(旧約聖書)イザヤ書
53章4節~12節
(新約聖書)ヘブライ人への手紙
5章1節~10節
(新約聖書)マルコによる福音書
10章35節~45節
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あなたがたの中で偉くなりたい者は、 皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、 すべての人の僕になりなさい。 |
「 謙遜を学ぶ 」
浅野 直樹 牧師
何週間か前に、弟子たち同士が「誰が一番偉いか」と論争をしていたという箇所から学んでいきましたが、この時も「受難予告」(第二回目の)の直後のことだったと聖書は記しています。イエスさまがご自分の身にこれから起こるであろう苦しみ・ご受難の話をされたにも関わらず、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いだろうか」と論じ合っていた。さすがに弟子たちにとっても、ちょっと気まずかったのでしょう。イエスさまからそのことを問われた時に、彼らは「黙っていた」と言います。堂々と言えないようなことを、密かに論じ合っていた。それに対してイエスさまはこう答えられた。マルコ9章35節、「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」。さすがに弟子たちとしても、イエスさまからそんなふうに言われたものですから、その後はこのような「誰が一番偉いか」論争は影を潜めていた、と思われます。影を潜めていた。表面的にはもうその話題は出なかった。しかし、どうやら、先ほどのイエスさまのお言葉で納得できた、弟子たちの気持ちがすっかり晴れ渡ったわけではなかったようです。そうか、一番を目指すなら、イエスさまがおっしゃったように、仕えることに徹しよう、とは思わなかった。むしろ、心の奥底に野望を隠し持って、その機会を虎視眈々と狙っていたようにも思われます。それが、今日の日課です。
ここでヤコブとヨハネはイエスさまのもとに進み出て、お願いをします。「『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」。「栄光をお受けになる」とは、権力を手中に収めるということでしょう。少なくとも、この時点では彼らはそう考えていた。いづれ我らの先生は当時の指導者・権力者たちもローマの力さえも凌駕して、権力を手にお入れになるに違いない、と。その暁には、イエスさまに次ぐ地位を、ナンバー2、ナンバー3の地位をいただきたい。そう願い出たわけです。
このヤコブとヨハネ、35節に「ゼベダイの子」とありますように、実の兄弟です。どちらが兄で弟であるのか、正確には分かりませんが、聖書が記す順番を考えますと、おそらくヤコブが兄でヨハネが弟であると考えられています。しかし、その序列はあまり気にしていなかった。兄がナンバー2で弟はナンバー3にしてください、とは願わなかった。とにかく、兄弟二人でイエスさまに次ぐ地位が欲しかった。おそらく、競合相手と思われるペトロにも兄弟がいたからです。アンデレです。このアンデレについては、聖書は目立った記述をしていませんが、ペトロといえば、誰もが知る弟子集団の代表格のような人物です。三羽烏といった言葉もありますが、12人の弟子たちの中でも、このペトロとヤコブとヨハネは特別扱いをされていたことが分かります。ひょっとしたら、ヤコブとヨハネ兄弟はペトロを、あるいはペトロ兄弟をライバル視していたのかもしれません。だから、一早くイエスさまの言質を頂くために、ペトロ兄弟の様子を伺いながら、そのタイミングを見計らって、今しかない、と日課のような申し出をしたのかもしれない。しかも、聖書はまたもや、この申し出はイエスさまの「受難告知」(第3回目の)の直後に行われた、と記していきます。弟子たちの心がいかにイエスさまから遠く離れていたか、をこれでもかと記していく。
この二人の行動に対して、他の弟子たちはどのような反応をしたか。41節、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」。よくも「抜け駆け」したな、です。つまり、他の弟子たちも同じ穴のムジナということです。大差ない。ここに、弟子集団の中にも権力闘争が起こっていた、と見ることもできるのではないか、と思う。人間というものは…、とつくづく思い知らされる想い、です。
そんな弟子たちの様子を見て、イエスさまはこう言われた。「『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。』」。最初に言いました、何週間か前に学んだ「誰が一番偉いか」論争の時に語られたものと内容的には大差ない、と思います。同じことを語られた、と言っても良い。つまり、弟子たちはイエスさまに再び同じことを言わせた、ということです。いいえ、私たちは何度も何度もイエスさまに同じことを言わせているのかもしれない。それほどに、私たちは自分たちの思いを、考えを、理屈を変えることが難しいのです。それが、私たち人類の性ともいえる。だから、イエスさまは諦めずに、呆れずに、何度も何度も必要なことを私たちに語り聞かせてくださるのかもしれない。この弟子たちのように。
イエスさまはこうおっしゃいます。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。」。この世の中では、それが最善とは言い難いが、一般的な理(ことわり)があるのも事実。支配者が民を支配したり、偉い人たちが権力を振るったりしていることも否定できない。それらは実際に、現実に起こっている。「しかし、あなたがたの間では、そうではない」と言われている。そうであってはならない、と言われているようにも思う。それを私たちは忘れてはいけないのだ、と思うのです。私はこう思う。教会とは、この世の価値観だけで全てが染まりきってしまわないためにも存在しているのではないか、と。権力に対してもそうです。残念ながら、日本の教会のような弱小の存在では、社会にそれほど大きな影響力を発揮できないでしょうが、それでも、教会から、私たちから、世の中に、この現実世界の中に、浸透させていける、していくべきものがあるのではないか。せめて、私たちの間だけでも。
今、私たちの国、日本でも、アメリカでも選挙の季節となっています。権力闘争真っ只中、といってもいいでしょう。果たしてどんな人が選ばれるのか、大変気になるところです。これはあくまでも個人的な見解ですが、私自身は以前の岸田首相も今の石破首相も大変期待していました。それまでの安倍路線を変えてくれるのではないか、と。しかし、蓋を開けてみれば、そうはならなかった。今の石破さんも随分と今まで言ってきたことと違うではないか、とその路線変更に批判が集まっているようです。確かに、石破さん自身がおっしゃっておられるように、組織の長になった以上、持論ばかりではなく周りの人々の意見にも耳を傾けなければならなくなるのでしょう。そうでなければ民主主義は壊れてしまい、下手をすれば独裁になってしまう。確かに、強烈なリーダーシップは、物事を劇的に、またスピーディーに変えることができるのかもしれない。しかし、ロシアをはじめきな臭い国々の独裁性が改めて危険なものであることを私たちは嫌というほど知らされてもいます。いずれにしても選挙の時だけ下手(したて)に出るのではなくて、公僕の・公に尽くす精神を一人一人の議員たちが忘れないでいただきたい、と切に願っています。
そもそもが間違っていました。3度「受難予告」を聞いた弟子たちは、徐々にただならぬことが起こるかもしれない、と感じ取ってはいったと思いますが、しかし、彼らはイエスさまの本質を見極められずにいたからです。あくまでも権力としての「栄光」から離れられずにいた。しかし、イエスさまが受けられる栄光とは、十字架(受難)と復活なのです。だから、彼らは分かってもいないのに、呑気にこんなことさえもいう。わたしが受けるべき杯と洗礼を受けることができるか、と問われた時に、「できます」と。これは、ゲッセマネの祈りの時に、イエスさまさえも避けたい、と願われた受難の印です。それを、彼らは「できる」と簡単に言ってのける。しかし、その結果どうなったかはお分かりのとおりです。イエスさまを見捨てて逃げてしまう始末。しかし、それにも関わらず、イエスさまはこう語られる。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」と。使徒言行録を見てみますと、ヤコブは殉教の死を遂げたことが分かります。ヨハネは良くは分かっていませんが、それでも、たとえ殉教はしなかったとしても、やはりイエスさまの弟子ということで、さまざまな苦難を経験してきたことでしょう。つまり、ここでイエスさまが語られたように、彼らもいずれはイエスさまの杯と洗礼を受けることになる。しかし、それは、あくまでも十字架と復活を経た後です。イエスさまの受難と復活の出来事を経験した後に、ようやくイエスさまの栄光が何たるかを知ることになる。
今日の旧約の日課は、言わずと知れた「苦難の僕」と言われるものです。では、実際にこの「苦難の僕」は誰を指すのかといえば、これを書いた第二イザヤと言われる預言者自身だとも言われますが、教会はこの苦難の僕こそイエスさまのお姿だと受け止めてきました。4節、「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」、11節、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」、12節、「多くの人の過ちを担い 背いた者のために取り成しをしたのは この人であった。」。この方の栄光を見た。この方の救いの、恵みのみ業を味わった。まさに、この方が、神の子が、この罪深い私のために命を投げ出してくださった。こんな私にも仕えてくださった。だから…。ここから始まる。いいえ、ここからしか始まらない。
私たちはこの弟子たちのように、いいえ、弟子たち以上に頑固に自分を変えたがらない者です。だから、単に一度二度聞いたからといって、私たちの姿勢は変わらない。それもまた、事実。だからこそ、です。イエスさまは諦めずに、何度も何度も繰り返し語ってくださる。何度も何度も本当のご自分の栄光の姿を表してくださる。私たちのために命を捧げてくださった十字架の姿を。死という現実を打ち破ってくださった復活の姿を。だから、私たちも変わっていける。少しづつかもしれないけれども、イエスさまと同じように仕える者になっていきたい、と願わされていく。それが、この世界を、それこそほんの少しづつかもしれないけれども、変えていくことになるのかもしれない。2000年という教会の歴史の中で、確かに過ちも多かったけれども、そういった事実にも、そういった人々にも出会っていける。歴史にも名が残らない無名な人々の中に。私たちの中に。そうではないでしょうか。
祈ります。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。今日も敬愛する皆さんと共々に礼拝に招いてくださり、御言葉の前に立たせてくださいましたことを感謝いたします。私たちはイエスさまから目を逸らしては何もできません。すぐにでも道から外れてしまい、過ちに陥りやすい者です。どうぞ憐れんでください。常に、イエスさまに心を向け、また心を開いて、イエスさまがこの私に、私たちに何をしてくださったかを思い起こしていくことができますように。また、そんな恵みを受けた私たちに何を期待されているかを諭っていくことができますように、お導きください。どうぞ、イエスさまがこの私たちにしてくださったように、互いに仕え合っていくことができますように、そのことを通しても、私たちがイエスさまの弟子であることを世が知っていくことができますようにお導きください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」