことと一緒であったのです。

しかし、です。ここで気をつけなければならないことがありました。規定を信じ、祈り、生活することには一つの問題点があったのです。それは今日の日課に書かれているように、規定を順守しているかどうかという視点から、規定を守ることが義務になってしまい、しかも他者を見下して見てしまうことです。

規定を、自分自身の生活の中で、神のいのちに至る道として取り組むことは悪いことではありません。しかし、人間はその生活を自分の中で絶対化し、他者と比較し、他者を見下してみてしまうのです。その義務感から、比較するだけではなく、他者に押しつけてしまいます。ここで神の掟を守ることよりも、それこそ主イエスの弟子達はなぜ食事の前に手を洗わないのかと、比較し、そして傲慢にも自分の細則の理解から裁いてしまうのです。

信仰は形骸化していきます。熱心になればなるほど、神の掟が義務になり、他者を、隣人を裁くことに繋がり、自分のことで満足できなくなるのです。ここでは信仰のいきいきとした生命線が途絶えてしまうと言っても過言ではないでしょう。

主イエス・キリストご自身の革新性はここから出てきます。規定とは、そもそも人間が作ってきたものではないか。信仰のいのちが形骸化して、いったいそこになんの意味を見出せるのかと、彼は今日の日課で問うているのです。

この指摘は、実は、とても不思議なものです。なぜなら、主イエスご自身も当時のユダヤ教の枠の中で育ってきた人であり、幼いころから皆と同じ聖書の教えを聞いて、同じ風習、文化の中で育ってきたからです。しかし、主イエス・キリストという方は、このユダヤの伝統、文化、習慣、信仰を、ご自身の神への信仰から新たに捉え直し、打破する力を持っていました。

主イエスは、昔の人の言い伝えを無分別に否定しているわけではありません。しかし、形骸化した信仰からくる絶対化、義務感、その規定の守り方を強く批判します。もっと神のみ心をたずね求めよと、その規定の奥にある信仰の本質に迫るのです。

そもそも神への信仰自体が、その細則を守るという義務によって覆われてしまっても良いのでしょうか。神への信仰とは、細かい細則に縛られず、もっと自由で、もっと人間を解放するものではないのか。信仰心は、人間のあり方を本質的に問い、人間をもっとおおらかな地平へと導くものではないか。主イエス・キリストのするどい眼光、そのまなざしは、私たちの信仰の根本的なところを捉え直し、批判しつつ、私たちを新しい信仰の地平へと導いていくのです。

主イエス・キリストは、革新的に、ラディカルに、私たちの神への信仰を問います。このことは、人間の作る信仰的な伝統を全て否定するものではありません。しかし、人間がつくり出すこれらの細則の限界を見抜いているのです。主イエスはもっと、ユダヤの民の信仰と生活に、いきいきとした神への信仰を回復したいのです。神への信仰が、人間を束縛するのではなく、もっと豊かな人間性へと導いていくことを指し示したいのです。

今日の福音書は、ある意味、私たち自身にも問われていることです。もう現代に生きる私たちは信仰的な規定・細則に縛られることはないかもしれません。しかし、私たちの信仰は本当にそのいのちを、いきいきとした生命線を保っているでしょうか。今日の主イエスの言葉に見られるように、私たちは、自身の信仰の本質を見すえつつ、自分の信仰生活を批判的に捉えているでしょうか。

今日は、私たちにとって、少し厳しい話をしてきました。二千年前に主イエス・キリストが、宗教家や民衆に語られた革新的な言葉は、今も私たちの信仰生活を批判的に見つめる目を養います。主の言葉は、私たちに自分の信仰を新しく捉え直していくことを、そして悔い改めることを迫ってくるのです。

私たちは、主イエスの当時のファリサイ派や律法学者への指摘を自分のこととして見つめ直しつつ、自身の信仰を謙虚に見つめて、主イエスに従う思いを新たにしていきたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                 アーメン

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