2024年9月1日日曜日

9月8日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

わたしたち諏訪教会は
いつでもあなたをお待ちしています










つらいことがある方や、誰かに話を聞いても
らいたい方、このページの下の「コメントを
投稿」にご連絡ください。秘密は守ります。
お電話を希望する方は、
090-6461-5960(牧師直通)です。
名乗っていただかなくても大丈夫です。
キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。










★ 主日の祈り

恵みの神様。

あなたはいつの世でも、病いを健康に、死を命に

造り変えてくださいます。

一つになって、あなたの約束を全世界に宣べ伝え

る民となるために、私たちと共におられるあなた

の力に目を開くことができますように導いてくだ

さい。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書

       35章4節~7                                             

(新約聖書)ヤコブの手紙 

       2章1節~17節  

(新約聖書)マルコによる福音書    
       7章24節~37節

このかたのなさったことはすべて、すばらしい。
耳の聞こえない人を聞こえるようにし、
口の利けない人を話せるようにしてくださる。










「 周りの人々のおかげ 

          浅野 直樹 牧師


  今日の福音書の日課は二つの物語からなってい
ます。一つ目の物語は、よく知られた信仰深い
女性の物語でした。しかし、よくよく見ていき
ますと、両者ともに奇跡物語、癒し物語でも
あることが分かります。しかも、ここで両者に
共通しているのは、いずれにしても本人が願い
出てのものではありませんでした。他者が
最初の物語は母親がですが、母親・近親者か
「人々」かの違いはありますが、本人以外、
つまり「周りの人々」のおかげだったわけです。
 私がまだ若い頃、10代後半か20代初めの
頃お世話になりました宣教師の先生に久しぶり
にドイツでお会いした時に、こう言われたこと
を今でもはっきりと覚えています。「浅野さん。
変わりましたね」と。その先生だけではありま
せんが、私の初期の信仰生活はこれらドイツ人
宣教師の先生方に随分とお世話になりました。
最初にお世話になったのは、女性のドイツ人宣
教師です。今、牧師の立場になってみるとよく
分かることですが、随分と扱いづらい若者だっ
たと思います。15歳、ただでさえ思春期真っ
只中。自分の生い立ち、自分の人生に悩んでい
た当時は、死ぬことばかりを考えていたくらい
ですから、誰が見ても「暗い性格」が印象的だっ
たでしょう。しかし、それでも、若い人が教会
を訪ねてくることは嬉しいことです。きっと私
のことも喜んでくださったに違いない。しかし、
会話もトゲトゲしくつっけんどう。愛想もない。
何考えているか分からない。それなのに、なぜ
か毎週礼拝には通ってくる。どう扱ったらいい
か、途方に暮れていたと思います。しかし、
そんな生活も数ヶ月間。今まで熱心に通ってき
ていたと思っていたのに、急に来なくなってし
まった。もちろん、私としてはそれなりに事情
と言いますか、思うところがあった訳ですが、
その先生からしたら「訳分からん」となってい
ても不思議ではありません。とってもやりづら
かった人間だったと思う。しかも、教会に行か
なくなってしまった私を案じて、辿々しい日本
語の手紙さえ書いてくださったのに、私は「も
う教会に行くつもりはない。私のことなど忘れ
てくれ」と送り返す始末。先生にとっても苦い
思い出となったでしょう。
 そんな私も色々とあって教会に戻っていった。
先週も言いましたように、当時としては自分の
意志・選択だったと思っていましたが、神さま
が首根っこを捕まえて離されなかった訳です。
だから、なんとか戻ってくることができた。そ
の時に教会にいたのが、先ほど言いましたドイ
ツで再会した先生でした。しかし、人間という
ものは、そんなに簡単に性格が変わるわけでは
ない。相変わらず暗い、何考えているか分か
らない、心を開かない、礼拝には来るけれども
他とは一切関わることなくすぐに帰っていって
しまう、そんな訳のわからない青年。それが、
数年後、牧師となってドイツで再会することと
なった。先生の「浅野さん。変わりましたね」
と言われた言葉も頷けます。
 私はずっと自惚れてきました。人生について
も、また信仰生活についても。自分で選び取っ
てきた、自分で何とかしてきた、他の人の手は
借りなかった、と。確かに、そう感じさせる面
がなかった訳ではない。私の親は「放任主義」
を公言していた人ですので、あまり私に手をか
けることはしなかった。親の名誉のためにいっ
ておきますが、決してネグレクトということで
はありません。必要なことはしてきてくれてい
たと思っています。しかし、私が欲している時、
求めている時、期待している時、答えてくれな
い、共にいてくれない、助けてはくれない、突
き放すような言動、といった印象を幼少期より
重ねてきてしまったのも事実。もちろん、人の
親となった今では、当時の親のことも、その思
い、事情なども多少なり理解できるようにはな
りましたが。信仰面でもそうです。特に宣教
師の先生や牧師、あるいは教会の仲間に、具体
的にこういったことをしてもらった、という記
憶はほぼない。だから、先ほど言いましたよう
な自惚れ、人の手を借りずに、自分の力で、と
いった印象もあながち間違ってはいなかったと
思います。しかし、そんなことはありえない訳
です。人が一人で生きていくなんてことはあり
えない。たとえ本人の自覚がないとしても。そ
れは、親となって、教会員となって、牧師と
なって痛いほどわかる。もちろん、伝わらない
ことも多くある。至らないと思うことも多々
る。でも、それでも、たとえ小さくて、あまり
に小さくて届かないような思いであったとして
も、その人を思いやる心はある。その人を案じ
る思いはある。その人のために祈る事実がある。
きっと私を育ててくれた親も、また、先ほどの
宣教師たちも、いいえ、私の人生に関わってく
れた多くの人々も、そうだったのだろう、と、
今では心から感謝しています。まさに、周りの
人々のおかげで、今の私がある。
 「汚れた霊」に取り憑かれていたと思われた
少女は、自分ではイエスさまのところに行けな
かったのです。だから、お母さんが行ってくれ
た。お母さんがイエスさまに掛け合ってくれた。
だから、癒していただけた。「耳が聞こえず舌の
回らない」人も、自分だけではイエスさまのと
ころには行けなかった。たとえ思いがあったと
しても。それを助けてくれたのは、周りの人々。
家族だったのか、親戚だったのか、友人だった
のか、近所の人だったのかは分からないけど、
どれほど深い関わりのあった人ではないのかも
しれないけれども、でも、この人に同情して、
イエスさまならばきっと良くしてくれるだろ
うと思った・信じた人々によって、この人も癒
していただいた。それもまた、今日の御言葉が
伝えている紛れもない事実です。
 確かにそう。私たちは周りの人々のおかげで
今の私たちがある。それは紛れもない事実。感
謝すべきこと。でも同時に、私たちの周りにも、
私たちを必要としている人々がいるはずです。
娘のことを心から愛した母親のように。何がな
んでも、どうしてもイエスさまのもとに連れて
いきたかった人々のように、私たちも
 この母親。最初に言いましたように非常に信
仰深い人だと考えられています。今日のマルコ
には必ずしも明記されていませんが、平行箇所
でありますマタイではこのように記されている
通りです。マタイ15章28節、「そこで、イ
エスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信
仰は立派だ。』」。では、なぜそのように評価され
たのか。諦めなかったからです。最後の最後ま
で食い下がったからです。ある方は、この女性
はイエスさまを打ち負かした、とさえ言います。
イエスさまとの論争に勝利したのだ、と。
 この女性は「シリア・フェニキア」の生まれ
で、ギリシア人だと言われています。つまり、
ユダヤ人からすれば異邦人です。そして、ご存
知のように、当時のユダヤ人は異邦人を見下し
ていました。犬呼ばわりするほどに、です。い
わゆる、「犬畜生」です。ですから、この女性
が娘を助けてください、と必死に懇願している
にも関わらず、イエスさまがこのように語られ
たのも、そういったことを連想させるわけです。
「まず、子供たちに十分に食べさせなければな
らない。子供たちのパンを取って、小犬にやっ
てはいけない。」。もちろん、そうではないでしょ
う。ここで言われている小犬は、先ほどのよう
な蔑視としての犬畜生とは違うからです。愛玩
犬、ペットとも言われる。ある方は「ワンちゃ
ん」という愛称だとも。そうかもしれません。
また、確かにここで女性の願いが拒まれている
ようにも感じられますが、「まず」という言葉に
も意味がある、とも言われます。つまり、優先
順位です。イエスさまは必ずしもこの女性が異
邦人だからといって拒まれているのではない。
しかし、優先順位がある。まずはユダヤ人が
優先されるべきであり、その後に異邦人の番
回ってくるのだ、と。確かに、そうかもしれ
い。しかし、この言葉を聞いた女性は、そんな
ふうに冷静にイエスさまの言葉を分析できたの
だろうか。自分の願いが拒絶された、と思わな
かっただろうか。しかも、自分の命さえも身代
わりにしてもいいとさえ思っている愛する我が
子・娘を、犬・ペット呼ばわりするとは。腹を
立てても、なんらおかしくない。しかし、この
女性はそうしなかった。むしろ彼女はより謙っ
て、こう言いました。有名な言葉です。「主よ、
しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいた
だきます。」と。イエスさまのあの言葉を批判・
非難することも、怒ることもしなかった。なか
なかできることではない。だからこそ、この女
性の信仰は素晴らしい、と言われる。
 確かに、そうかもしれません。しかし、これ
はただこの女性の信仰が讃えられるようなこと
なんだろうか。私には、そうは思えない。ここ
にも神さまのなんらかの不思議な働きがあった
としか思えない。聖霊の働き、お導きがあった
としか思えない。そうでなければ、私たちには
これほどの深い、強い信仰は持てないのだ、と思
う。
 この母親にあったものは、娘に対する愛情で
す。なんとしてでも娘を助けたい、との思いで
す。そして、イエスさまにはそのお力がある、
との確信。そんな素直な・素朴な思いでイエスさ
まと正面からぶつかっていった。逃げないで、苛
立たないで、思うようにならないと腹を立てない
で、ただ娘を助けたい、イエスさまならそれがで
きる、その思いだけで。そこに聖霊が働いてく
ださったのではないだろうか。
 私たちにできることは、小さなことです。取る
に足りないことです。この人をなんとか助けられ
ないだろうか。イエスさまならそれが可能ではな
いだろうか。たとえ、この女性が経験したように、
いっときは拒絶されたと思うようなことがあった
としても、願いを聞き届けてはくださらないといっ
た絶望感を味わうことがあったとしても、それで
も、助けたい、イエスさまならできる、イエスさ
まならその思いに答えてくださる、ただそれだけ
の思いで、粘り強く、諦めないで、へりくだっ
て、なおも懇願する。そんなことくらい。親子の
ようなそれほどの親密な関係ではなくても、知っ
ている人が辛い思いをしているなら、なんとかそ
の人にもイエスさまの救いが与えられるように、
と手を差し伸べること。それくらいのことしかで
きない。出来なかった。宣教師たちも、牧師たち
も、信仰の仲間たちも。でも、そんな周りの人々
の思いをイエスさまは汲み取ってくださり、癒し
の業を、救いの業を成し遂げてくださった。その
おかげで今の私たちがある。それくらいのことな
ら、私たちにもできる。そんなことを今日の日課
から教えられるように思います。


 

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