2019年12月22日日曜日

12月24日(火)クリスマス・キャンドルサービスのご案内

クリスマス・キャンドル礼拝

20191224日(火) 19時~

日本福音ルーテル諏訪教会
今日ダビデの町で、あなたがたのために
救い主がお生まれになった。
この方こそメシアである。  
                  ルカによる福音書211

ご一緒に、
クリスマスの賛美歌を
歌いましょう!!

メッセージ  『 拒絶の中で 』 筑田 仁 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストはこの夜、この聖夜にお生まれになられました。
おとめマリアと、忠実な夫ヨセフのもとにお生まれになりました。このクリスマスの夜におこった出来事はひっそりとした小さな出来事であったのです。当時ユダヤ地方で住民登録がありました。マリアとヨセフは、ガリラヤの町ナザレから、ダビデのまちベツレヘムに向かうのです。ところが、そのベツレヘムにいる間に、マリアは月が満ちて男の子を産むのです。それは貧しい馬小屋のなかでの出来事でした。その貧しい馬小屋の中で、幼子は飼い葉桶に寝かされて、この夜、誕生したのでした。

この聖夜の出来事は、本当に小さく、単純素朴で、世間一般には誰にも顧みられることのないような出来事でした。この夫婦には宿屋に泊まる機会もなかったのです。当時、このユダヤの地方では、旅人を宿屋で泊めることは勧められていることでした。旅人をもてなすホスピタリティは推奨されていたのです。しかし、マリアとヨセフはその夜、探しても、探しても、どこも宿屋はいっぱいで見つけることが出来なかったのです。彼らは結果的には馬小屋しか見つからず、そして産まれた子どもを飼い葉桶に寝かせることになるのです。飼い葉桶とは、家畜の飼料をいれるところです。この聖夜、救い主は、誰からも豊かに祝福されることもなく、飼い葉桶にて、静かにお生まれになるのです。
 宿屋が無かったこと、このことは、人々の善意からもれていたと言えるかもしれません。このことを強いて言うならば、この社会から、拒絶されていたとも言えるのです。拒絶―この言葉、少し強い調子に聞こえるかもしれません。この聖夜、まことの救い主のご降誕は、人々からそして社会から拒絶されていたのです。ここで、人間の拒絶と冷たさが確かにあったのです。
 マリアとヨセフを包むこの状況も、人間の冷たさにあらわにされるギリギリのところにありました。おとめが、結婚を前にして神の力によってみごもるのです。聖書の世界では、一般ではあり得ないことが具体的に起こります。マリア、ヨセフはどれだけ困惑したことでしょう。
マリアには恐れと戸惑いがあったはずです。他方で、ヨセフはおそらくマリアを疑う猜疑心に悩まされていたはずです。自分の相手を疑ってしまっても仕方のない状況なのです。この妊娠が世間に広がってしまったら、もう二人の社会生活は崩れてしまいます。それこそ、人間は、社会は、冷たい目でこの二人を裁くことになるでしょう。婚姻生活は社会的に抹殺され、破綻したとしてもおかしくないのです。この社会の拒絶のギリギリのところで、この二人はかろうじて、この夜、赤子を出産するのです。
 この聖夜、人間の拒絶、拒否、不安、心の暗闇がこの社会に、この世界に渦巻いていたのです。しかし、この罪に溢れている世界の真っただなかに、聖書は、清らかなみ子の誕生を告げるのです。人間のどろどろとした罪に溢れているこの世界のただ中に、み子の降誕を告げるのです。
 この救い主、み子主イエス・キリストは、人間の拒絶のなかで、ひっそりとお生まれになりました。そして、その拒絶のご生涯は、ゴルゴダの丘の十字架まで続きます。誰からも、慰めに満ちたそのご生涯を理解されませんでした。逆に、無理解、誤解、偏見のなかで彼は十字架までの道のりを送るのです。律法学者や時の為政者は、そして民衆は、彼をローマ帝国の極刑である十字架刑につけます。弟子たちも最後の最後に彼を見捨てて逃げ去っていきます。この聖夜にお産まれになったこの赤子は、その生涯の最後の最後に至るまで、人間の拒絶、拒否、無理解のなかで、そのご生涯を終えていくのです。
 そもそも救い主が、この私たち罪びとの罪を贖うために、当時の極刑である十字架刑にかかられるということ自体、私たちの常識では受け入れられないことであると思います。この赤子は、生まれたときから人間の拒絶と無理解、偏見の中にあり、その人生の終わりまで、十字架刑の終わりまで、拒絶の中を辿るのです。彼は人間の罪を背負い、担い、まことの救いを人間にもたらすために、人間の拒絶のなかで、その十字架刑までの道のりを歩んで行くのです。

ここまで人間の拒絶ということを話してきました。この降誕の出来事の中であらわになることはなんでしょうか。それは、実は、神の恵みということです。ドロドロとしていてどうにも逃れることのできない罪と無理解が、この聖夜を包んでいました。しかし、この罪が極まっているからこそ、み子の降誕を通して、私たちはまことの光が到来していることを知るのです。この主イエス・キリストの降誕に、この赤子の降誕に、神の恵みと本当の人間の希望が、圧倒的に溢れているのです。
聖書の告げるメッセージは、素朴なものです。罪が溢れているところに、にも関わらず、恵みが溢れているということです。
人間の拒絶が溢れているこの世界に、この世界の暗闇のただ中に、神の独り子がこの世のひかりとしてお産まれになりました。ここに私たちのまことの希望と、私たちを照らすまことの光があるのです。クリスマスはまさに神の恵みの出来事であるのです。この赤子の降誕を、私たちの救い主のご降誕を、心からお迎えしお祝いしたい、そう思います。
この聖夜、神様からの祝福が皆様のうえに豊かにありますようにお祈りします。クリスマスおめでとうございます。メリークリスマス。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
                       アーメン

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