お知らせ!!
8月22日の礼拝は中止し、家庭礼拝となりました。
諏訪地方にも、「コロナウィルス特別警報レベル5」
が出されています。
皆様、十分にお気を付けください。
(旧約聖書)ヨシュア記
24章1節~2節a、14節~18節
(新約聖書)エフェソの信徒への手紙
6章10節~20節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
主イエスのもとから多くの弟子達が去っていったのです。ヨハネによる福音書6章60節。
「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」
人間とは浅はかなものです。主イエスが5千人に給食をしたときには熱狂的に主を讃美し、彼を祭り上げたのにも関わらず、主が、ご自分がいのちのパンであり信仰の糧として従うようにと勧めると、主を捨てて逃げてしまったのです。
今日の聖書日課の副題は「永遠の命の言葉」と新共同訳には書かれていますが、実は英語等の聖書では「Cutting」と書かれています。この意味は、切れてしまうこと、分離されることを意味しています。弟子たちが主イエスから離れていくのです。主イエスが、自分にとって都合の良い奇跡を行っている時には良い顔を見せていた弟子達ですが、自分の意に添わないことを言われると、途端にそっぽを向いてしまったのです。
主イエス・キリストに、私たちが従っていくのかどうか、信仰の決断が今日の福音書のポイントです。日和見主義のように弟子たちが逃げて去っていく現実の中で、私たちは主イエスにそれでも従っていくのでしょうか。このことが今日の日課で問われていると言ってもいいでしょう。
本日の旧約聖書の日課では、ヨシュア記が選ばれています。振りかえります。出エジプトから始まりヨシュアに率いられて、約束の地カナンに入植したイスラエルの民ですが、ここで問題が起こりました。それは、もともとのカナン地方の農耕の神バアルが、イスラエルの唯一神信仰に影響を与え出したのです。出エジプトのときから、どのような厳しい状況に於いても唯一の神ヤハウェを信仰してきたイスラエルの民です。しかし、狩猟から農耕へと生活の糧を得るための手段が変わってくると、カナン地方にそもそもあったバアルという豊穣の神を信仰するようになってきました。信仰が混合してきたのです。
民を率いていたヨシュアは、再度、イスラエルをこれまで導いてきた神ヤハウェに立ち帰るようにと促します。ヨシュアはここで、アブラハムの時代からイスラエルの全ての歴史を思い出させます。モーセとアロンに導かれて、カナンの土地まで導かれてきた数々の導きを想起するのです。この導き、それは神の恵みのときであったこと、常に恵みが先行していたことを、改めて民に告げるのです。
イスラエルの民は、ここで宣言します。ヨシュア記24章16節と18節後半。
「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。…わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」
このイスラエルの民の宣言は、信仰の決断でもありました。これまでイスラエルを導いてきた恵みの神を覚えて、民は、改めて信仰の決断をするのです。恵みの導きに応えるかたちで、民は、再びヤハウェの神に従っていく思いを新たにするのです。
話しを福音書の日課に戻します。主イエス・キリストに導かれてきた弟子達も、信仰の決断に迫られていました。主イエスに従わないことを選ぶ弟子もいました。多くの弟子達は主イエスから離れ去る状況でした。この状況の中で、主イエスは十二弟子にこう問います。6章67節。
「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。」
十二弟子は、これまで主イエスの神の国の宣教活動を共にして、旅を続けてきたのです。十二弟子は、おそらくここで自分達のこれまでの歩みを振り返ったのではないでしょうか。ある意味、十二弟子は主イエスに従い無我夢中で歩みを重ねてきたのです。そして、ここから十二弟子が見出したものはなんであったのか。シモン・ペテロがこう告白しました。6章68節。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
主イエスがこれまで語られてきたみ言葉が、永遠の命の言葉であると確信し、信仰の告白をしたのです。他の誰でもない、主イエス・キリスト、あなたこそ私たちをまことにいかす命の言葉を持っておられる。あなたこそが命のパンであり、あなたが語られるみ言葉こそが私たちの信仰の糧である。あなたのみ言葉にこそ私たちの命の希望と慰めがあり、あなたはまさに神の聖者である。十二弟子は、ここで大切な信仰の告白、そして主イエスに従う決断の表明をしたのです。
信仰の決断、それは私たちに何度も迫られていることです。この決断をするときに私たちはおさえておきたいことがあります。それは、神の恵みが、いつもわたしたちを導いてきたという事実です。
ヨシュアも、イスラエルの民にヤハウェの神が与え、もたらしてくださった恵みに焦点をあて、信仰の決断を導きました。十二弟子も、主イエスから従うかどうかを問われ、主の恵み溢れる豊かなみ言葉を思い起こしました。十二弟子は、主イエスが語られるみ言葉の豊かさから、主イエスに再度、従っていく信仰の決断をしたのです。
私たちは、主イエスが注いで下さる日々の恵みを思い起こし、たとえ人々が信仰の道からそれてしまう現実があるとしても、それでも永遠の命の言葉である主イエス・キリストに従う道を選び、歩んでいきたいと思います。この道は、私たちをまことの命に導く道です。今日も、このみ言葉を通して、主イエス・キリストに信仰をもって従うことを決断していきたく思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
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