諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります。
わたしたち諏訪教会は、 いつでもあなたをお待ちしています |
つらいことがある方や、誰かに話を聞いても らいたい方、このページの下の「コメントを 投稿」にご連絡ください。秘密は守ります。 お電話を希望する方は、 090-6461-5960(牧師直通)です。 名乗っていただかなくても大丈夫です。 キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま いません。 |
甲信地区一致礼拝
本日の礼拝は、甲信地区一致礼拝です。
毎年1回、甲信地区5つの教会(長野教会・
松本教会・諏訪教会・飯田教会甲府教会)が、
WEBで一緒に礼拝を行います。
今回は、飯田教会からの配信でした。
★ 主日の祈り
主なる神様。
あなたは、御子が受けられた苦しみと拒絶によって
救いをもたらし、十字架の栄光で私たちを造り変え
てくださいます。
福音のため悪の誘いから離れ、十字架を負って御子
に従うことができますように導いてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
(旧約聖書)イザヤ書
50章4節~9節a
(新約聖書)ヤコブの手紙
3章1節~12節
(新約聖書)マルコによる福音書
8章27節~38節
「 キリストに従う 」
朝比奈 晴朗 牧師
みなさんは「闇バイト」という言葉を耳にした
ことがあると思います。インターネット上に「多
額の報酬が期待できる」と甘い言葉で募集をかけ
るアレです。「バイト」という名称のせいで気軽
に手を出す者もいますが、闇バイトの組織に接触
したが最後、運転免許証や保険証のコピーを取ら
れ、裏切ったら家族に危害が及ぶぞと脅された上
で、いわゆる「オレオレ詐欺」の手先になって、
高齢者から老後の蓄えを奪い取ったり、強盗や、
もっと悪質な犯罪の片棒を担ぐハメになります。
組織が摘発されればトカゲの尻尾切りのように
切り捨てられて逮捕され、結局人生を壊されてし
てしまうのです。そんなことになる前にどうして
踏み止まれなかったのか、とも思いますが、「闇
バイト」に手を染め捕まった若者の大半は、信頼
のおける大人が周りにいないことが多いようです。
今日お読みいただいたイザヤ書50章には「主
なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人
を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる」と
書かれています。またヤコブの手紙には「舌を制
御しなさい」つまり「言葉を慎重に誠実に使いな
さい」と書かれています。
情報の洪水の中で何が正しくて何が危ないのか
見極めながら生きていく必要のある私たちだから
こそ、迷える人、苦しんでいる人に声をかける時
も、自分の常識を押し付けるような頭ごなしのや
り方や、「ふ~ん、いいんじゃない?」とまるで
他人事のように接するのではなく、そこで自分の
できること、教会のなすべきことを聖書を通して
イエス様に聞き、学び直す姿勢が必要なのです。
さて、本日の福音書で、イエス様のことを「人
の子」と表しています。あれ?イエス様は「神の
子」でしょう?と思われるでしょうが、ネタバレ
をしてしまいますと、「人の子」も「神の子」も、
聖書においてはどちらも意味は同じです。
ある資料によれば「人の子」というのは「人間」
を意味するイスラエル地方の慣用句で、聖書に
100回以上出てくるうち、ほとんどの場合が「人
間」を意味する文脈で用いられているそうです。
人間は神様に愛され、神様に似せて作られたの
で「神様の子ども」です。とは言え、人間は決し
て神にはなれない、という考え方が「人の子」と
いう言葉の中に込められていると言われています。
こうお話ししますと、イエス様がご自分のこと
を「人の子」とおっしゃった意味がますますわか
らなくなるかもしれませんが、「人の子」という
言葉が登場する音でも有名な旧約聖書の「ダニエ
ル書」に、こんがらがった謎を解くヒントがある
ようです。
ダニエル書の主人公であるダニエルは7章13
節から14節に預言を書き記しています。「見よ、
人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を
経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方
に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国
語の者たちがことごとく、彼に仕えることになっ
た。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがな
く、その国は滅びることがない。」
つまりダニエルは、未来に神から権威と御国を
授かる支配者は「人の子」、つまり人間の姿を持
っている、と表したのです。
ここについて詳しくお話しする前に、この主人
公ダニエルはどういう人物かと言いますと、ユダ
ヤ人として神様への熱い信仰を持ちながらも、異
国の地で今のわたしたちから見ても邪悪で淫靡な
異なる宗教を持つ王様に仕えていました。それに
は悲しい理由がありました。
紀元前500年代の終わり頃、イスラエルの国が
バビロニア帝国との戦いに敗れて滅ぼされた後、
主だった人材はバビロニアの労働力として捉えら
れ、連れていかれたのです。ただ、バビロニアは、
連れてきたイスラエルの人々を使い捨ての労働力
のように扱うだけでなく、優秀な人物は積極的に
登用し、国の政治に参加させました。
人間の集団、組織というのは、志した当初は仲
もよく、互いに理解し合いながら理想に燃えてい
ますが、利益が上がってくると、自分の主張を通
すために宗教的な力を悪用してでも、自分が組織
のトップになろう、と見苦しい内輪揉めが起きる
ことも多くあります。結果として裏切者が現れ、
クーデターが起き、組織が崩壊することになりか
ねません。
そこで必要になってくるのが、有能な新しい血
なのです。ここに登場するダニエルは、イスラエ
ルから連れてこられた捕囚の中でもひときわ優秀
な若者だったので、王様に信用され、政治の中枢
を担い、イスラエルの神様への信仰を容認された
のです。
ダニエルはどんな時も祖国のことを忘れず、い
つの日か再び神様を中心とした国が起こされるこ
とを祈り求め、その信仰は常に堂々としていまし
た。そのせいで命を落としそうになったこともあ
りましたが、神様は彼を守り続けました。
そして神様は、そんな信仰深いダニエルに夢の
中で語りかけ、遠い未来に「人の子」のような方
が悪者どもを滅ぼし、神の民と共に地上に神の国
を実現させてくださる時が来る、と教えてくださ
ったのです。
さて、ここまで読めば、新約聖書を知っている
私たちは、ダニエルが見た「人の子」のような方
とはイエス様であるとわかるのではないでしょう
か。イエス様は神様でありながら、弱さを持つ人
間となって私たちの間に生まれてくださり、大い
なる力を封印して苦しみの中を歩み、罪を犯した
人間の気持ちや差別される人々の気持ちさえを理
解してくださったのです。言い換えるならイエス
様は「神であり、人である」お方です。このよう
なお方は後にも先にもイエス様しか存在しません。
そこで本日の福音書に目を向けるのですが、こ
こでは一番弟子のペトロが「あなたこそメシアで
す」と告白する場面です。ペトロの信仰はすごい
なあ、と思われがちですが、当時の「メシア」と
いう言葉は、「正しい政治を行う理想的な王様」
という意味で使われており、ペトロはイエス様を
神様として捉えるのではなく、「政治的圧力から
自分達を解放してくださる新しい王様」という意
味で使ったと思われます。
ただ、イエス様は、弟子たちが「本来のメシア
とはどういうものか」理解できていないことがわ
かっておられましたから、改めてご自分が多くの
苦しみを引き受けて十字架で死なれることをお話
になったのです。
ところがペトロはイエス様に社会的成功をして
ほしいと心から思っていましたから、そのお話を
遮り「そんなことがあってはならない、あなたは
何を言ってるんですか」と諌め始めたのです。
ペトロは敬愛するイエス様が苦しみを受けるこ
とや、虚しく排斥され殺されることなど否定しよ
うとしました。しかしイエス様は、その道を通ら
なければ、神の国が実現しないことを誰よりも分
かっておられました。たとえ思いやりの心からの
発言であっても、自分の勝手なメシアのイメージ、
強い方、成功者、王様、といったイメージをイエ
ス様に押し付けるなら、この世から救いを遠ざけ
てしまうことになってしまうのです。だからこそ
イエス様はペトロを厳しくお叱りになったのです。
これは私たちキリスト教の組織や教会にもそっ
くり当てはまります。聖書を通してイエス様の御
心を学ぶ機会があるにもかかわらず、それを蔑ろ
にして、「境界とはこうあるべき」という自分の
思い描く善意の行動を優先するなら、教会の内部
は崩壊していきます。
私たちの教会は今弱体化しています。キリスト
教を学び牧師を生み出すルーテル学院大学も同じ
です。来年度からは募集を掛けず、今の在校生が
卒業したら、もぬけのからになるのではないかと
いう、組織としては危機の時代、信仰の危機の時
代がもはや突入してしまったのです。
このような事態に陥ったということは、私たち
はどこかで間違ってしまったようです。自分達が
勝手に作り出したキリスト教のイメージを垂れ流
し、安易に救いを宣べ、お手軽なヒューマニズム
に流れ、信仰には苦難も迫害もないというメッセ
ージを伝えることは、神様の御心の本意ではあり
ません。
それは何よりイエス様のお覚悟を否定すること
に他ならず、あの時のペトロと同じ失敗を繰り返
しているのです。
キリストに従う時、多くの人々から排斥され、
罵られることもあり、社会的から疎んじられるこ
とは確かにあるのです。だからこそキリストの体
である私たち一人一人、主イエスによって集めら
れたものは神様からの導きを願い求めるのです。
祈りを重ね、知恵を求め、救いが与えられること
を信じ続けるのです。
このような時代にイエス様によって選ばれて、
召された私たち一人一人は平凡な人間に過ぎませ
んが、神様に作られ、キリストに招かれ、人生を
かけて従う「神の子」の集まりでもあります。
ダニエルがバビロンの地で祖国復活の幻を与え
られたように、信仰によって罪に染まった若い命
が再生できることを信じ、教会がやらねば誰がや
るんだという気持ちをもって、キリストに従い、
信仰に導く道を歩んで参りましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿