2020年10月25日日曜日

11月1日(日)全聖徒の日礼拝のご案内

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全聖徒の日とは・・・・・?

 教会の暦で、昨日10月31日は「宗教改革日」でしたが、きょう11月1日は「全聖徒の日」です。実は、この11月1日があったから、10月31日が宗教改革のきっかけとなったわけですが、そのことについて書いてみますね。

  11月1日は、当時の教会の暦では「諸聖人の日」でした。そして、毎年、この日に、ルターが暮らし働いていた街のヴィッテンベルクで聖遺物の一般公開がなされていたのです。聖遺物とは、キリストに関係するいろんなものだとか、教会の歴史上のお偉いさんである聖人に関係するいろんなもののことです。たとえば、キリストが縛り付けられた柱だとか、十字架の一部だとか、幼な子イエスを包んだ布だとか、聖人の骨だとか、その服の切れ端だとか、そうした類のものです。

   当時の教会では、そうした聖遺物を見たり触れたりするなら、私たちが犯した罪の償いが軽減される御利益があると教えられていました。死んだ後に、罪の償いをする煉獄という場所があると信じられていたのですが、その煉獄での苦しみが何万年分免除されるというような教えがなされていたのです。ですから、その11月1日の諸聖人の日に毎年なされた聖遺物の一般公開は、ヴィッテンベルクの人たちにとって、一年に一度の大事なとてもありがたい機会だったのです。

   他方、他の町々では、罪の償いが完全に免除されるお札が売られていました。それが「贖宥状」、いわゆる「免罪符」として知られているお札です。そのお札を買えば、罪の償いがすべて免除されるとされていました。そのお札を買う代金を賽銭箱の中に入れて、その箱の底で「チャリン」と音がするや否や、魂は煉獄から飛び出て天国に行くことができるなんて、そんな説教?もなされていたそうです。ヴィッテンベルクがあるザクセン選帝侯が治めていた領内では、聖遺物の一般公開が廃れてしまうことを危惧して、このお札の販売は禁じられていました。でも、街のみんなは、隣の領までそのお札を買いに行ったと言います。

   ルターは、ヴィッテンベルクでの聖遺物の一般公開の日である11月1日の前日、10月31日に、「贖宥の効力に関する討論」(95箇条の提題)を発表します。贖宥状や聖遺物によって、私たちの罪が軽減されるなんていうのはおかしい。イエス・キリストが「悔い改めよ」と言われたのは、そんなお札を買ったり、何か物を見たり触ったりしたら、もう罪の償いをしなくてよくなるということじゃないでしょ?そうじゃなくて、信仰者として一生涯悔い改め続けることを、キリストは私たちに望んでおられる。そしてそれは、私たちがお札を買ったり、聖遺物を見たり触ったりでなくて、キリストの十字架に立ち返ることでしょ?教会は、そのキリストの十字架をこそ宣べ伝えるべきで、お札や聖遺物を伝えるんじゃないよ!そのことをみんなで話し合いましょうよと、当時の教会の指導者に書き送ったのです。

   実際にはその話し合いには誰も参加せず実施されなかったということですが、でも、当時はちょうど活版印刷の技術が開発された時代で、しかもコピーフリーの時代ですから、ルターのその文書は、たくさん印刷されて、すぐに多くの地方に住む多くの人たちが目にすることになったのでした。それが宗教改革のきっかけとされ、10月31日が宗教改革日として位置付けられるわけです。

   このように、11月1日の諸聖人の日と、10月31日の宗教改革日は、大きく関係があるわけですが、現在、私たちの教会では、11月1日は「諸聖人の日」ではなく、「全聖徒の日」と呼んでいます。「諸聖人」と「全聖徒」という言葉、似てますけれど、その意味合いは大きく違います。(英語では、All saint's dayで言葉は同じですが)

   私たちが今日覚えるのは、一部の教会の歴史上のお偉いさんとしての諸聖人だけではありません。全聖徒です。つまり、キリストの十字架と復活によって、神の恵みとして、神のものとされたすべての人々(聖徒たち)を覚え、すべての聖徒たちを支え導く、神をたたえるのです。そして、私たちもその聖徒たちのひとりとされていることを喜び感謝する日でもあります。

   なお、この全聖徒の日は、11月の第一日曜に「全聖徒主日」として振り替えて覚えることも可能とされています。そして、この日の主日礼拝を、地上の生涯を終えて天の神のみもとに召された方々を覚え、「召天者記念礼拝」として行う教会も多いですね。

   みなさんとともに、いのちの神からの希望が豊かにありますように。

大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会のHPから引用させていただきました。

11月1日 全聖徒主日礼拝、遺影と共に・・・

坂本千歳先生のハープ演奏に癒されて・・・

(旧約聖書)ヨハネの黙示録      7章9節~17節

(新約聖書)ヨハネの手紙(一)  3章1節~3節
(新約聖書)マタイによる福音書  5章1節~12節
          
心の貧しい人々は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである。
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。

 

   『 幸い 』 筑田 仁 牧師

 

2020年10月18日日曜日

10月25日(日)宗教改革主日礼拝のご案内

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(旧約聖書)エレミヤ書        31章31節~34節

(新約聖書)ローマの信徒への手紙 3章19節~28節
(新約聖書)ヨハネによる福音書  8章31節~36節
       
わたしの言葉にとどまるならば、
あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、
真理はあなたたちを自由にする。
 
  
 

   『 自由 』 筑田 仁 牧師

 

2020年10月11日日曜日

10月18日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝のご案内

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礼拝は30分程度に短縮します。
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(旧約聖書)イザヤ書          25章1節~9節

(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 4章1節~9

(新約聖書)マタイによる福音書   22章1節~14節

       
聖書の時代のコイン
「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
 
  
 

   『 税金 』 筑田 仁 牧師

2020年10月4日日曜日

10月11日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝のご案内

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新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
礼拝は30分程度に短縮します。
マスクを着けて、ぜひお出かけください!




(旧約聖書)イザヤ書          25章1節~9節

(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 4章1節~9

(新約聖書)マタイによる福音書   22章1節~14節

          
カナの婚礼(ルーブル美術館)
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 

   『 婚宴 』 筑田 仁 牧師

2020年9月27日日曜日

10月4日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝のご案内

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新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
礼拝は30分程度に短縮します。
マスクを着けて、ぜひお出かけください!




(旧約聖書)イザヤ書          5章1節~7節

(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 3章4節a~14

(新約聖書)マタイによる福音書   21章33節~46節

        
だから、言っておくが、
神の国はあなたたちから取り上げられ、
それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、
この石が誰かの上に落ちれば、
その人は押しつぶされてしまう。
   
 

   『 ぶどう園と農夫 』 筑田 仁 牧師

2020年9月20日日曜日

9月27日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝のご案内

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新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
礼拝は30分程度に短縮します。
マスクを着けて、ぜひお出かけください!




(旧約聖書)エゼキエル         18章1節~4節

(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 2章1節~13

(新約聖書)マタイによる福音書   21章23節~32節

     
ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、
「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。
兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。
弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は
「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか。
       
 

   『 二人の息子 』 筑田 仁 牧師


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン         

今日の福音書の譬え話は非常に分かりやすく、私の解説もいらないくらいです。この譬え、ある父が、二人の息子にぶどう園での働きの依頼をします。兄は「嫌です」と断るのですが、考え直して出かけます。弟の方は「承知しました」と答えるのですが、出かけませんでした。どちらが父の、神のみ心を行ったのか。それは明らかに兄の方です。

今回もいろいろと調べていたら、このような教えが書かれていました。信仰には行動が必要である。弟のように言葉だけで従って、結果的に行動しないのなら意味がない。兄のように行動に移さなければ、信仰をもっていても駄目である。私たち信仰者は行動が必要である。

一見、アーメンと、正しい教えのように思われます。しかし、私は思うのですが、信仰からどれくらい行動、行いに、私たちは生きることができるでしょう。「愛の奉仕」という言葉があります。救いに与かった人間は、隣人への「愛の奉仕」に生きるのです。私はこの言葉を聞くたびに、首をかしげてきました。一体どこまで私たちは、信仰から「愛の奉仕」の実践に移すことができるのでしょうか。簡単なことではありません。ここで、今日も私たちはみ言葉に聞き、分かち合っていきたいと思います。

私たちの多くは、「愛の奉仕」を実践することはできないと、私は思うのです。なぜなら「愛の奉仕」と訴える人々のうち、本当に奉仕に生きている人を私はほとんど見たことがないからです。「愛の奉仕」、言葉は美しいのだけれども、信仰から溢れ出て、行動、行いに移すことは簡単とは思えません。

私たちの日々の日常は、この譬えの弟に近いのではないでしょうか。心も魂も、実際、神への信仰に溢れているのです。「神様、あなたを信じます。」「神様、あなたに委ねていきます。」日々、キリストへの献身の思いに満ちているのです。しかし、この弟のように、実際、父のぶどう園に携わる仕事をすることまでには至ってはいないのではないでしょうか。行動に移すこと、「愛の奉仕」に生きること、それはキリスト教信仰の教えとしては分るのだけれども、実践することはなかなか難しいのです。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか。父のみ心を行ったのは、兄の方であって、行動と実践を行った方なのです。しかも、この後に主イエス・キリストは、徴税人や娼婦の例をだして洗礼者ヨハネを先に信じた彼らの方が、神の国に近い、つまり救いに近いと言うのです。行動に移せなかった弟は、祭司長や長老と同じように決めつけられ、救いには遠いように読むことができるのです。今日の譬えにも主イエスの教えの逆説、パラドクスが表れています。一見、祭司長や長老、律法学者の方が、社会的にも信用され、民に人生の歩み方、道理を教え、深い信仰とともに生きているように思われるのです。この時代と社会状況の中では、徴税人や娼婦は道から外れたもの、救いにもっとも遠いものでありました。

主イエスの示される信仰の道は、神の国の世界は、この常識、倫理、人間の道理を打ち破るのです。人間的な価値観では、明らかに徴税人や娼婦の方が、社会の底辺にいて、他者からも蔑まれていた立場にいました。しかし、主イエスは、このもっとも社会から外され、打ちのめされている人々の方が、救いに近いと断言されています。神の憐れみ、神の愛は、徹底的に貧しくされている人々に与えられる深い慰めなのです。

ここで、弟の立場にいる人々は、主イエスの教えられる救いから遠いのでしょうか。行動次第で救いへの門戸が閉ざされてしまうのでしょうか。信仰は、確かに行動が伴わなければ、本物ではないと言うことはできるでしょう。しかし、なかなか行動に移せない私たちはどうすればいいのでしょうか。

ここで一つのキーワードに注目したく思います。それは、兄が父の申し出を断った後、こう書かれているのです。兄は、「後で考え直して」出かけた、と。この「後で考え直したこと」がとても大切なことです。この「考え直す」という言葉、原語では「思い直す・心を変える」という意味の言葉です。良心の咎めを感じて、心を入れかえることなのです。悔い改めることとも言えるでしょう。弟は「心を変える」ことはしなかったのです。兄だけが「心を変え」、悔い改めをしたのです。この二人の違いは後の行動が適切であったかということよりも、この心の入れかえを、悔い改めを、神のみ前で行ったかどうかが大切なのです。その意味で、私たちはたとえ弟の方に近いとしても、望みを失うことはありません。徴税人や娼婦は心を入れかえたのです。洗礼者ヨハネを信じて、心を入れかえたから、主イエスから受け入れられたのです。私たちも、心を入れかえるかどうか、神に心を改めて悔い改めるかどうかが、この譬えで新しく問われていることなのです。

この兄弟には行動に違いがありましたけれども、その行動を招くことになったのは心を入れかえることでありました。信仰から自分の心を入れかえること、心から悔い改めをすること、ここで神に従えるかどうかの別れ道がありました。神の方向に心を向き直すかどうか、神に悔い改めるかどうかが、この譬えの本当の中心点のように思います。

私たちは、行動・実践に信仰の重きを置くのではなく、心から悔い改めて、神の方に向きを定め生きることに信仰の重心を置いていきたいと思います。そうであるならば、行動、行いが結果的に正しいかどうかなどは大して問題ではないようにも思うのです。

今日の譬え話の中心は、父の指示に従ったかどうかよりも、心の向きを改めたのか、悔い改めて生きる方向性をかえたのかであり、このことが本当の意味で問われていると思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                 アーメン


2020年9月13日日曜日

9月20日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内

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新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
礼拝は30分程度に短縮します。
マスクを着けて、ぜひお出かけください!




(旧約聖書)ヨナ書           3章10節~4章11節

(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 章21節~30

(新約聖書)マタイによる福音書   20章1節~16節

            
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

 

   『 ぶどう園の労働者 』 筑田 仁 牧師