諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
エルサルバドルの司祭であり、カトリックの聖人で
あるオスカル・ロメロ大司教(1917-1980年)という
人がいました。ロメロ大司教は、軍事政権下のエルサ
ルバドルで、弱い立場にある人々への暴力や、司祭や
カテキスタ(洗礼志願者などを教育する信徒奉仕者)
の殺害、貧しい人々の搾取、社会の不正を世界に訴え
ました。そして、ミサの司式中に暗殺されてしまいま
す。
ロメロ大司教の殉教を想起させる文章として、いろ
いろな人々から引用される、ケネス・アンテナー司教
という人物が書いた次の言葉があります。
「最終的な結果を私たちが見ることはないかもしれ
ない、けれどもそれは/建設主と労働者の違い。私
たちは労働者であって、建設主ではない、救いに仕え
る者であって、救い主ではない。私たちは、自分のも
のではない未来の、預言者なのだ。」
本日の福音書に記されている、イエスが語ったたと
え話に出てくる農夫たちは、「自分たちは、神が造っ
たこの世界の労働者であって、建設主ではない」とい
うことが分かっていない、私たち人間の姿を表してい
ます。
イエスが祭司長やファリサイ派の人々に向けて語っ
たこのたとえ話は、ある家の主人がぶどう園を作り、
それを農夫たちに託して旅に出る場面から始まりま
す。ぶどうは、木を植えてから収穫までに何年もかか
るので、主人は収穫を期待して準備をし、その時を待
ち望んでいました。
ここでの主人は神を表し、農夫は私たち人間を表し
ています。主人が「旅に出た」とありますが、これは
主なる神がしばらくの間、沈黙していたことを指して
いると思います。
そしてぶどうの収穫の時が近づいてきた時、主人は
その収穫を受け取るために、自分の僕たちを農夫たち
のところへ送ります。しかし、主人からぶどう園を借
りていた農夫たちは、主人が送ってきた僕たちを捕ま
え、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打
ち殺してしまいます。
農夫たちは、ぶどう園を自分たちに任せてくれた主
人を裏切り、不誠実さと暴力をもって反逆します。主
人が前より多くの僕たちを送っても、農夫たちは、僕
らを同じ目に合わせます。しかし主人は、農夫たちの
背きと悪に忍耐し、自分の息子なら敬ってくれるだろ
うと、最後に息子を彼らのもとに送ります。ここには
主なる神の、忍耐強い赦しの愛が表されています。
しかし農夫たちは、最後に送られた主人の息子すら
殺してしまいます。跡取り息子を殺すことで、その相
続財産であるぶどう園を、占有している自分たちのも
のにしようとしたのです。主人の息子を殺すことで、
農夫たちの背きは極みに達します。
ここでの「ぶどう園」とは、「神がお造りになった
この世界」を表しています。このたとえ話には、私た
ち人間の罪があらわにされていると言えるでしょう。
神は天地の造り主です。私たちはその神が造られた
世界を、ぶどう園の農夫たちのように委託されている
に過ぎません。ある一定の期間だけ、主人のために働
くのです。
しかし農夫たちは、主人から管理を委ねられたもの
を、自分の力で得たもののように思い込み、自分のも
のだと勘違いしてしまったのです。
本当の主人を尊重せず、あたかも自分が主(ぬし)
であるかのようにふるまうこと、自分が主(ぬし)で
あると思い込んでしまうこと、神のものを神に返さな
いこと、そこに人間の根本的な罪と過ちが潜んでいま
す。
さらにイエスは、祭司長やファリサイ派の人々に、
詩編118編22節の言葉を引用して次のように語りま
す。
「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石とな
った。これは、主がなさったことで、/わたしたち
の目には不思議に見える」。
これは、建築の専門家から不要だと捨てられたも
のが、実は建築に最も大事な基礎の石となったこと
を意味しています。不思議にも、その捨てられた石
から救いの道が開かれたのです。ここに示されてい
るのは、捨てられた石が用いられ、そこから救いが
始まるということです。
そしてこれは、「祭司長やファリサイ派の人々」に
殺されるイエス・キリストが、神の救いの業の要石
(かなめいし)になることを暗示しています。
しかし当時の人々は、イエスが、神の御子である
からこそ全ての地上的な栄誉を捨てるという逆説を
理解できませんでした。
群衆にとって、無力な「救い主」など有り得ませ
んでした。しかし主イエスは、人々の想像を超えた
形で、ご自身の力を現しておられました。イエスは
人々から罵られ、嘲られる道をご自分から選ばれま
した。それこそが主イエス・キリストの強さです。
コリントの信徒への手紙 二12章10節に記されている
「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言
葉が思い起こされます。
人生には、たくさんの苦しみがあります。生きる
ことは本当に大変だと感じている人は多いと思いま
す。そのような人生を、人は何のために生きるので
しょうか。
その答えを使徒パウロは、「わたしたちの中には、
だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自
分のために死ぬ人もいません」(ローマ14:7) と記し
ています。私たちは、神のため、そして他の誰かの
ために生き、神のために死ぬのです。
た。最近、赤や紫の花が美しく咲いています。
私たちは、苦しみの中にいる時も、喜びの中に
いる時も、神と人と共に生きていることを覚えな
がら、この地上での日々を希望をもって歩んでい
きましょう。
お祈りをいたします。
神様、私たちに今日という日をお与えくださり
ありがとうございます。日々の中で焦ったり慌て
たりしてしまいがちな私たちが、あなたに信頼し
て安心して歩んでいくことができますように。
あなたの愛の導きのもとに、私たちが生かされて
いることに感謝いたします。主イエス・キリスト
の御名を通して祈ります。
アーメン








