11月11日礼拝前に、
秋の墓前礼拝を行いました。
水月園は、すっかり紅葉して、赤や黄色で山が美しく装われていました。
松岡俊一郎牧師から、墓前礼拝のメッセージを頂きましたので、ご紹介します。
人は出会う悲しみと寂しさに、「なぜ」と問いたくなります。たとえそれが、人が誰でも経験する死というものであったとしても、なぜこの人が、なぜ今と、次々に疑問が沸き起こってきます。しかしそれに誰も答えることができませんし、神様もそれに対して沈黙を守られるのです。この神さまの沈黙の前で、私たちはただおろおろするばかりです。いやそれだけでなく、沈黙されるからこそ、私たちの何故の思いは深まっていき、私たちを戸惑わせ、苦しめるのです。詩編の詩人は歌います。「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。 いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。 人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。」人は思いをどこにもぶつけることが出来ず。ただ涙に象徴される悲しみと空虚さだけが人を包むのです。いったい神はどこにいるのか、と叫びたくなるのです。イエス・キリストは、十字架にかかられる前、ゲッセマネと呼ばれる園で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎさらせて下さい。」十字架にかかって死ぬことが救い主の宿命だとわかっていても、イエス様は人としてその苦しみの前に不安がられ恐れられたのです。そして恐れと苦しみが去っていくように願われたのです。しかし神さまはこの祈りに対しても沈黙を守られました。神さまはなぜお答えにならないのでしょうか。神様がイエス様を愛し、人を愛しているならば、人が本当に困り、不安がり、さびしがり、恐れ、悲しんでいる時こそ答えるべきではないでしょうか。神様からの返事がないのならば、神なんていないのではないか、人にはそんな思いがよぎります。しかし神さまはこの沈黙の中におられるのです。沈黙の中におられるということは、人の不安、寂しさ、恐れと共におられるということなのです。沈黙されているからと言って、決して遠く離れておられるのでなければ、人を見捨てられているのでもありません。神さまは確かにそこにおられるのです。そして人が沈黙の中におられる神様を見出すのは、それまで与えられた普段の生活の豊かさ、喜びを思い出す時なのです。詩編の作者は「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。」と歌います。私たちは自分が苦しい時、悲しい時、さびしい時に神様を求めます。しかし神様はその時だけおられるのではありません。人が辛い時はもちろん、喜びの時、豊かで平安な時など、人の生涯にわたって共にいてくださるのです。
ご存じの方もあると思いますが、「足跡」という詩をご紹介します。
ある晩、男が夢をみていた。
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。
ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、
彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。
すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、
いくつもあるのだった。
しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、
悲しいときに起きているのだった。
すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。
『神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、
あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。
しかし、私の人生のもっとも困難なときには、
いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。
私が一番にあなたを必要としたときに、
なぜあなたは私を見捨てられたのですか。』
神は答えられた。
『わが子よ。
私の大切な子よ。 私はあなたを愛している。
私はあなたを見捨てはしない。
あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、
その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ。』」
私たちは神さまに与えられた恵みを思い起こすことによって、悲しみの時、寂しさの時、苦しみの時に神様が共におられることを知るのです。たとえ私たちが、神様が黙しておられると思っても、神さまは私たちと共にいて下さいます。この神様の真理を知る時には、私たちの悲しみと苦しみのうめきは、喜びへと変えられ、神様への讃美の歌となるでしょう。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。 「御顔こそ、わたしの救い」と。」
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