諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります。
★ 主日の祈り
恵みと栄光の神様。
あなたは、御自身のものとして私たちを選び、力に
満ちたキリストの名によって、悪から守ってくださ
います。私たちとこの世界を聖霊の力によって造り
変えてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
(新約聖書)使徒言行録
1章15節~17節、
21節~26節
(新約聖書)ヨハネへの手紙(一)
5章9節~13節
わたしが彼らの内におり、 あなたがわたしのうちに内におられるのは、 彼らが完全に一つになるためです。 こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、 また、わたしを愛しておられるように、 彼らを愛しておられたことを、 世が知るようになります。 |
浅野 直樹 牧師
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
3節の「イエスは苦難を受けた後」というのは、十字架の死です。イエスさまは十字架の上で確かに命を落とされましたが、三日目に復活されました。空になった墓をはじめ、弟子たち、および婦人の弟子たちは、多くの体験をしたのです。それが、「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し」ということです。それが、40日間にわたった。今年の暦でいえば、復活祭が3月31日にありましたので、そこから40日後の5月9日が、「主の昇天」日になる。その日に最も近い日曜日の今日が、先ほども言いましたように、「主の昇天」主日となるわけです。
十字架での死別を経験した弟子たちは、おそらくもう2度とイエスさまにお会いすることはできない、と思ったでしょう。それが、より大きな失望ともなっていた。しかし、イエスさまは3日目に、つまり週のはじめの日曜日に復活なさり、弟子たちに会ってくださった。はじめ弟子たちは信じられなかったり、幽霊ではないかと恐れたりしましたが、それでも、嬉しかったでしょう。もう2度と会うことはないと思い込んでいたイエスさまと再びお会いすることができたのですから。しかも、それは一瞬の出来事ではなかった。先ほども言いましたように、使徒言行録によると40日間にも及んだ。毎日だったのか、数日おきだったのか、その辺はよく分かりませんが、それでも、生前と変わらない、いいえ、より深い親密な交わりの時だったと思います。イエスさまも、それまで以上に懇切丁寧に弟子たちに教えていかれたのだと思う。しかし、そんな幸いな時は、残念ながら永遠には続きませんでした。それが、昇天です。天に帰らなければならなかった。イエスさまご自身も後ろ髪を引かれるような思いがおありだったかもしれませんが、ついに別れの時がやってきてしまったのです。もう一緒にはいられない。だからなのでしょう。聖霊をお与えくださるという約束をしてくださったのは。弟子たちだけを残して、そのまま帰るには忍びなかった。心配でならなかった。だから、聖霊を送ることを願われた。ヨハネ福音書14章に有名な言葉があります。16節から、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」。たとえ別れなければならないとしても、みなしごなんかにはしておけない。そのまま放ってはおけない。だから、父なる神さまにお願いして、自分と同じような「別の弁護者」を、また「真理の霊」と言われる方を遣わしていただいた。そうおっしゃる。それもまた、来週迎える聖霊降臨祭(ペンテコステ)の意味ではないか、と思うのです。
その1週間前の今日の日課は、「イエスの祈り」と小見出しで言われている箇所です。あるいは、「大祭司の祈り」とも言われます。これは、時系列としては少しおかしいのですが、それでも別れに際しての祈り、です。もう自分は十字架で死ななければならない。いつまでも一緒にはいられない。だから、祈られる。祈ってくださっている。それが、今日の「イエスの祈り」。
その祈りの中で、やはり目につくのが、「守ってください」という言葉です。11節、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」。15節、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」。もはや一緒にいられないような時がくる。すぐにでもやってくる。だから、神さまに祈っておられる。弟子たちを、私たちを、守ってください、と。それだけ、厳しい現実が待ち受けていることもご存知なのでしょう。ご自身が一緒におられる時には、イエスさまが守ることができた。12節、「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。」。これまでも、一所懸命に守ってくださっていた。しかし、それが叶わなくなってきた。だから、神さま、どうぞ彼らを守ってください、と祈っておられる。
それだけでも、大変ありがたいことです。私も牧師になりまして、時にそういった依頼を受けることがあります。「先生、どうぞ祈ってください」と。もちろん、やぶさかではない。一緒に祈っていきましょう、と答える。しかし、こんな声を聞くこともあります。「私が祈るよりも、先生に祈っていただいた方が効くと思うので、ぜひ祈ってください」と。私は、正直その考えに賛同はできません。牧師が祈ろうと、皆さんが祈ろうと、神さまは分け隔てなくちゃんと聞いてくださると思っている。しかし、その気持ちは分からなくもない。より神さまとのパイプが太いと思われる人に祈ってもらいたい、という気持ちは…。ならば、です。これほど心強い祈りはない。イエスさまが私たちのために祈ってくださっている。神の子であるイエスさまが。私の、私たちのために。守ってください、と。これほど、心強いものはあるだろうか。
イエスさまは今日の箇所で、まずこう祈っておられる。6節、「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。」。ここでイエスさまは、もともと私たちは神さまのものであると言われます。その神さまのものであった私たちを、イエスさまご自身が受け取られたのだ、と。ならば、ますますこのイエスさまの祈りは聞かれるはずです。私たちのことを放ってはおけない、という思いはイエスさまだけのものではないからです。神さまご自身もまた、私たちのことを放ってはおけないのです。そして、私たちがそんな神さまのものであるということの証拠は何か、といえば、御言葉だ、と言われる。御言葉によって神さまのことが明らかにされ、その御言葉を大切に守っているからだ、と。ですから、イエスさまが私たちのことを「守ってください」と祈っておられるのも、この御言葉と無縁ではないでしょう。この御言葉があるからこそ、神さまのことも、神さまがお遣わしになったイエスさまのことも、私たちは知ることができるし、信じることができるからです。しかし、それは同時に、あのイエスさまが「守ってください」と祈らざるを得ないものでもあるということです。イエスさまがいつも共にいてくださる時ならば、イエスさまご自身が、この御言葉を守ってくださる。常に、この御言葉によって、神さまのことも、イエスさまのことも、この世界のことも、私たち自身のことも、何が正しいことなのかということも、何が間違っているのかということも、明らかにしてくださっている。たとえ理解が遅く、すぐには自分のものにできないとしても、常にイエスさまが忍耐強く教え諭していってくださるからこそ、私たちは守られていくのです。しかし、たとえいっときのことであったとしても、そんなイエスさまがいなくなってしまわれる。不在の時がやってくる。すると、世は牙を向いたかのように、そんな御言葉を私たちから奪い取らんと、躍起になってくるのかもしれない。また、私たち自身も鈍い心のせいで、御言葉から離れてしまうかもしれない。だから、そんなことが分かりきっているから、私たちの弱さを知り尽くしておられるから、どうぞ「守ってください」と祈られるのです。
このヨハネ福音書は、「世」というものを、二つの側面から捉えている、と言われています。一つは、有名な3章16節にあるように、愛の対象としての「世」です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」。今一つは、イエスさまを受け入れようとしない罪の世の現実です。1章10節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」。ですから、単純に、「世」から守ってください、というならば、「世」から切り離して、「世」から隔絶して、イエスさまを信じる者たちだけが集まって生きていった方が良いわけです。その方が、先ほども言ったように、御言葉から引き離そうとする力からも守られるし、迫害やキリスト者としての厳しい現実からも守られることになるのかもしれない。いわゆる、修道院生活です。祈りと御言葉と奉仕の、ある意味純粋な生活かもしれない。しかし、イエスさまはそうは祈られなかった。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」。確かに、「悪い者」から守られなければならない。私たちを信仰の道から引き離そうとするあらゆる悪、誘惑から守られなければならない。それも事実。でも、それは、世を捨てることではないのです。なぜならば、神さまは世を愛しておられるから。世を救うためにイエスさまをお遣わしになったのだから。だから、私たちも世に留まり続ける。でも、それは、世に倣うということではない。世と同じということではない。そうではなくて、あくまでも「聖別」されたもの、神さまに属する者として、です。そのことは、守られなければならない。そのために、イエスさまも必死に祈ってくださっている。と同時に、私たちもまた、世の救いのために奉仕する者としても守られなければならない。イエスさまと同じように、神さまから世に遣わされた者としても、守られなければならない。神さまを、イエスさまを知る、出会う御言葉を届ける者としても。そのためにも、イエスさまは必死に祈っていてくださる。
私たちは来週、聖霊降臨祭を祝うことになります。この聖霊降臨祭は教会の誕生日だとも考えられています。そして、それは、このイエスさまの祈りの結果でもあるのではないか、とも思うのです。イエスさまは、教会のために、それは初代教会ばかりではない、今の私たちの教会のためにも祈ってくださっている。不在の時にも守られるように、と。聖霊が与えられるように、と。それは、御言葉に豊かに生かされるため、また、その御言葉を世に伝えていくため、でもあると思います。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。今日も敬愛する皆さんと共々に礼拝の恵みに与ることができましたことを感謝いたします。あなたが私たちのためにお遣わしくださったイエスさまは、私たちのことをいつも案じてくださり、祈ってくださっています。私たちを『守って』くださるように、と。本当に感謝いたします。なおも私たちは、宣教の上でも、私たち自身の信仰生活の上でも、誘惑と戦いの多い大変厳しい中を歩まざるを得ませんが、イエスさまがこの私たちのために祈ってくださっていることを覚えつつ、なおも信頼して、頼りながら、一歩一歩この現実を歩んでいけますようにお導きください。来週の聖霊降臨祭も多くの方々と共に、御名を褒め称えることができますように。私たちの主イエス・キリストの尊いお名前によってお祈りいたします。アーメン」
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