2024年10月6日日曜日

10月13日(日)聖霊降臨後第21主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

私たち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。












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キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。










★ 主日の祈り

全能・永遠の神様。

後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

終わりの日に永遠の喜びの冠を授かるために、

私たちの信仰の賜物を増し加えてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)アモス書

       5章6節~7節、10節~15節                                                  

(新約聖書)ヘブライ人への手紙 

       4章12節~16節

(新約聖書)マルコによる福音書    
       10章17節~31節


子たちよ。
神の国に入るのは、
なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るよりも、
らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。









「 神の国に入るためには 

          浅野 直樹 牧師


 今日の福音書の日課も、皆さんもよくご存知の物語だと思います。ある一人の人物がイエスさまを訪ねて来まして、跪いて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と。

 先週の日課は、離縁についての問答でしたが、この時にはイエスさまのもとに訪ねてきたファリサイ派の人々がイエスさまを試すために、つまり悪意と言いますか、少なくともイエスさまの不利益となることを望んでの問いだった訳ですが、今日の「ある人」の場合は「ひざまずいて」とあるように真剣な問いであったことが分かります。
 では、この人がそれほどまでに真剣に聞きたかった「永遠の命」とはどのようなものなのか? この先でイエスさまが、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と語られたり、あるいは弟子たちが、「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と語ったことからも分かるように、「神の国に入る」ことと「救われる」ことと同類のことです。つまり、永遠の命とは、神の国に入ることと救われることと同義ということ、不可分なことということです。そこには当然、死という現実をいかに乗り越えていけるのか、といったことも含まれている。
 旧約聖書に『コヘレトの言葉』(出だしから「コヘレトは言う。空の空 空の空、一切は空である。」とはじまっていくような)という一風変わった書がありますが、ではなぜそれほど「虚しさ」が強調されるのか、といえば、結局誰もが最後は死んでしまうからです。どれだけ人生の中で成功をおさめた人であっても、名声を得た人であっても、普通の人でも、正しく生きてきた人であっても、罪に手を染めてきた人であっても、結局は皆同じように死を迎えるだけではないか、結局変わらないではないか、それが現実ではないか、だとしたらこの世は何と虚しいことか。少なくともコヘレトはそうとらえている。
 以前もお話ししましたように、60歳を間近にひかえ、また今回持病の悪化で、自分の人生の終わり、死というものをどうしても考えざるを得ませんでした。そこで改めて感じることは、あのコヘレトが言うように、結局は最後が死でしかないならば、何とこの人生とはむなしいものだろうか、ということです。しかし幸いなことに、私たちは死に打ち勝つ命、永遠の命をすでに得ている。神の国に入ることが約束されている。イエスさまによって救われている。それは、何と幸いなことだろうか。しかし、残念ながら、誰も彼もがその虚しい現実を直視しているわけではないし、ましてやそこからの救い、解放を求めているとは言い難い現実もあるのではないか。
 そういう意味では、この人はそんな永遠の命を真剣に求めた人でした。彼はどうやら大変な資産家・金持ちだったようです。生まれた時から恵まれた、それこそ何不自由なく育って来たことでしょう。周りの友達ともちょっと違うと自覚しながら成長して来たのかもしてません。まさに羨ましがられるような人生です。順風満帆とも言える彼が、ではなぜそれほどまでに永遠の命を求めていたのか。しかも死の現実を見つめざるを得なくなったような年齢でもなかった。この人のことをよく「富める青年」などと言われたりしますが、まだ20代前後だったのかもしれません。しかも彼はイエスさまに言われた戒めを子どもの頃から守って来た、といっています。この子どもとは、先週のイエスさまに祝福していただいた「幼子」ではなくて、少年といっていい、ある方は小学高学年か中学生くらいといっていますが、おそらくちゃんと律法を教えられるようになってからずっと守って来た、ということでしょう。その頃の自分を考えますと大したものです。
 これは想像でしかありませんが、おそらく幼少の頃に身近な存在の死を、おじいちゃん・おばあちゃんだったかもしれない、あるいは両親のどちらかだったかもしれない、ともかくショッキングな死を、看取りを経験したのかもしれません。そこで、たとえ周りの人々が羨むような生活をしていたとしても、結局は恐ろしい死を迎えなければならない恐怖感に圧倒されたのかもしれない。だから、まだ年少であったとしても、猛烈に死の現実を克服する永遠の命を求め続けて来たのかもしれません。でも、いくら頑張って来ても、何年も何年も熱心に取り組んできても、確信を、平安を得られなかった。だから、イエスさまのことを聞きつけて、血相を変えてやって来たのではない、と思うのです。
 彼は真面目でした。熱心でした。私たちが見習うべきほどに、です。しかし、それだけでは、ダメなのです。残念ながら、それだけでは救われない。
 私はこの青年の姿を見るとき、かつてのルターの姿を思い浮かべます。ルターもまた命の危険を感じて救われるために修道院入りを決意しました。ご存知のように青年ルターは大学の法学部に所属しエリート街道まっしぐらだった訳ですが、親の反対を押し切って修道院に入ったのです。当時の理解では、それが救われるためには最善だと思われたからです。ルターにとってもそれほどの抜き差しならない差し迫った問題だったからでしょう。ルターもまた人一倍真面目に修道院生活に打ち込みました。戒律をしっかり守り、修道士に課せられた義務を果たし、人一倍に修練を積み重ねていった。その典型的なことの一つが告解です。当時、告解が罪の赦しに必須と考えられていた。ルターは人一倍罪の自覚に敏感だったので、日に何回も告解を受けました。担当司祭がもっと大きな罪を犯したら来るように、と告げるほどに。それは、救われるためです。永遠の命を得るためです。神の国に入るためです。しかし、どれほど努力を積み重ねても、いいえ、むしろ努力すればするほど罪の自覚ばかりが強くなって、赦しの確信が、平安が得られなくなった。途方に暮れていきました。そんな中当時の上司の勧めもあって聖書に取り組むようになった。そして、福音の再発見にたどり着くことになった。救いは自分の力で勝ち取るようなものではなくて、神さまが与えてくださる一方的な恵みに信頼して頼ることによって与えられるものだ、と。つまり、「信仰義認」(江口再起先生によるところの「恩寵義認」)です。
 かつてのルターもそうだった。この人も、動機もその熱意も間違ってはいなかったかもしれませんが、方法が間違っていたのです。それは、自分自身を頼りにしている、ということ。つまり、自分で何とかしようとしたところです。だから、いろいろなことに縛られて、自由を奪われてしまっていた。にもかかわらず、いや、むしろ、だからこそ平安を、確信を得ることが出来ずにいた。これをせよ、あれをせよ、こうしなければ、ああでなければ、とがんじがらめになり、急き立てられるだけだからです。この人も少年時代から急き立てられるように律法を守って来たのでしょう。それほどこの人にとって永遠の命を受け継ぐことが重要だったのです。だからイエスさまの問いかけにも、「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました(協会共同訳)」と自信満々に答えることが出来たのだと思います。これもまた、なかなか出来ないことだと思う。
 イエスさまは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」と言われ、弟子たちが大変驚いた、といいます。なぜなら、今聖書を読み祈る会(甲府教会)でヨブ記を読んでいますが、そこでもたびたび話していることですけれども、旧約の基本的な考え方は、祝福と呪にあるからです。神さま・律法に従っているものには祝福が、背いているものには呪いが、ということです。つまり、金持ちというのは、この世で神さまから祝福を頂いている人々と思われている訳ですから、そういう人々こそ神の国に一番近い、救われる可能性が一番高いと思われていたからです。だから、弟子たちはイエスさまの常識破りな話に驚いた。しかし、イエスさまはそんな弟子たちにこう語られた。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」。そうです。神さまにおできにならないことはない。つまり、神さまだけを頼れば良い、ということ。逆にいえば、神さま以外のものに頼る必要がない。もっと言えば、神さま以外のものを頼ってはならない、ということです。ここに気づいたのが、先ほど言いましたルター。そして、この事実に気づいた者だけが、自由と確信と平安を手にすることができる。こだわりまくったルターが、その一切を手放して、それらを手に入れたように。なぜなら、永遠の命とは、神の国とは、イエスさまが与えてくださる救いとは、そういったものだからです。
 聖書は必ずしも富を否定していません。先ほど言いましたように祝福の象徴でもある。また29節で捨てるように言われている「家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑」も大切なもの、神さまが与えてくださった賜物に違いない。しかし、それらが私たちをがんじがらめにして、支配してしまって、神さまを見えなくしてしまっては、その恵みを、力を、気づかせなくしてしまっては、神さま以上に信頼を寄せ、頼るようにしてしまっては、自分の最後の拠り所としてしまっては、本末転倒となってしまう。
 今日のこの人を、イエスさまは決して拒絶されていません。こう記されている。21節、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」。この人を愛された、ということです。そして、この人に従ってくるようにと招かれた。しかし、ご存知のように、この人は去っていってしまった。多くの財産を持っていたからだ、と。でもある方は、この時は確かにそうだったかもしれないが、のちにイエスさまの十字架と復活の出来事を聞いて、イエスさまの言わんとしていたことを理解して、信仰に入ったのではないか、とおっしゃっている。なぜなら、イエスさまはなおもこの青年を愛しておられたからだ、と。私もそうだといいな、と思っています。
 いずれにしても他人事ではない。ひょっとして私たちも、この人以上に手放したくないものを後生大事に握りしめているのかもしれない。それが自分を救うことになるのだ、と。そうではない。私たちを救うことができるのは、神さまだけです。私たちの愛する人々、大切なものを救うことができるのも神さまだけ。そのことを忘れてしまっては、どんなにいいことをしても、熱心でも、家族を大切にしていても、本末転倒になってしまうのではないか。結局この人のように、あれだけ求めていても手に入れられない、せっかく招かれていても悩みつつ去っていってしまうことにならないだろうか。そのことをもう一度問われているように思います。
 
祈ります。
「天の父なる神さま。御名を賛美いたします。今日も御言葉によって気づきを与えてくださったことを感謝いたします。私たちは、この人のように多くの財産は持っていないかもしれませんが、自分自身のことも含めてあなた以上に頼るものを内に秘めていることを思います。それでいて、この人のように、確信を持てずに、いつも不安な中を彷徨っているのかもしれない。どうぞ憐れんでくださり、あなたこそが頼るべき方、救いを与え、神の国に招き、永遠の命に生かしてくださって、平安と喜びと真の自由を与えてくださる方であることをますます知らせてくださいますように、信頼を寄せていくことが出来ますようにお導きください。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」


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