(旧約聖書)哀歌 3章22節~33節
(新約聖書)コリントの信徒への手紙(二) 8章1節~15節
(新約聖書)マルコよる福音書 5章21節~43節
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。 もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 |
『 二つの癒し 』 松岡 俊一郎 牧師 原稿
人が助けを求める時、具体的な内容を口にします。確かに目の前の苦しみから逃れたいのです。しかし、よくよく話を聞くと、それは表面的な場合があり、心の奥底にはもっと深刻な問題や願いが潜んでいる場合があります。そしてそれは本人も気づいていない場合があります。しかし、話をしていくうちに、その奥底に気づき、到達した時、表に出ている苦しみは自然に克服される場合があります。人に必要な救いは、その人自身の存在が受け止められることのように思います。
信じることは頼りないことです。信仰には確認するものがありません。時には客観性を無視します。それゆえに不安がられ恐れられる時もあります。この怖れから弾圧の対象にもなりました。しかし、神様は信仰を求められます。神様の憐れみと救いは、それを求める人に一直線に注がれます。悲しむ人、不安の中にある人、孤独な人、苦しむ人、目を上げることが出来ない人、神様はそれらの人に向かって憐れみを注がれ、イエス様はその人のために十字架の救いを成し遂げて下さったのです。神様の愛と憐れみが人に注がれ、それを信じた人には確かな力が与えられる、生きる希望が生まれるのです。人の目には不思議なことです。しかしそれが信仰の力なのです。信仰はいつも一定ではありません。波があり、ふり幅があります。しかし一見ないように見えても、なくなったように見えても、あなたが神様の憐れみを求める限り、成長し続けます。
今日の福音書の日課では、イエス様のところにヤイロという会堂長がやって来て、幼い娘が死にそうだから助けてほしいと願います。早速イエス様が一緒に出かけられると、そこに12年もの間出血の止まらない女性がやってきます。12年という長い期間病に苦しめられること自体大変なことです。止むことのない痛みに苦しめられたでしょうか。その処理に毎日明け暮れたでしょうか。彼女は難病の人が誰でもそうするようにたくさんの医者を尋ね歩きます。医学の発達していない時代です。怪しげな薬を処方され、薬が効かないとなると、ただでも病気は悪霊の仕業と考えられていた時代です、この女性が悪いかのように罵られたと思います。病の苦しみだけではなく精神的にも傷つけられる毎日だったでしょう。ひょっとしたら、占いの類にも頼ったかもしれません。いずれにしても、いいようにお金を巻き上げられ、彼女は財産を使い果たしてしまうのです。絶望的な状況です。もはや自分が生きている価値すら見いだせないなかで、最後の手段としてイエス様にすがるのです。ボロボロになった彼女がイエス様の前に堂々と立てるはずがありません。ましてやイエス様は大勢の群衆に囲まれています。彼女はまさに神にすがる思いで群衆の中にもぐりこみ、イエス様の服の裾に触るのです。すると彼女の出血は止まりました。イエス様は自分の体から力が出ていくことを感じ、それがどこかを探られます。「わたしの服に触れたのは誰か。」
弟子たちは困った先生だと言わんばかりに「群衆があなたに押し迫っているのがおわかりでしょう、なのに『誰がわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と言います。聖書には書かれていませんが、今、イエス様は病気で死にそうなヤイロの娘のところに行こうとする途中でした。ヤイロにしてみれば、娘が危篤という絶望的な時なのに、イエス様は誰が自分の服に触れたかともたもたされています。ヤイロはどんな気持だったでしょうか。やきもきし、いらいらし、泣き叫びたかったのではなかったかと思うのです。イエス様は娘がたとえ死んだとしても、父なる神によって生き返ることが出来ることを知っておられました。ですから、イエス様にとって手遅れはなかったのです。しかしヤイロはそんなことは知りません。一刻も早く娘のところに行ってほしかったのです。イエス様があまりにしつこく探し回られるので、女は恐ろしくなって名乗り出て、身の上をありのままに話し始めます。するとイエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。」と言われたのです。イエス様にとっては、この女性の神の憐れみを求めるこころ、信仰を受け止めることが何よりも大切だったのです。
さて、そこに会堂長の家の人々がやって来て、「お嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と娘が死んだことを報告します。ヤイロにとって一番恐れていたことが起こりました。ヤイロにとっては悔やんでも悔やみきれないほどの気持だったのではなかったかと思います。絶望的な思いが絶望そのものに変わった瞬間でした。しかし、イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われます。そして会堂長の家に着き、大声で泣きわめいている人々に対して「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」といさめ、子どものところに行き「タリタ、クム(少女よ、私はあなたに言う。起きなさい)」と声をかけられるのです。すると、少女はすぐに起き上がったのです。
この二つの出来事に共通することは、絶望的な中での信仰です。長血を患った女性にはもはやすがるものは何もありませんでした。お金も使い果たし、同情と蔑視の入り混じった人間関係、彼女は自分にも人にも頼るものはないのです。ただイエス様の力を信じてその力によって癒してもらうだけでした。その癒しだけに希望が残されていたのです。ヤイロもまた娘が死ぬという絶望的な状態です。子どもの死ほど親を絶望に陥れるものはありません。死は人に絶対的な的な力をもって立ちはだかります。ヤイロにはもはや希望が残されていないのです。
絶望とは、周りはもちろん自分自身にも希望をおくことが出来ない状態です。人は希望を持つことが出来ない時には生きる力もないのです。自分にも人にも希望をおくことが出来ない時、残される道は神さまにのみ希望をおくことだけです。神様だけが人を絶望から救い出し、死から命に導かれるのです。旧約の日課である哀歌3:25には「主に望みをおき訪ね求める魂に、主は幸いをお与えになる」と言います。主は、その憐れみを求めるこころに応えてくださるのです。イエス様が執拗に女性を探されたのは、神の憐れみが注がれる相手を探されたのです。イエス様の言葉を信じないで嘲笑った人々は、奇跡の場から退けられ、絶望のゆえに神の救いにしか希望を見出せない両親と、後に教会の指導者になって行く三人の弟子たちにだけ、神の憐れみの力を見せられるのです。
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