2020年1月27日月曜日

2月2日(日)顕現後第4主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。



(旧約聖書)ミカ書          6章1節~8節

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一)

                     章18~31

(新約聖書)マタイによる福音書   5章1節~12節

      心の貧しい人々は、幸いである。
        天の国はその人たちのものである。
      悲しむ人々は、幸いである。
        その人たちは慰められる。
      柔和な人々は、幸いである。
        その人たちは地を受け継ぐ。
      義に飢える人々は、幸いである。
        その人たちは満たされる。
      憐み深い人々は、幸いである。
        その人たちは憐みを受ける。
      心の清い人々は、幸いである。
        その人たちは神を見る。
      平和を実現する人々は、幸いである。
        その人たちは神の子と呼ばれる。
      義のために迫害される人々は、幸いである。 
        天の国はその人たちのものである。



   『 山上の説教 』 筑田 仁 牧師
 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、諏訪教会において教会総会が無事に終わりました。今週は、甲府教会の教会総会となっています。教会総会、昨年度の教会の歩みを丁寧に振り返り、また新しい一年を希望と共に望み見るのです。神から、どれほどの恵みがこの教会に注がれてきたであろうかと振り返る時であります。
 諏訪教会において総会を迎えたとき、私はふと、自分の原点に返ることを考えていました。それは自分が信仰へと招かれた時へと、立ち返ることであったのです。先週、使徒書の日課で読んで頂いたコリントの信徒への手紙Ⅰのなかでパウロはこのように語ります。118節です。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

 主イエス・キリストの十字架と復活は、そしてそこで指し示された十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては全く愚かな言葉でしかありません。何の意味もなさない言葉であることと思います。しかし、この神のみ言葉は、私たち救われた者にとっては、神から与えられる力そのものです。力だけではありません。このみ言葉は、私たちに希望を与え、慌ただしい世界で生きざるを得ない私たちの慰めとなる言葉です。この十字架の言葉に、救いのみ言葉に、私たちの信仰の原点があります。私たちが招かれたときの信仰の原点が確かにあるのです。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 今日も、神の十字架の言葉に生きる慰めを見いだしつつ、今日の福音書の日課、特に「山上の説教」に聞いていきたく思います。
 主イエス・キリストが宣教を始めたとき、大勢の群衆がパレスチナの各地方から集まってきました。病気や障害、苦しみに悩む者がいたるところから主イエス・キリストのもとに癒しと慰めを求めて、集まってきたのです。主は、そこで山に登ります。そして、主イエスに従ってくる大勢のうちひしがれた群衆を前にして、弟子たちに向けて彼は説教をするのです。これは「山上の説教」と言われるものです。53節から6節。
 「心の貧しい人々は、幸いである、
        天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
        その人たちは満たされる。」
 このみ言葉に具体的に聞いていきます。
この前半部分で、「幸い」と呼ばれている人々とはどのような人でしょうか。それは先ず、「貧しい人」です。ここで貧しい人と言われている人は、当時のユダヤ社会の中で、経済的に、実際に、貧しい人々に向けられています。
また、ここで「柔和な人」と書かれています。この原語の意味を辿ると、「圧迫を受けて、背を曲げた者の姿」を表しているのです。背中を曲げざる得ないくらいの抑圧のもとにいる人を指し示しているのです。
群衆は、経済的な困窮状態のなかで打ちひしがれ、病と貧困を抱えて日々抑圧の中で暮らしていたのです。だからこそ、主イエス・キリストに現実生活からの打開と救いを求めて、天の国の福音を求めて、集まってきたのです。厳しい生活の中で、群衆は、民らは、背を曲げて神の国の到来を待ち望んでいました。主イエス・キリストはそのような抑圧の中で暮らしている人々に、そして試練に耐えて背を曲げつつ忍び暮らす人々に、もう一言加えて、神に信頼をおいて生きる人々に、あなたがたは「幸い」であると祝福されたのです。言葉は逆説的なのですが、貧しいからこそ、悲しみの中にあるからこそ、そして神の正義に飢え渇くからこそ、まさにあなたには神の慰めと祝福が必ず訪れると慰めの言葉を告げたのです。
 そして、あなたがたは「幸い」であるという言葉には、「慰められる」「満たされる」という「られる」という言葉が続きます。この言葉は一見して分かるように受動態、受け身の形で書かれています。なぜ受動態なのか。それはこの言葉の受動態の主語が神であるからです。悲しむ人、義に飢え渇く人々に、神ご自身がイニシアティブをとって慰めて下さる、神ご自身がその人を憐れみで満たしてくださるということです。だからこそあなたは今、困窮、困難の中にあっても神からの救いがある。だからこそ、あなたは実は「幸い」であると主イエス・キリストは告げられるのです。
 貧しさ、悲しみ、正義に飢え渇く人々に語る主イエス・キリストの言葉は、神からの慰めと憐れみを告げる、そして必ずそのように実現するという希望を伝える約束の言葉であったのです。
 神の祝福が、希望の約束があるから、私たちは深い失望に留まることはないのです。主イエス・キリストはこの山上の説教でこのようにも言われます。512節です。
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」おそらく神の慰めが私たちに深く、深く、あるからこそ、私はキリストに生きる者の人生は、本来的に、安らかで喜びが根底にある人生であると思います。
では、神の慰めは一体どこに見いだせるのかと思われる方もいることでしょう。日々の具体的な日常生活の中に隠されていると言えるかもしれません。隣人との出会い、交わり、関わりの中に神の慰めは隠されています。私たちは実際に隣人との関わりから多くの支えと慰めを頂いている現実があるのです。
また、自然の美しさに心を奪われ、そこに神々しい存在を感じるときにも慰めを見いだせるかもしれません。自然を感じる直感の中においても、私たちは、人間以上の存在を感じ、大いなる方の慰めを感じることがあるのではないでしょうか。
最期に、説教の始めに述べたように、神の十字架の言葉、福音からも私たちは慰めを受けとります。み言葉が私たちの頑なな心を打ち砕き、この心にそっと寄り添って下さり、私たちは魂の安らぎと慰めを感じることがあると思います。
神が、イニシアチブをとって、この貧しく、悲しみに暮れる私たちを祝福し、慰め、暖かく包んで下さいます。
今週一週間も、神の憐れみと慰めに信頼して歩んでいきたく思います。「山上の説教」で語られているとおり、神からの憐れみと、いたわりが、私たちの上に豊かに注がれていることを覚えつつ、それぞれの生活の場で、信仰とともに、力強く歩んでいきたいと願います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あながたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

                                アーメン

 

2020年1月20日月曜日

1月26日(日)顕現後第3主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。



(旧約聖書)イザヤ書         8章23節~9章3節

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一)

                     章10~18

(新約聖書)マタイによる福音書   4章12節~23節

わたしについて来なさい。
人間をとる漁師にしよう。

   『 伝道 』 筑田 仁 牧師
 

2020年1月13日月曜日

1月19日(日)顕現後第2主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです                                   



(旧約聖書)イザヤ書         49章1節~7節

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一)

                   1章1節~9節 

新約聖書)ヨハネよる福音書   1章29節~42節


わたしは、霊が鳩のように天から降って、
この方の上にとどまるのを見た。

   『 何を求めているのか 』 筑田 仁 牧師
 


2020年1月6日月曜日

1月12日(日)主の洗礼日主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。



(旧約聖書)イザヤ書         42章1節~9節

(新約聖書)使徒言行録        10章34~43

(新約聖書)マタイによる福音書   3章13節~17節


「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」

   『 洗礼 』 筑田 仁 牧師
 

2019年12月29日日曜日

1月5日(日)主の顕現主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。

                          

                  

    新年おめでとうございます!

 
   今年もよろしくお願いいたします。
雪の諏訪教会


(旧約聖書)イザヤ書           60章1節~6節

(新約聖書)エフェソの信徒への手紙  3章1節~12節 

新約聖書)マタイよる福音書     2章1節~12節


「ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で、
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
私の民イスラエルの牧者となるからである。」


   『 不安から 』 筑田 仁 牧師
 


2019年12月22日日曜日

12月27日(日)降誕節第1主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。



(旧約聖書)イザヤ書         63章7節~9節

(新約聖書)ヘブライ人への手紙    2章10~18

(新約聖書)マタイによる福音書   2章13節~23節


主の天使が夢でヨセフに現れて言った。
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、
わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。
ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」


   『 約束 』 筑田 仁 牧師
 

12月24日(火)クリスマス・キャンドルサービスのご案内

クリスマス・キャンドル礼拝

20191224日(火) 19時~

日本福音ルーテル諏訪教会
今日ダビデの町で、あなたがたのために
救い主がお生まれになった。
この方こそメシアである。  
                  ルカによる福音書211

ご一緒に、
クリスマスの賛美歌を
歌いましょう!!

メッセージ  『 拒絶の中で 』 筑田 仁 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストはこの夜、この聖夜にお生まれになられました。
おとめマリアと、忠実な夫ヨセフのもとにお生まれになりました。このクリスマスの夜におこった出来事はひっそりとした小さな出来事であったのです。当時ユダヤ地方で住民登録がありました。マリアとヨセフは、ガリラヤの町ナザレから、ダビデのまちベツレヘムに向かうのです。ところが、そのベツレヘムにいる間に、マリアは月が満ちて男の子を産むのです。それは貧しい馬小屋のなかでの出来事でした。その貧しい馬小屋の中で、幼子は飼い葉桶に寝かされて、この夜、誕生したのでした。

この聖夜の出来事は、本当に小さく、単純素朴で、世間一般には誰にも顧みられることのないような出来事でした。この夫婦には宿屋に泊まる機会もなかったのです。当時、このユダヤの地方では、旅人を宿屋で泊めることは勧められていることでした。旅人をもてなすホスピタリティは推奨されていたのです。しかし、マリアとヨセフはその夜、探しても、探しても、どこも宿屋はいっぱいで見つけることが出来なかったのです。彼らは結果的には馬小屋しか見つからず、そして産まれた子どもを飼い葉桶に寝かせることになるのです。飼い葉桶とは、家畜の飼料をいれるところです。この聖夜、救い主は、誰からも豊かに祝福されることもなく、飼い葉桶にて、静かにお生まれになるのです。
 宿屋が無かったこと、このことは、人々の善意からもれていたと言えるかもしれません。このことを強いて言うならば、この社会から、拒絶されていたとも言えるのです。拒絶―この言葉、少し強い調子に聞こえるかもしれません。この聖夜、まことの救い主のご降誕は、人々からそして社会から拒絶されていたのです。ここで、人間の拒絶と冷たさが確かにあったのです。
 マリアとヨセフを包むこの状況も、人間の冷たさにあらわにされるギリギリのところにありました。おとめが、結婚を前にして神の力によってみごもるのです。聖書の世界では、一般ではあり得ないことが具体的に起こります。マリア、ヨセフはどれだけ困惑したことでしょう。
マリアには恐れと戸惑いがあったはずです。他方で、ヨセフはおそらくマリアを疑う猜疑心に悩まされていたはずです。自分の相手を疑ってしまっても仕方のない状況なのです。この妊娠が世間に広がってしまったら、もう二人の社会生活は崩れてしまいます。それこそ、人間は、社会は、冷たい目でこの二人を裁くことになるでしょう。婚姻生活は社会的に抹殺され、破綻したとしてもおかしくないのです。この社会の拒絶のギリギリのところで、この二人はかろうじて、この夜、赤子を出産するのです。
 この聖夜、人間の拒絶、拒否、不安、心の暗闇がこの社会に、この世界に渦巻いていたのです。しかし、この罪に溢れている世界の真っただなかに、聖書は、清らかなみ子の誕生を告げるのです。人間のどろどろとした罪に溢れているこの世界のただ中に、み子の降誕を告げるのです。
 この救い主、み子主イエス・キリストは、人間の拒絶のなかで、ひっそりとお生まれになりました。そして、その拒絶のご生涯は、ゴルゴダの丘の十字架まで続きます。誰からも、慰めに満ちたそのご生涯を理解されませんでした。逆に、無理解、誤解、偏見のなかで彼は十字架までの道のりを送るのです。律法学者や時の為政者は、そして民衆は、彼をローマ帝国の極刑である十字架刑につけます。弟子たちも最後の最後に彼を見捨てて逃げ去っていきます。この聖夜にお産まれになったこの赤子は、その生涯の最後の最後に至るまで、人間の拒絶、拒否、無理解のなかで、そのご生涯を終えていくのです。
 そもそも救い主が、この私たち罪びとの罪を贖うために、当時の極刑である十字架刑にかかられるということ自体、私たちの常識では受け入れられないことであると思います。この赤子は、生まれたときから人間の拒絶と無理解、偏見の中にあり、その人生の終わりまで、十字架刑の終わりまで、拒絶の中を辿るのです。彼は人間の罪を背負い、担い、まことの救いを人間にもたらすために、人間の拒絶のなかで、その十字架刑までの道のりを歩んで行くのです。

ここまで人間の拒絶ということを話してきました。この降誕の出来事の中であらわになることはなんでしょうか。それは、実は、神の恵みということです。ドロドロとしていてどうにも逃れることのできない罪と無理解が、この聖夜を包んでいました。しかし、この罪が極まっているからこそ、み子の降誕を通して、私たちはまことの光が到来していることを知るのです。この主イエス・キリストの降誕に、この赤子の降誕に、神の恵みと本当の人間の希望が、圧倒的に溢れているのです。
聖書の告げるメッセージは、素朴なものです。罪が溢れているところに、にも関わらず、恵みが溢れているということです。
人間の拒絶が溢れているこの世界に、この世界の暗闇のただ中に、神の独り子がこの世のひかりとしてお産まれになりました。ここに私たちのまことの希望と、私たちを照らすまことの光があるのです。クリスマスはまさに神の恵みの出来事であるのです。この赤子の降誕を、私たちの救い主のご降誕を、心からお迎えしお祝いしたい、そう思います。
この聖夜、神様からの祝福が皆様のうえに豊かにありますようにお祈りします。クリスマスおめでとうございます。メリークリスマス。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
                       アーメン