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8月15日の礼拝は中止し、家庭礼拝となりました。
大雨による警戒レベル4が出されています。
皆様、十分にお気を付けください。
聖書の中のオリンピック
紀元前776年に始まった古代オリンピックは、宗教的な理由により、紀元後393年に最後の大会を迎えました。その後、古代オリンピックで使われたスタジアムやゼウス神殿などは、キリスト教以外の神殿を破壊せよという命令と、オリンピア地方を襲った大地震とによって、大きく破壊されてしまいます。しかも、破壊された施設はその後の度重なる洪水ですっかり土に埋もれてしまい、古代オリンピックの制度と姿は、人々の前からすっかり消え去ってしまいました。
パウロの生きた当時には、すでにオリンピックはありました。聖書には数カ所「競技」という言葉が出てきますが、これはオリンピックのことを指しています。
コリントの信徒への手紙一 9章24節~27節
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
これは古代オリンピックのことを言っているのです。朽ちる冠とは、当時、勝者に与えられたオリーブの冠を指しています。それは生のオリーブの枝で作ったもので2,3日すると枯れてしまいました。勝者の報酬はこのオリーブの枝だけだったと言います。
テモテへの手紙Ⅱ 2章5節
また、競技をする者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることはできません。
これは、落ち込んでいた弟子のテモテを励ますために書いた手紙の一部です。そしてこれはまた、自らの残りの生涯がもはやあまり長くないことを悟ったパウロからテモテへの遺言であったかもしれません。
(旧約聖書)ミカ書
4章1節~5節
(新約聖書)エフェソの信徒への手紙
2章13節~18節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
終戦から76年を迎えています。今日は平和をお祈りする平和主日であります。今も争いが絶えない世界の中で、ここにいる皆さんは、戦争について、平和について何を思い、そして何をお祈りするでしょうか。
この平和を求める祈りの中で、私は一つのことを今日、考えたいと思います。それは聖書で述べられている神についてです。甲府教会での聖書研究会において、これまで旧約聖書を読み、分かち合ってきました。この旧約聖書の学びの中で、私たちは一つのことに直面しているように思われます。
ある時、聖書研究会の中で、一人の方が言われました。「先生、旧約聖書の神様は怖いのですね」と。これは旧約聖書のサムエル記を読んでいた時の言葉です。例えば、主の言葉がこのようにサウル王に臨みます。サムエル記上15章です。
「今、主が語られる御言葉を聞きなさい。……行け、アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」
一切を滅ぼし尽くしなさい、と主が言われるのです。私たちは、この容赦ない厳しい神のみ言葉を一体どのように捉えたら良いのでしょうか。神がアマレクの全ての人間、子どもや赤子までを含めて絶滅させなさいと言われるのです。このような神を、私たちは理解し、信じ、従うことができるのでしょうか。
聖書研究会で旧約聖書を読み進める中で、このことに直面しました。ここで、旧約聖書で読み継がれてきた神について、その理解について、今日は黙想を重ねていきたいと思います。
このテーマを考えていくにあたり、私たちは、一つのキーワードにぶつかるのです。それは実は「聖戦」というキーワードです。この聖戦の捉え方、実は、キリスト教の正典である旧約聖書にも見られるとしたら、皆さんどのように思われるでしょうか。
例えば出エジプト記にも、この聖戦の見方があります。このようなエピソードがあります。モーセに引き連れられて出エジプトを試みたイスラエルの民です。しかし、エジプトのファラオの軍勢が、その後をついてきました。目の前が海に阻まれて絶体絶命のピンチに陥ります。しかし、モーセが手を挙げると、海が開け、イスラエルの民らはかろうじてその海を渡りきるのです。救われたイスラエルの民らは、歓喜の中でこう歌います。出エジプト記15章2節。
「主はわたしの力、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。この方こそ私の神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。主こそいくさびと、その名は主。」
主こそいくさびと、つまり主は戦争の神であると言うのです。イスラエルの救いのために自ら戦う神。ここでは神自らが先頭にたって戦われる姿が讃美されているのです。聖戦、この思想は旧約聖書に確かにみられる思想なのです。もう少し言うと、当時の古代オリエント世界全体で見られる思想でありました。この聖戦の思想が、旧約聖書にあると聞いて驚く方もおられるかもしれません。聖書は絶対平和の書物であると、私たちは教えられてきたからです。このような聖戦についての旧約聖書の記述を私たちはどのように見ていけばいいのでしょうか。
私はここで思うのですが、私たちの人間の弱さ、愚かさが、旧約聖書のこの箇所で表れていると考えて良いのかもしれません。神が聖戦を導くのではなく、また、神がいくさびとであるのではなく、人間が神の御名を掲げて戦争に向かうのです。それは何も、オリエントの世界だけではありません。私たちの国においても、かって戦争中には「神国日本」とよんできました。神であった天皇陛下のために、お国のためにと、沢山の犠牲者が出て、その命が失われたのです。
人間は弱く、愚かで、自らの立ち位置を絶対的な神の御名のもとにおかないと気がすまないのです。本当に小さな自分の権威を、決して揺るがないものに求めたがるのです。この旧約聖書の神の理解から、私たちは、逆に人間の弱さ、そして愚かさを学ぶことができます。つまり、聖戦とは、人間の方から神をいくさびとに仕立て上げてしまうことです。国や時代や社会状況を越えて、本質的に人間の深い根っこのところに、この罪は結びついていると思います。
旧約聖書には聖戦思想があるからと言って、この話をスキャンダルなものにしてはいけません。やはり聖書には人間が抱える弱さ、愚かさがしっかりとあらわれているのです。私たちの人間理解を深め、また神への理解に対しても、聖書は反面教師のようにいさめ、改めてくださるのです。
主イエス・キリストを取り囲んでいたのも、この聖戦思想に近いものでした。主イエスが力強くイスラエルの政治的な支配者になってほしい、と熱心党の人々は希望したのです。神の力が主イエスに宿っている、だからこそ主イエスには王になる資格があると、人々は期待の目で見つめていたのです。
しかし、実際には、主イエスは十字架の死を遂げました。今日の福音書の日課では、主イエスは「互いに愛し合いなさい」との勧めを語られます。ここでの主イエスの状況は絶望的であることを皆さんは理解されているでしょうか。弟子のユダは、既に裏切りのためにこの場を出てしまっています。主イエスは捕まる前のお別れの説教を今日の日課でしているのです。おそらく主イエスはこの後、弟子全員にも裏切られ、見捨てられることも分っていたはずです。しかし、それにも関わらず主イエスは、ここで「互いに愛し合いなさい」と、心の叫びにも似た言葉をかけられるのです。主イエスはこの絶望的な状況の中で、あえて愛の教えを語られます。主イエスこそ、実は、他の誰よりも人間の弱さや愚かさを理解している神の子です。人間の弱さ、愚かさ、つまり罪が最も表れているのが主イエスの十字架なのです。
主イエスは、人間の罪を背負い、その罪を根本から赦すために十字架の上で死なれました。ここに本当の意味で、罪の赦しの十字架を通して、神の愛と憐れみが示されたのです。十字架に表れた神の愛と憐れみ、そして罪の赦し、ここに新約聖書の新しい神の理解があるのです。人間の諸々の罪を赦す、神の無償の愛が、主イエスの十字架に表れたのです。
今日は旧約聖書の聖戦の思想と、最期には、愛と赦しを示す十字架の主イエスを通して、新約聖書の神理解についても分かち合ってきました。
今日は、平和主日です。神のみ名のもとに今も戦争の悲劇を繰り返す人間の弱さ、愚かさ、そしてその罪を見つめたいと思います。しかし、まことの平和の王として十字架の上で神の愛と赦しを示された主イエス・キリストに讃美と感謝を捧げたく思います。今日の平和主日礼拝において、豊かな恵みの神に対して、私たちの平和の祈りを重ねていきたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
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