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9月5日の礼拝は中止し、家庭礼拝となりました。
諏訪地方にも、「コロナウィルス特別警報レベル5」
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8月29日の礼拝は中止し、家庭礼拝となりました。
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
今日の福音書は、わざわざエルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者が、主イエスを訪れるところから始まる日課です。彼らは、主の弟子達が食事の前に手を洗わなかったことを指摘し、注意するのです。7章5節。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
このファリサイ派の言葉、当時の信仰生活の中心をついています。当時、祭儀の規定から始まって、汚れから身を浄めるために様々な細則があったのです。しかし、私たちは、この細かな規定をあなどることはできません。この規定、実は、直接的にモーセが神から与えられた十戒や、旧約聖書の律法の規定のことではありません。紀元前6世紀頃から、ユダヤ教が律法を重視するようになってから作られた生活上の細則のことです。当時のファリサイ派や律法学者は、この「昔の人の言い伝え」と言われている細則を重視し、生活の中で実践しました。この規定を守ることが、神に従う道であると固く信じていたのです。
私たち、キリスト教の信仰者は、この細則にがんじがらめになっていた当時のユダヤ教の民の生活を批判的に見てしまうところがあります。当時の生活を「律法主義者」として批判するところがあると思います。
少し考えてみたいのです。この信仰の生活は神のいのちに至る道として、当時の真面目なファリサイ派や律法学者たちは熱心に取り組んでいたのです。ローマ帝国に重税を課せられ、一部の裕福な者が多くの富をもち、一般の民衆は貧しく厳しい生活を強いられている状況でした。先行きの不透明な生活の中で、信仰が日々の暮らしの中で多くの役割を担っていました。規定の細則を守ること、このことは、日々の神への信仰生活に熱心に取り組むことと一緒でした。神に至る道を誠実に、一途に歩むことと一緒であったのです。
しかし、です。ここで気をつけなければならないことがありました。規定を信じ、祈り、生活することには一つの問題点があったのです。それは今日の日課に書かれているように、規定を順守しているかどうかという視点から、規定を守ることが義務になってしまい、しかも他者を見下して見てしまうことです。
規定を、自分自身の生活の中で、神のいのちに至る道として取り組むことは悪いことではありません。しかし、人間はその生活を自分の中で絶対化し、他者と比較し、他者を見下してみてしまうのです。その義務感から、比較するだけではなく、他者に押しつけてしまいます。ここで神の掟を守ることよりも、それこそ主イエスの弟子達はなぜ食事の前に手を洗わないのかと、比較し、そして傲慢にも自分の細則の理解から裁いてしまうのです。
信仰は形骸化していきます。熱心になればなるほど、神の掟が義務になり、他者を、隣人を裁くことに繋がり、自分のことで満足できなくなるのです。ここでは信仰のいきいきとした生命線が途絶えてしまうと言っても過言ではないでしょう。
主イエス・キリストご自身の革新性はここから出てきます。規定とは、そもそも人間が作ってきたものではないか。信仰のいのちが形骸化して、いったいそこになんの意味を見出せるのかと、彼は今日の日課で問うているのです。
この指摘は、実は、とても不思議なものです。なぜなら、主イエスご自身も当時のユダヤ教の枠の中で育ってきた人であり、幼いころから皆と同じ聖書の教えを聞いて、同じ風習、文化の中で育ってきたからです。しかし、主イエス・キリストという方は、このユダヤの伝統、文化、習慣、信仰を、ご自身の神への信仰から新たに捉え直し、打破する力を持っていました。
主イエスは、昔の人の言い伝えを無分別に否定しているわけではありません。しかし、形骸化した信仰からくる絶対化、義務感、その規定の守り方を強く批判します。もっと神のみ心をたずね求めよと、その規定の奥にある信仰の本質に迫るのです。
そもそも神への信仰自体が、その細則を守るという義務によって覆われてしまっても良いのでしょうか。神への信仰とは、細かい細則に縛られず、もっと自由で、もっと人間を解放するものではないのか。信仰心は、人間のあり方を本質的に問い、人間をもっとおおらかな地平へと導くものではないか。主イエス・キリストのするどい眼光、そのまなざしは、私たちの信仰の根本的なところを捉え直し、批判しつつ、私たちを新しい信仰の地平へと導いていくのです。
主イエス・キリストは、革新的に、ラディカルに、私たちの神への信仰を問います。このことは、人間の作る信仰的な伝統を全て否定するものではありません。しかし、人間がつくり出すこれらの細則の限界を見抜いているのです。主イエスはもっと、ユダヤの民の信仰と生活に、いきいきとした神への信仰を回復したいのです。神への信仰が、人間を束縛するのではなく、もっと豊かな人間性へと導いていくことを指し示したいのです。
今日の福音書は、ある意味、私たち自身にも問われていることです。もう現代に生きる私たちは信仰的な規定・細則に縛られることはないかもしれません。しかし、私たちの信仰は本当にそのいのちを、いきいきとした生命線を保っているでしょうか。今日の主イエスの言葉に見られるように、私たちは、自身の信仰の本質を見すえつつ、自分の信仰生活を批判的に捉えているでしょうか。
今日は、私たちにとって、少し厳しい話をしてきました。二千年前に主イエス・キリストが、宗教家や民衆に語られた革新的な言葉は、今も私たちの信仰生活を批判的に見つめる目を養います。主の言葉は、私たちに自分の信仰を新しく捉え直していくことを、そして悔い改めることを迫ってくるのです。
私たちは、主イエスの当時のファリサイ派や律法学者への指摘を自分のこととして見つめ直しつつ、自身の信仰を謙虚に見つめて、主イエスに従う思いを新たにしていきたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
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8月22日の礼拝は中止し、家庭礼拝となりました。
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皆様、十分にお気を付けください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
主イエスのもとから多くの弟子達が去っていったのです。ヨハネによる福音書6章60節。
「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」
人間とは浅はかなものです。主イエスが5千人に給食をしたときには熱狂的に主を讃美し、彼を祭り上げたのにも関わらず、主が、ご自分がいのちのパンであり信仰の糧として従うようにと勧めると、主を捨てて逃げてしまったのです。
今日の聖書日課の副題は「永遠の命の言葉」と新共同訳には書かれていますが、実は英語等の聖書では「Cutting」と書かれています。この意味は、切れてしまうこと、分離されることを意味しています。弟子たちが主イエスから離れていくのです。主イエスが、自分にとって都合の良い奇跡を行っている時には良い顔を見せていた弟子達ですが、自分の意に添わないことを言われると、途端にそっぽを向いてしまったのです。
主イエス・キリストに、私たちが従っていくのかどうか、信仰の決断が今日の福音書のポイントです。日和見主義のように弟子たちが逃げて去っていく現実の中で、私たちは主イエスにそれでも従っていくのでしょうか。このことが今日の日課で問われていると言ってもいいでしょう。
本日の旧約聖書の日課では、ヨシュア記が選ばれています。振りかえります。出エジプトから始まりヨシュアに率いられて、約束の地カナンに入植したイスラエルの民ですが、ここで問題が起こりました。それは、もともとのカナン地方の農耕の神バアルが、イスラエルの唯一神信仰に影響を与え出したのです。出エジプトのときから、どのような厳しい状況に於いても唯一の神ヤハウェを信仰してきたイスラエルの民です。しかし、狩猟から農耕へと生活の糧を得るための手段が変わってくると、カナン地方にそもそもあったバアルという豊穣の神を信仰するようになってきました。信仰が混合してきたのです。
民を率いていたヨシュアは、再度、イスラエルをこれまで導いてきた神ヤハウェに立ち帰るようにと促します。ヨシュアはここで、アブラハムの時代からイスラエルの全ての歴史を思い出させます。モーセとアロンに導かれて、カナンの土地まで導かれてきた数々の導きを想起するのです。この導き、それは神の恵みのときであったこと、常に恵みが先行していたことを、改めて民に告げるのです。
イスラエルの民は、ここで宣言します。ヨシュア記24章16節と18節後半。
「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。…わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」
このイスラエルの民の宣言は、信仰の決断でもありました。これまでイスラエルを導いてきた恵みの神を覚えて、民は、改めて信仰の決断をするのです。恵みの導きに応えるかたちで、民は、再びヤハウェの神に従っていく思いを新たにするのです。
話しを福音書の日課に戻します。主イエス・キリストに導かれてきた弟子達も、信仰の決断に迫られていました。主イエスに従わないことを選ぶ弟子もいました。多くの弟子達は主イエスから離れ去る状況でした。この状況の中で、主イエスは十二弟子にこう問います。6章67節。
「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。」
十二弟子は、これまで主イエスの神の国の宣教活動を共にして、旅を続けてきたのです。十二弟子は、おそらくここで自分達のこれまでの歩みを振り返ったのではないでしょうか。ある意味、十二弟子は主イエスに従い無我夢中で歩みを重ねてきたのです。そして、ここから十二弟子が見出したものはなんであったのか。シモン・ペテロがこう告白しました。6章68節。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
主イエスがこれまで語られてきたみ言葉が、永遠の命の言葉であると確信し、信仰の告白をしたのです。他の誰でもない、主イエス・キリスト、あなたこそ私たちをまことにいかす命の言葉を持っておられる。あなたこそが命のパンであり、あなたが語られるみ言葉こそが私たちの信仰の糧である。あなたのみ言葉にこそ私たちの命の希望と慰めがあり、あなたはまさに神の聖者である。十二弟子は、ここで大切な信仰の告白、そして主イエスに従う決断の表明をしたのです。
信仰の決断、それは私たちに何度も迫られていることです。この決断をするときに私たちはおさえておきたいことがあります。それは、神の恵みが、いつもわたしたちを導いてきたという事実です。
ヨシュアも、イスラエルの民にヤハウェの神が与え、もたらしてくださった恵みに焦点をあて、信仰の決断を導きました。十二弟子も、主イエスから従うかどうかを問われ、主の恵み溢れる豊かなみ言葉を思い起こしました。十二弟子は、主イエスが語られるみ言葉の豊かさから、主イエスに再度、従っていく信仰の決断をしたのです。
私たちは、主イエスが注いで下さる日々の恵みを思い起こし、たとえ人々が信仰の道からそれてしまう現実があるとしても、それでも永遠の命の言葉である主イエス・キリストに従う道を選び、歩んでいきたいと思います。この道は、私たちをまことの命に導く道です。今日も、このみ言葉を通して、主イエス・キリストに信仰をもって従うことを決断していきたく思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
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8月15日の礼拝は中止し、家庭礼拝となりました。
大雨による警戒レベル4が出されています。
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聖書の中のオリンピック
紀元前776年に始まった古代オリンピックは、宗教的な理由により、紀元後393年に最後の大会を迎えました。その後、古代オリンピックで使われたスタジアムやゼウス神殿などは、キリスト教以外の神殿を破壊せよという命令と、オリンピア地方を襲った大地震とによって、大きく破壊されてしまいます。しかも、破壊された施設はその後の度重なる洪水ですっかり土に埋もれてしまい、古代オリンピックの制度と姿は、人々の前からすっかり消え去ってしまいました。
パウロの生きた当時には、すでにオリンピックはありました。聖書には数カ所「競技」という言葉が出てきますが、これはオリンピックのことを指しています。
コリントの信徒への手紙一 9章24節~27節
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
これは古代オリンピックのことを言っているのです。朽ちる冠とは、当時、勝者に与えられたオリーブの冠を指しています。それは生のオリーブの枝で作ったもので2,3日すると枯れてしまいました。勝者の報酬はこのオリーブの枝だけだったと言います。
テモテへの手紙Ⅱ 2章5節
また、競技をする者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることはできません。
これは、落ち込んでいた弟子のテモテを励ますために書いた手紙の一部です。そしてこれはまた、自らの残りの生涯がもはやあまり長くないことを悟ったパウロからテモテへの遺言であったかもしれません。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
終戦から76年を迎えています。今日は平和をお祈りする平和主日であります。今も争いが絶えない世界の中で、ここにいる皆さんは、戦争について、平和について何を思い、そして何をお祈りするでしょうか。
この平和を求める祈りの中で、私は一つのことを今日、考えたいと思います。それは聖書で述べられている神についてです。甲府教会での聖書研究会において、これまで旧約聖書を読み、分かち合ってきました。この旧約聖書の学びの中で、私たちは一つのことに直面しているように思われます。
ある時、聖書研究会の中で、一人の方が言われました。「先生、旧約聖書の神様は怖いのですね」と。これは旧約聖書のサムエル記を読んでいた時の言葉です。例えば、主の言葉がこのようにサウル王に臨みます。サムエル記上15章です。
「今、主が語られる御言葉を聞きなさい。……行け、アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」
一切を滅ぼし尽くしなさい、と主が言われるのです。私たちは、この容赦ない厳しい神のみ言葉を一体どのように捉えたら良いのでしょうか。神がアマレクの全ての人間、子どもや赤子までを含めて絶滅させなさいと言われるのです。このような神を、私たちは理解し、信じ、従うことができるのでしょうか。
聖書研究会で旧約聖書を読み進める中で、このことに直面しました。ここで、旧約聖書で読み継がれてきた神について、その理解について、今日は黙想を重ねていきたいと思います。
このテーマを考えていくにあたり、私たちは、一つのキーワードにぶつかるのです。それは実は「聖戦」というキーワードです。この聖戦の捉え方、実は、キリスト教の正典である旧約聖書にも見られるとしたら、皆さんどのように思われるでしょうか。
例えば出エジプト記にも、この聖戦の見方があります。このようなエピソードがあります。モーセに引き連れられて出エジプトを試みたイスラエルの民です。しかし、エジプトのファラオの軍勢が、その後をついてきました。目の前が海に阻まれて絶体絶命のピンチに陥ります。しかし、モーセが手を挙げると、海が開け、イスラエルの民らはかろうじてその海を渡りきるのです。救われたイスラエルの民らは、歓喜の中でこう歌います。出エジプト記15章2節。
「主はわたしの力、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。この方こそ私の神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。主こそいくさびと、その名は主。」
主こそいくさびと、つまり主は戦争の神であると言うのです。イスラエルの救いのために自ら戦う神。ここでは神自らが先頭にたって戦われる姿が讃美されているのです。聖戦、この思想は旧約聖書に確かにみられる思想なのです。もう少し言うと、当時の古代オリエント世界全体で見られる思想でありました。この聖戦の思想が、旧約聖書にあると聞いて驚く方もおられるかもしれません。聖書は絶対平和の書物であると、私たちは教えられてきたからです。このような聖戦についての旧約聖書の記述を私たちはどのように見ていけばいいのでしょうか。
私はここで思うのですが、私たちの人間の弱さ、愚かさが、旧約聖書のこの箇所で表れていると考えて良いのかもしれません。神が聖戦を導くのではなく、また、神がいくさびとであるのではなく、人間が神の御名を掲げて戦争に向かうのです。それは何も、オリエントの世界だけではありません。私たちの国においても、かって戦争中には「神国日本」とよんできました。神であった天皇陛下のために、お国のためにと、沢山の犠牲者が出て、その命が失われたのです。
人間は弱く、愚かで、自らの立ち位置を絶対的な神の御名のもとにおかないと気がすまないのです。本当に小さな自分の権威を、決して揺るがないものに求めたがるのです。この旧約聖書の神の理解から、私たちは、逆に人間の弱さ、そして愚かさを学ぶことができます。つまり、聖戦とは、人間の方から神をいくさびとに仕立て上げてしまうことです。国や時代や社会状況を越えて、本質的に人間の深い根っこのところに、この罪は結びついていると思います。
旧約聖書には聖戦思想があるからと言って、この話をスキャンダルなものにしてはいけません。やはり聖書には人間が抱える弱さ、愚かさがしっかりとあらわれているのです。私たちの人間理解を深め、また神への理解に対しても、聖書は反面教師のようにいさめ、改めてくださるのです。
主イエス・キリストを取り囲んでいたのも、この聖戦思想に近いものでした。主イエスが力強くイスラエルの政治的な支配者になってほしい、と熱心党の人々は希望したのです。神の力が主イエスに宿っている、だからこそ主イエスには王になる資格があると、人々は期待の目で見つめていたのです。
しかし、実際には、主イエスは十字架の死を遂げました。今日の福音書の日課では、主イエスは「互いに愛し合いなさい」との勧めを語られます。ここでの主イエスの状況は絶望的であることを皆さんは理解されているでしょうか。弟子のユダは、既に裏切りのためにこの場を出てしまっています。主イエスは捕まる前のお別れの説教を今日の日課でしているのです。おそらく主イエスはこの後、弟子全員にも裏切られ、見捨てられることも分っていたはずです。しかし、それにも関わらず主イエスは、ここで「互いに愛し合いなさい」と、心の叫びにも似た言葉をかけられるのです。主イエスはこの絶望的な状況の中で、あえて愛の教えを語られます。主イエスこそ、実は、他の誰よりも人間の弱さや愚かさを理解している神の子です。人間の弱さ、愚かさ、つまり罪が最も表れているのが主イエスの十字架なのです。
主イエスは、人間の罪を背負い、その罪を根本から赦すために十字架の上で死なれました。ここに本当の意味で、罪の赦しの十字架を通して、神の愛と憐れみが示されたのです。十字架に表れた神の愛と憐れみ、そして罪の赦し、ここに新約聖書の新しい神の理解があるのです。人間の諸々の罪を赦す、神の無償の愛が、主イエスの十字架に表れたのです。
今日は旧約聖書の聖戦の思想と、最期には、愛と赦しを示す十字架の主イエスを通して、新約聖書の神理解についても分かち合ってきました。
今日は、平和主日です。神のみ名のもとに今も戦争の悲劇を繰り返す人間の弱さ、愚かさ、そしてその罪を見つめたいと思います。しかし、まことの平和の王として十字架の上で神の愛と赦しを示された主イエス・キリストに讃美と感謝を捧げたく思います。今日の平和主日礼拝において、豊かな恵みの神に対して、私たちの平和の祈りを重ねていきたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン