諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります。
★ 主日の祈り
神様。
あなたは、御子の苦しみによって、死と辱めの十字
架を、私たちを生かす手段としてくださいました。
私たちが主の十字架に栄光を見いだし、恥と損失を
御子のゆえに受け入れることができますように導い
てください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
(旧約聖書)創世記
17章1節~7節、15節、16節
(新約聖書)ローマの信徒への手紙
4章13節~25節
(新約聖書)マルコによる福音書
8章31節~38節
「 人々から排斥された方 」
浅野 直樹 牧師
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
今日、四旬節第2主日に与えられました福音書の日課は、皆さんもよくご存知の、いわゆる「受難告知」と言われる箇所です。これは、直前のペトロの信仰告白「あなたは、メ
シアです。」を受けた形でなされたものでした。このペトロの信仰告白についても、マルコは非常に簡潔に記していますが、平行箇所でありますマタイでは、このペトロの信仰告白を非常に喜ばれたイエスさまは、ペトロに̶̶元々は「シモン」という名前だったわけですが̶̶「岩」という意味のペトロという呼び名を与えられ、しかも、この岩の上に教会を建てる、とまで言ってくださった程でした。そのペトロが、その直後に「サタン、引き下がれ」とまで言われてしまった。
以前もお話ししたかと思いますが、この福音書のもう一つのテーマが弟子たちの無理解にあると思えるほどに、この弟子たちの無理解さが随所に出て参ります。今日の箇所も、その最たるところでしょう。先ほども言いましたように、つい直前にペトロはイエスさまのことを、「あなたは、メシアです。」と告白いたします。あなたは救い主だ、と告白するということは、ペトロにとっても勇気のいったことではなかったでしょうか。しかし、これまでのイエスさまと共にある歩みの中で、そう告白せざるを得なかった。それほどまでに、ペトロの中でイエスさまは特別な存在なのだ、ということが募っていったと思います。期待も込めて。
シアです。」を受けた形でなされたものでした。このペトロの信仰告白についても、マルコは非常に簡潔に記していますが、平行箇所でありますマタイでは、このペトロの信仰告白を非常に喜ばれたイエスさまは、ペトロに̶̶元々は「シモン」という名前だったわけですが̶̶「岩」という意味のペトロという呼び名を与えられ、しかも、この岩の上に教会を建てる、とまで言ってくださった程でした。そのペトロが、その直後に「サタン、引き下がれ」とまで言われてしまった。
以前もお話ししたかと思いますが、この福音書のもう一つのテーマが弟子たちの無理解にあると思えるほどに、この弟子たちの無理解さが随所に出て参ります。今日の箇所も、その最たるところでしょう。先ほども言いましたように、つい直前にペトロはイエスさまのことを、「あなたは、メシアです。」と告白いたします。あなたは救い主だ、と告白するということは、ペトロにとっても勇気のいったことではなかったでしょうか。しかし、これまでのイエスさまと共にある歩みの中で、そう告白せざるを得なかった。それほどまでに、ペトロの中でイエスさまは特別な存在なのだ、ということが募っていったと思います。期待も込めて。
しかし、イエスさまは直後にこう語られました。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」。この言葉は、ペトロにとっては受け入れ難いことだった。だから、ついイエスさまを諌めるようなことまでしてしまった。そんなことが起こるはずなどない、と。
もちろん、ペトロとしては、善意でそうしたのだ、と思います。しかし、その善意が、イエスさまからすれば、それはサタン・悪魔の囁きでしかなく、神さまのご計画のことなどちっとも顧みず、単に人間的な思いに捕らわれているようにしか思えなかったわけです。
この時代、ここイスラエルではメシア待望論が膨らんでいた、と言われています。長年の外国勢力による支配、そして、強大なローマの影響下に人々は疲弊していたからです。
今でも、そういった国々は世界中に多くあります。圧政、弾圧で自由に物が言えなかったり、貧しい生活が一向に改善されなかったり、権力者にすり寄る一部の特権階級の者たち
だけが美味しい思いをしているそんな世界、未来が・希望が見えない世界が…。そんな世界に、しかも虐げられている側に生きていたら、おそらく誰もがこの世界を・現実を変え
てくれるような救世主を求めるでしょう。今でもそう…。ですから、当時の人々が、そしてペトロや弟子たちが、そのような救い主・メシアを待ち望んでいた、としても不思議で
はない、と思います。
しかし、あのペトロの反応は、ただそれだけでもなかったように思うのです。なぜなら、イエスさまは、自分たちとはかけ離れた遠いところで立った自称メシアではなかったし、周りの人々が勝手に担ぎ上げたメシアでもなかった。このメシアは自分たちの師(先生)、自分たちが思いを寄せ、自分たちの人生を賭け、共に歩んできた、そんなイエスさまだったからです。
そんなイエスさまが、神さまに愛され、人々を愛し、助け、神さまの御心を成してこられたイエスさまが決して不幸な目に遭うはずはない。そう考えたって不思議ではない。いいえ、もし仮に、時の権力者たちがイエスさまに危害を加えようとするなら、この私たちがお守りする、だから、決してそんな酷い目に遭うようなことはない。必ず私たちがお助けするから、それこそが神が私たちに与えてくださった使命だろうから、イエスさま、そんな弱音など吐かないでください、神さまはきっとあなたを守ってくださるはずだから…。そんな思いもあったのかもしれない。
ペトロの反応は、おそらく100パーセント善意です。ペトロなりのイエスさまに対する愛の表明と言えるのかもしれない。しかし、それこそが、イエスさまには、あの荒れ野
の誘惑と同じ悪魔・サタンからの誘惑に感じられた。だからこそ、このペトロに「サタン、引き下がれ」と言われたのではないか。そう思う。
イエスさまは確かに、メシアとしてこの世界と戦われました。当時の世界・社会からは爪弾きにされていた人々を招き、救っていかれたからです。それは、社会改革でもあった
かもしれませんが、もっと言えば宗教改革だったと思うのです。つまり、当時における信仰の理解、神さまの理解に対する挑戦です。単調な祝福と呪いの調べに対しての挑戦だっ
た…。
皆さんもヨハネ福音書に記されています「生まれつきの盲人をいや」された出来事をご存知でしょう。生まれつき目の不自由だった人を見かけた弟子たちは、イエスさまにこう
尋ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」。
ペトロの反応は、おそらく100パーセント善意です。ペトロなりのイエスさまに対する愛の表明と言えるのかもしれない。しかし、それこそが、イエスさまには、あの荒れ野
の誘惑と同じ悪魔・サタンからの誘惑に感じられた。だからこそ、このペトロに「サタン、引き下がれ」と言われたのではないか。そう思う。
イエスさまは確かに、メシアとしてこの世界と戦われました。当時の世界・社会からは爪弾きにされていた人々を招き、救っていかれたからです。それは、社会改革でもあった
かもしれませんが、もっと言えば宗教改革だったと思うのです。つまり、当時における信仰の理解、神さまの理解に対する挑戦です。単調な祝福と呪いの調べに対しての挑戦だっ
た…。
皆さんもヨハネ福音書に記されています「生まれつきの盲人をいや」された出来事をご存知でしょう。生まれつき目の不自由だった人を見かけた弟子たちは、イエスさまにこう
尋ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」。
先ほど言いました単調な祝福と呪いの調べでは、こういった結論にならざるを得ないからです。神さまに従う者には祝福が、神さまに逆らう者には呪いがある。ならば、生まれながらに不幸を背負わされたこの人は、本人か両親かが罪を犯した結果であろう、となる。この図式が当時の世界観だった。だから、裕福で健康で、いかにも幸いな人生を送っている人々は神さまからの祝福があるのであって、そうでない人、貧しかったり、病気をしていたり、怪我をしていたり、幸福とはとても言えないような人には罪の結果としての呪いがある、と考えられていた。だから、彼らは余計に生きづらかったわけです。
しかし、イエスさまはこう語られた。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と。つまり、この単調な祝福と呪いに挑戦されているのです。いかにも、祝福されたような人生の中にも罪の問題はあるし、いかにも不幸で呪われているとしか思えないような人生の中にも神さまの御心がある。だから、イエスさまはたとえ悲惨な人生であったとしても、神さまのご計画を信じて、従っていける。
しかし、それが弟子たちには分からない。理解できない。なぜ神さまに愛されている方が、こんな不幸な目に遭わなければならないのか、と。神さまに愛されているなら、すべての危険、災いから守られ、幸せになれるのではないか、と。それこそが、神さまに祝福された者の姿ではないか、と。そして、それが、悪魔の誘惑になる。
2週間ほど前でしょうか。説教の中で遠藤周作に少し触れたと思います。正直、遠藤とは随分前に決別したのですが、久しぶりに『死海のほとり』を読んでみました。若い頃、
どうしてそんなにのめり込んだのか、不思議な思いに駆られましたが、それだけ歳を重ねた、ということでしょう。年齢だけでなく、経験も…。
以前もお話ししたように、遠藤が描くイエス・キリストは、とにかく無力なのです。奇跡も癒しも何もできない。ただ傍にいて看取るだけ。今の私とは随分と違った理解です
が、こんな言葉が記されていました。「生きている時には何もできなかったイエスのために、なぜ弟子たちが後半生あれほど身を捧げたのか、俺にはまだ解けないんだ。……これ
は聖書の一番、大きな謎だよ。……俺が事実のイエスを探れば探るほど、そのイエスは、みじめな、見すぼらしい男だった。たしかだよ。そのイエスが、どうして神の子とみられ
たのか」。作中の登場人物を通して語られた言葉です。
2週間ほど前でしょうか。説教の中で遠藤周作に少し触れたと思います。正直、遠藤とは随分前に決別したのですが、久しぶりに『死海のほとり』を読んでみました。若い頃、
どうしてそんなにのめり込んだのか、不思議な思いに駆られましたが、それだけ歳を重ねた、ということでしょう。年齢だけでなく、経験も…。
以前もお話ししたように、遠藤が描くイエス・キリストは、とにかく無力なのです。奇跡も癒しも何もできない。ただ傍にいて看取るだけ。今の私とは随分と違った理解です
が、こんな言葉が記されていました。「生きている時には何もできなかったイエスのために、なぜ弟子たちが後半生あれほど身を捧げたのか、俺にはまだ解けないんだ。……これ
は聖書の一番、大きな謎だよ。……俺が事実のイエスを探れば探るほど、そのイエスは、みじめな、見すぼらしい男だった。たしかだよ。そのイエスが、どうして神の子とみられ
たのか」。作中の登場人物を通して語られた言葉です。
確かに、私もイエスさまの無力さを感じた一人です。無力とはちょっと違うかもしれませんが、助けてはくれない、救ってはくれない、といった失望感は同じでしょう。
息子の時です。救って欲しかった。癒して欲しかった。生きながらえさせて欲しかった。そのために、真剣に祈った。しかし、願いは叶えられなかった。失望した。怒りをぶつけ、のたうちまわった。あんな辛い思いは二度とごめんです。
しかし、信仰を止めようとは、捨てようとは思いもしなかった。むしろ、心のうちにある一つのことに気づかされていきました。もっと神さまを信じたいのだ、と。もし、願った通りのことが起こったら、どうだったろうか。私は、信仰を無くした自信があります。少なくとも、今のようではなかった、と思う。つまり、喉元過ぎればなんとやら、です。
イエスさまが私の願いを叶えるだけの存在だとしたら、それはもはや従う存在ではない。私のパシリに過ぎない。そんな方に本当の意味で希望を託せるだろうか。そういう意味では、私は「自分を捨て」ました。捨てさせられました。自分の願いを叶えることばかりを求め、それを要求し、叶わなければ悪態をつく、それが当然の権利であるかのような自分を、もちろん完全ではありませんが、捨てることができた、捨てさせていただいた。だから、そんなことで左右されない希望、命に生かされることができた、と思います。
イエスさまはペトロに、「サタン、引き下がれ」と言われました。「引き下がれ」、これは後ろにまわれ、という意味です。私の前に立つな、ということです。そうではなくて、弟子なら弟子らしく、私の後ろからついてこい、ということです。
イエスさまはペトロに、「サタン、引き下がれ」と言われました。「引き下がれ」、これは後ろにまわれ、という意味です。私の前に立つな、ということです。そうではなくて、弟子なら弟子らしく、私の後ろからついてこい、ということです。
確かに、ペトロは善意そのものだった。イエスさまを愛すればのことだった。しかし、結局は、イエスさまを無視し、自分の思いを押し付け、思うようにならなければ不満をぶちまける、そんな自分本位の善意、愛に他ならなかった、と思います。そんなものからは、本物は出てきません。いくら自信満々にしていたとしても、結局はイエスさまを裏切るだけです。自分の身の方が可愛いのです。そして、失望だけが残ることになる。それでは、滅びと同じです。
でも、そうではない。イエスさまは人からどう思われようと、ご自身の使命を貫かれます。それが、神さまのご計画だから。それが、私たちの救いとなるから。だから、不幸さ
え厭わない。そして、そんな不幸の極みとも言える十字架と復活があったからこそ、弟子たちは真にイエスさまの後ろに従うことができた。自分を捨て、自分の十字架を背負っ
て。それが、謎の解明でなくてなんでしょう。
でも、そうではない。イエスさまは人からどう思われようと、ご自身の使命を貫かれます。それが、神さまのご計画だから。それが、私たちの救いとなるから。だから、不幸さ
え厭わない。そして、そんな不幸の極みとも言える十字架と復活があったからこそ、弟子たちは真にイエスさまの後ろに従うことができた。自分を捨て、自分の十字架を背負っ
て。それが、謎の解明でなくてなんでしょう。
いくら私たちにとって理解しやすい、受け入れやすい姿を描いても、この謎は決して解決しない。そうではなくて、自分を捨て、イエスさまの後ろに従うからこそ、謎が謎でなくなり、むしろ真理へと、命へと私たちを導くのだと思うのです。納得を超えて、です。イエスさまだからこそ、です。そのことを、もう一度、この四旬節に心に刻んでいきたいと思います。
祈ります。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。この四旬節第2主日もあなたの恵みの中、敬愛する皆さんと共々に礼拝の恵みに与ることができましたことを感謝いたします。イエス
さまは私たちのために苦難の道を歩んでくださいました。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。この四旬節第2主日もあなたの恵みの中、敬愛する皆さんと共々に礼拝の恵みに与ることができましたことを感謝いたします。イエス
さまは私たちのために苦難の道を歩んでくださいました。
しかし、それは、決して自明なことではないのでしょう。私たちもまた、あの弟子たちと同様に、常に誤解をしてしまうものです。
どうぞ、自分を捨て、イエスさまの背後に周り、その後ろからイエスさまの御跡をついていくことができますように。真の自由と命に至る道へと私たちを導いてください。
私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
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