2024年11月17日日曜日

11月24日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝のご案内

  諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

私たち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。












つらいことがある方や、誰かに話を聞いても
らいたい方、このページの下の「コメントを
投稿」にご連絡ください。秘密は守ります。
お電話を希望する方は、
090-6461-5960(牧師直通)です。
名乗っていただかなくても大丈夫です。
キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。










★ 主日の祈り

全能・永遠の神様。

あなたは愛する御子に油を注ぎ、永遠の王なる大祭

とされました。

罪のゆえに分かたれた地上の民を、御子イエス・

キリストの愛の支配で一つにしてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)ダニエル書

       7章9節~10節、13節~14節                                                  

(新約聖書)ヨハネの黙示録 

       1章4節b~8節

(新約聖書)ヨハネによる福音書    
       18章33節~37節

「わたしは真理について
証しするために生まれ、
そのためにこの世に来た。
真理に属する人は皆、
私の声を聞く。」








「 真理について証しするお方 」

          浅野 直樹 牧師



2024年11月10日日曜日

11月17日(日)聖霊降臨後第26主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

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★ 主日の祈り

全能の神様。

あなたの御旨は、救いを為しとげることです。

この世の騒ぎのただ中にも、御国が来て、御心

が成ることを信じて、信仰のうちに堅く立つこ

とができますように助けてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)ダニエル書

       12章1節~3節                                                  

(新約聖書)ヘブライ人への手紙 

       10章11節~25節

(新約聖書)マルコによる福音書    
       13章1節~8節


人に惑わされないように気をつけなさい。










「 惑わされないように 」

          浅野 直樹 牧師


2024年11月3日日曜日

11月10日(日)聖霊降臨後第25主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

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★ 主日の祈り

神様。

憐れみはあなたの全能の力です。

私たちにあなたのあふれる恵みを与え、約束に

信頼し、キリストの宝を世界中の人たちと分か

ち合うことができますように、導いてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)列王記 上

       17章8節~16節                                                  

(新約聖書)ヘブライ人への手紙 

       9章24節~28節

(新約聖書)マルコによる福音書    
       12章38節~44節

「はっきり言っておく。
この貧しいやもめは、
賽銭箱に入れている人の中で、
だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、
この人は、乏しい中から
自分の持っている物をすべて
生活費を全部入れたからである。」











「 ちゃんと見ておられる 

          浅野 直樹 牧師




2024年10月27日日曜日

11月3日(日)全聖徒主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

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★ 主日の祈り

全能の神様。

あなたは、御子イエス・キリストの聖なるからだへ

とあなたの民を紡ぎ、一つとしてくださいました。

あなたを愛する私たちに、信仰と献身を貫いた聖徒

たちに倣い、備えられた言い尽くせない喜びに与ら

せてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書

       25章6節~9節                                                  

(新約聖書)ヨハネの黙示録 

       21章1節~6節

(新約聖書)ヨハネによる福音書    
       11章32節~44節

「ラザロ、出て来なさい」
と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、
手と足を布で巻かれたまま出て来た。












「 死者を呼び起こす方 

          浅野 直樹 牧師

2024年10月20日日曜日

10月27日(日)宗教改革主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

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10月27日は宗教改革主日です!

宗教改革とは・・・?
 ローマ教皇がドイツにおいて贖宥状を発売したことに
対して1517年、ルターが『95カ条の論題』を発表
して批判したことからドイツの宗教改革が始まりました。
ルターは「信仰によってのみ義とされる」(信仰義認説)
と説き、その理念はローマ教会の「信仰と善行によって
救済される」という教義とするどく対立することとなり、
ドイツは大きな混乱に巻き込まれました。
 時の神聖ローマ皇帝カール5世は1521年のヴォル
ムス帝国議会でルターに教義撤回を迫りましたが拒否さ
れたため、ヴォルムス勅令を発してルターを異端と断定、
追放に処しました。
 ルターはザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、聖
書のドイツ語訳を完成させました。『聖書』やルターの
主著『キリスト者の自由』は、活版印刷によって民衆の
間に新しい宗教観を浸透させることとなりました。


★ 主日の祈り

恵み深い父なる神様。

聖なる公同の教会のために祈ります。

教会をあらゆる真理と平和で満たしてください。

御子イエス・キリストのゆえに、堕落したとき

きよめ、誤ったときは道を示して改革し、正しい

ときに強めてください。欠けているときには補い、

分裂したとき、再び一つにしてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)エレミヤ書

       31章31節~34節                                                  

(新約聖書)ローマの信徒への手紙 

       3章19節~28節

(新約聖書)マタイによる福音書    
       11章12節~19節


ドレスデンドイツの聖母教会前のマルティン・ルター像


知恵の正しさは、その働きによって証明される。




「 改革は続く 

          浅野 直樹 牧師

2024年10月13日日曜日

10月20日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

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★ 主日の祈り

王なる神様。

あなたは、すべての民の救いのために、御顔を向

けてくださいます。

御国に喜び仕える僕として、絶えず御心だけを望

むことができますように強めてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書

       53章4節~12節                                                  

(新約聖書)ヘブライ人への手紙 

       5章1節~10節

(新約聖書)マルコによる福音書    
       10章35節~45節

あなたがたの中で偉くなりたい者は、
皆に仕える者になり、
いちばん上になりたい者は、
すべての人の僕になりなさい。










「 謙遜を学ぶ 

          浅野 直樹 牧師


 何週間か前に、弟子たち同士が「誰が一番偉いか」と論争をしていたという箇所から学んでいきましたが、この時も「受難予告」(第二回目の)の直後のことだったと聖書は記しています。イエスさまがご自分の身にこれから起こるであろう苦しみ・ご受難の話をされたにも関わらず、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いだろうか」と論じ合っていた。さすがに弟子たちにとっても、ちょっと気まずかったのでしょう。イエスさまからそのことを問われた時に、彼らは「黙っていた」と言います。堂々と言えないようなことを、密かに論じ合っていた。それに対してイエスさまはこう答えられた。マルコ9章35節、「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」。さすがに弟子たちとしても、イエスさまからそんなふうに言われたものですから、その後はこのような「誰が一番偉いか」論争は影を潜めていた、と思われます。影を潜めていた。表面的にはもうその話題は出なかった。しかし、どうやら、先ほどのイエスさまのお言葉で納得できた、弟子たちの気持ちがすっかり晴れ渡ったわけではなかったようです。そうか、一番を目指すなら、イエスさまがおっしゃったように、仕えることに徹しよう、とは思わなかった。むしろ、心の奥底に野望を隠し持って、その機会を虎視眈々と狙っていたようにも思われます。それが、今日の日課です。
 ここでヤコブとヨハネはイエスさまのもとに進み出て、お願いをします。「『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」。「栄光をお受けになる」とは、権力を手中に収めるということでしょう。少なくとも、この時点では彼らはそう考えていた。いづれ我らの先生は当時の指導者・権力者たちもローマの力さえも凌駕して、権力を手にお入れになるに違いない、と。その暁には、イエスさまに次ぐ地位を、ナンバー2、ナンバー3の地位をいただきたい。そう願い出たわけです。
 このヤコブとヨハネ、35節に「ゼベダイの子」とありますように、実の兄弟です。どちらが兄で弟であるのか、正確には分かりませんが、聖書が記す順番を考えますと、おそらくヤコブが兄でヨハネが弟であると考えられています。しかし、その序列はあまり気にしていなかった。兄がナンバー2で弟はナンバー3にしてください、とは願わなかった。とにかく、兄弟二人でイエスさまに次ぐ地位が欲しかった。おそらく、競合相手と思われるペトロにも兄弟がいたからです。アンデレです。このアンデレについては、聖書は目立った記述をしていませんが、ペトロといえば、誰もが知る弟子集団の代表格のような人物です。三羽烏といった言葉もありますが、12人の弟子たちの中でも、このペトロとヤコブとヨハネは特別扱いをされていたことが分かります。ひょっとしたら、ヤコブとヨハネ兄弟はペトロを、あるいはペトロ兄弟をライバル視していたのかもしれません。だから、一早くイエスさまの言質を頂くために、ペトロ兄弟の様子を伺いながら、そのタイミングを見計らって、今しかない、と日課のような申し出をしたのかもしれない。しかも、聖書はまたもや、この申し出はイエスさまの「受難告知」(第3回目の)の直後に行われた、と記していきます。弟子たちの心がいかにイエスさまから遠く離れていたか、をこれでもかと記していく。
 この二人の行動に対して、他の弟子たちはどのような反応をしたか。41節、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」。よくも「抜け駆け」したな、です。つまり、他の弟子たちも同じ穴のムジナということです。大差ない。ここに、弟子集団の中にも権力闘争が起こっていた、と見ることもできるのではないか、と思う。人間というものは、とつくづく思い知らされる想い、です。
 そんな弟子たちの様子を見て、イエスさまはこう言われた。「『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。』」。最初に言いました、何週間か前に学んだ「誰が一番偉いか」論争の時に語られたものと内容的には大差ない、と思います。同じことを語られた、と言っても良い。つまり、弟子たちはイエスさまに再び同じことを言わせた、ということです。いいえ、私たちは何度も何度もイエスさまに同じことを言わせているのかもしれない。それほどに、私たちは自分たちの思いを、考えを、理屈を変えることが難しいのです。それが、私たち人類の性ともいえる。だから、イエスさまは諦めずに、呆れずに、何度も何度も必要なことを私たちに語り聞かせてくださるのかもしれない。この弟子たちのように。
 イエスさまはこうおっしゃいます。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。」。この世の中では、それが最善とは言い難いが、一般的な理(ことわり)があるのも事実。支配者が民を支配したり、偉い人たちが権力を振るったりしていることも否定できない。それらは実際に、現実に起こっている。「しかし、あなたがたの間では、そうではない」と言われている。そうであってはならない、と言われているようにも思う。それを私たちは忘れてはいけないのだ、と思うのです。私はこう思う。教会とは、この世の価値観だけで全てが染まりきってしまわないためにも存在しているのではないか、と。権力に対してもそうです。残念ながら、日本の教会のような弱小の存在では、社会にそれほど大きな影響力を発揮できないでしょうが、それでも、教会から、私たちから、世の中に、この現実世界の中に、浸透させていける、していくべきものがあるのではないか。せめて、私たちの間だけでも。
 今、私たちの国、日本でも、アメリカでも選挙の季節となっています。権力闘争真っ只中、といってもいいでしょう。果たしてどんな人が選ばれるのか、大変気になるところです。これはあくまでも個人的な見解ですが、私自身は以前の岸田首相も今の石破首相も大変期待していました。それまでの安倍路線を変えてくれるのではないか、と。しかし、蓋を開けてみれば、そうはならなかった。今の石破さんも随分と今まで言ってきたことと違うではないか、とその路線変更に批判が集まっているようです。確かに、石破さん自身がおっしゃっておられるように、組織の長になった以上、持論ばかりではなく周りの人々の意見にも耳を傾けなければならなくなるのでしょう。そうでなければ民主主義は壊れてしまい、下手をすれば独裁になってしまう。確かに、強烈なリーダーシップは、物事を劇的に、またスピーディーに変えることができるのかもしれない。しかし、ロシアをはじめきな臭い国々の独裁性が改めて危険なものであることを私たちは嫌というほど知らされてもいます。いずれにしても選挙の時だけ下手(したて)に出るのではなくて、公僕の・公に尽くす精神を一人一人の議員たちが忘れないでいただきたい、と切に願っています。
 そもそもが間違っていました。3度「受難予告」を聞いた弟子たちは、徐々にただならぬことが起こるかもしれない、と感じ取ってはいったと思いますが、しかし、彼らはイエスさまの本質を見極められずにいたからです。あくまでも権力としての「栄光」から離れられずにいた。しかし、イエスさまが受けられる栄光とは、十字架(受難)と復活なのです。だから、彼らは分かってもいないのに、呑気にこんなことさえもいう。わたしが受けるべき杯と洗礼を受けることができるか、と問われた時に、「できます」と。これは、ゲッセマネの祈りの時に、イエスさまさえも避けたい、と願われた受難の印です。それを、彼らは「できる」と簡単に言ってのける。しかし、その結果どうなったかはお分かりのとおりです。イエスさまを見捨てて逃げてしまう始末。しかし、それにも関わらず、イエスさまはこう語られる。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」と。使徒言行録を見てみますと、ヤコブは殉教の死を遂げたことが分かります。ヨハネは良くは分かっていませんが、それでも、たとえ殉教はしなかったとしても、やはりイエスさまの弟子ということで、さまざまな苦難を経験してきたことでしょう。つまり、ここでイエスさまが語られたように、彼らもいずれはイエスさまの杯と洗礼を受けることになる。しかし、それは、あくまでも十字架と復活を経た後です。イエスさまの受難と復活の出来事を経験した後に、ようやくイエスさまの栄光が何たるかを知ることになる。
 今日の旧約の日課は、言わずと知れた「苦難の僕」と言われるものです。では、実際にこの「苦難の僕」は誰を指すのかといえば、これを書いた第二イザヤと言われる預言者自身だとも言われますが、教会はこの苦難の僕こそイエスさまのお姿だと受け止めてきました。4節、「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」、11節、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」、12節、「多くの人の過ちを担い 背いた者のために取り成しをしたのは この人であった。」。この方の栄光を見た。この方の救いの、恵みのみ業を味わった。まさに、この方が、神の子が、この罪深い私のために命を投げ出してくださった。こんな私にも仕えてくださった。だから。ここから始まる。いいえ、ここからしか始まらない。
 私たちはこの弟子たちのように、いいえ、弟子たち以上に頑固に自分を変えたがらない者です。だから、単に一度二度聞いたからといって、私たちの姿勢は変わらない。それもまた、事実。だからこそ、です。イエスさまは諦めずに、何度も何度も繰り返し語ってくださる。何度も何度も本当のご自分の栄光の姿を表してくださる。私たちのために命を捧げてくださった十字架の姿を。死という現実を打ち破ってくださった復活の姿を。だから、私たちも変わっていける。少しづつかもしれないけれども、イエスさまと同じように仕える者になっていきたい、と願わされていく。それが、この世界を、それこそほんの少しづつかもしれないけれども、変えていくことになるのかもしれない。2000年という教会の歴史の中で、確かに過ちも多かったけれども、そういった事実にも、そういった人々にも出会っていける。歴史にも名が残らない無名な人々の中に。私たちの中に。そうではないでしょうか。
 
祈ります。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。今日も敬愛する皆さんと共々に礼拝に招いてくださり、御言葉の前に立たせてくださいましたことを感謝いたします。私たちはイエスさまから目を逸らしては何もできません。すぐにでも道から外れてしまい、過ちに陥りやすい者です。どうぞ憐れんでください。常に、イエスさまに心を向け、また心を開いて、イエスさまがこの私に、私たちに何をしてくださったかを思い起こしていくことができますように。また、そんな恵みを受けた私たちに何を期待されているかを諭っていくことができますように、お導きください。どうぞ、イエスさまがこの私たちにしてくださったように、互いに仕え合っていくことができますように、そのことを通しても、私たちがイエスさまの弟子であることを世が知っていくことができますようにお導きください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」


2024年10月6日日曜日

10月13日(日)聖霊降臨後第21主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

私たち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。












つらいことがある方や、誰かに話を聞いても
らいたい方、このページの下の「コメントを
投稿」にご連絡ください。秘密は守ります。
お電話を希望する方は、
090-6461-5960(牧師直通)です。
名乗っていただかなくても大丈夫です。
キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。










★ 主日の祈り

全能・永遠の神様。

後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

終わりの日に永遠の喜びの冠を授かるために、

私たちの信仰の賜物を増し加えてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)アモス書

       5章6節~7節、10節~15節                                                  

(新約聖書)ヘブライ人への手紙 

       4章12節~16節

(新約聖書)マルコによる福音書    
       10章17節~31節


子たちよ。
神の国に入るのは、
なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るよりも、
らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。









「 神の国に入るためには 

          浅野 直樹 牧師


 今日の福音書の日課も、皆さんもよくご存知の物語だと思います。ある一人の人物がイエスさまを訪ねて来まして、跪いて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と。

 先週の日課は、離縁についての問答でしたが、この時にはイエスさまのもとに訪ねてきたファリサイ派の人々がイエスさまを試すために、つまり悪意と言いますか、少なくともイエスさまの不利益となることを望んでの問いだった訳ですが、今日の「ある人」の場合は「ひざまずいて」とあるように真剣な問いであったことが分かります。
 では、この人がそれほどまでに真剣に聞きたかった「永遠の命」とはどのようなものなのか? この先でイエスさまが、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と語られたり、あるいは弟子たちが、「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と語ったことからも分かるように、「神の国に入る」ことと「救われる」ことと同類のことです。つまり、永遠の命とは、神の国に入ることと救われることと同義ということ、不可分なことということです。そこには当然、死という現実をいかに乗り越えていけるのか、といったことも含まれている。
 旧約聖書に『コヘレトの言葉』(出だしから「コヘレトは言う。空の空 空の空、一切は空である。」とはじまっていくような)という一風変わった書がありますが、ではなぜそれほど「虚しさ」が強調されるのか、といえば、結局誰もが最後は死んでしまうからです。どれだけ人生の中で成功をおさめた人であっても、名声を得た人であっても、普通の人でも、正しく生きてきた人であっても、罪に手を染めてきた人であっても、結局は皆同じように死を迎えるだけではないか、結局変わらないではないか、それが現実ではないか、だとしたらこの世は何と虚しいことか。少なくともコヘレトはそうとらえている。
 以前もお話ししましたように、60歳を間近にひかえ、また今回持病の悪化で、自分の人生の終わり、死というものをどうしても考えざるを得ませんでした。そこで改めて感じることは、あのコヘレトが言うように、結局は最後が死でしかないならば、何とこの人生とはむなしいものだろうか、ということです。しかし幸いなことに、私たちは死に打ち勝つ命、永遠の命をすでに得ている。神の国に入ることが約束されている。イエスさまによって救われている。それは、何と幸いなことだろうか。しかし、残念ながら、誰も彼もがその虚しい現実を直視しているわけではないし、ましてやそこからの救い、解放を求めているとは言い難い現実もあるのではないか。
 そういう意味では、この人はそんな永遠の命を真剣に求めた人でした。彼はどうやら大変な資産家・金持ちだったようです。生まれた時から恵まれた、それこそ何不自由なく育って来たことでしょう。周りの友達ともちょっと違うと自覚しながら成長して来たのかもしてません。まさに羨ましがられるような人生です。順風満帆とも言える彼が、ではなぜそれほどまでに永遠の命を求めていたのか。しかも死の現実を見つめざるを得なくなったような年齢でもなかった。この人のことをよく「富める青年」などと言われたりしますが、まだ20代前後だったのかもしれません。しかも彼はイエスさまに言われた戒めを子どもの頃から守って来た、といっています。この子どもとは、先週のイエスさまに祝福していただいた「幼子」ではなくて、少年といっていい、ある方は小学高学年か中学生くらいといっていますが、おそらくちゃんと律法を教えられるようになってからずっと守って来た、ということでしょう。その頃の自分を考えますと大したものです。
 これは想像でしかありませんが、おそらく幼少の頃に身近な存在の死を、おじいちゃん・おばあちゃんだったかもしれない、あるいは両親のどちらかだったかもしれない、ともかくショッキングな死を、看取りを経験したのかもしれません。そこで、たとえ周りの人々が羨むような生活をしていたとしても、結局は恐ろしい死を迎えなければならない恐怖感に圧倒されたのかもしれない。だから、まだ年少であったとしても、猛烈に死の現実を克服する永遠の命を求め続けて来たのかもしれません。でも、いくら頑張って来ても、何年も何年も熱心に取り組んできても、確信を、平安を得られなかった。だから、イエスさまのことを聞きつけて、血相を変えてやって来たのではない、と思うのです。
 彼は真面目でした。熱心でした。私たちが見習うべきほどに、です。しかし、それだけでは、ダメなのです。残念ながら、それだけでは救われない。
 私はこの青年の姿を見るとき、かつてのルターの姿を思い浮かべます。ルターもまた命の危険を感じて救われるために修道院入りを決意しました。ご存知のように青年ルターは大学の法学部に所属しエリート街道まっしぐらだった訳ですが、親の反対を押し切って修道院に入ったのです。当時の理解では、それが救われるためには最善だと思われたからです。ルターにとってもそれほどの抜き差しならない差し迫った問題だったからでしょう。ルターもまた人一倍真面目に修道院生活に打ち込みました。戒律をしっかり守り、修道士に課せられた義務を果たし、人一倍に修練を積み重ねていった。その典型的なことの一つが告解です。当時、告解が罪の赦しに必須と考えられていた。ルターは人一倍罪の自覚に敏感だったので、日に何回も告解を受けました。担当司祭がもっと大きな罪を犯したら来るように、と告げるほどに。それは、救われるためです。永遠の命を得るためです。神の国に入るためです。しかし、どれほど努力を積み重ねても、いいえ、むしろ努力すればするほど罪の自覚ばかりが強くなって、赦しの確信が、平安が得られなくなった。途方に暮れていきました。そんな中当時の上司の勧めもあって聖書に取り組むようになった。そして、福音の再発見にたどり着くことになった。救いは自分の力で勝ち取るようなものではなくて、神さまが与えてくださる一方的な恵みに信頼して頼ることによって与えられるものだ、と。つまり、「信仰義認」(江口再起先生によるところの「恩寵義認」)です。
 かつてのルターもそうだった。この人も、動機もその熱意も間違ってはいなかったかもしれませんが、方法が間違っていたのです。それは、自分自身を頼りにしている、ということ。つまり、自分で何とかしようとしたところです。だから、いろいろなことに縛られて、自由を奪われてしまっていた。にもかかわらず、いや、むしろ、だからこそ平安を、確信を得ることが出来ずにいた。これをせよ、あれをせよ、こうしなければ、ああでなければ、とがんじがらめになり、急き立てられるだけだからです。この人も少年時代から急き立てられるように律法を守って来たのでしょう。それほどこの人にとって永遠の命を受け継ぐことが重要だったのです。だからイエスさまの問いかけにも、「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました(協会共同訳)」と自信満々に答えることが出来たのだと思います。これもまた、なかなか出来ないことだと思う。
 イエスさまは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」と言われ、弟子たちが大変驚いた、といいます。なぜなら、今聖書を読み祈る会(甲府教会)でヨブ記を読んでいますが、そこでもたびたび話していることですけれども、旧約の基本的な考え方は、祝福と呪にあるからです。神さま・律法に従っているものには祝福が、背いているものには呪いが、ということです。つまり、金持ちというのは、この世で神さまから祝福を頂いている人々と思われている訳ですから、そういう人々こそ神の国に一番近い、救われる可能性が一番高いと思われていたからです。だから、弟子たちはイエスさまの常識破りな話に驚いた。しかし、イエスさまはそんな弟子たちにこう語られた。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」。そうです。神さまにおできにならないことはない。つまり、神さまだけを頼れば良い、ということ。逆にいえば、神さま以外のものに頼る必要がない。もっと言えば、神さま以外のものを頼ってはならない、ということです。ここに気づいたのが、先ほど言いましたルター。そして、この事実に気づいた者だけが、自由と確信と平安を手にすることができる。こだわりまくったルターが、その一切を手放して、それらを手に入れたように。なぜなら、永遠の命とは、神の国とは、イエスさまが与えてくださる救いとは、そういったものだからです。
 聖書は必ずしも富を否定していません。先ほど言いましたように祝福の象徴でもある。また29節で捨てるように言われている「家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑」も大切なもの、神さまが与えてくださった賜物に違いない。しかし、それらが私たちをがんじがらめにして、支配してしまって、神さまを見えなくしてしまっては、その恵みを、力を、気づかせなくしてしまっては、神さま以上に信頼を寄せ、頼るようにしてしまっては、自分の最後の拠り所としてしまっては、本末転倒となってしまう。
 今日のこの人を、イエスさまは決して拒絶されていません。こう記されている。21節、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」。この人を愛された、ということです。そして、この人に従ってくるようにと招かれた。しかし、ご存知のように、この人は去っていってしまった。多くの財産を持っていたからだ、と。でもある方は、この時は確かにそうだったかもしれないが、のちにイエスさまの十字架と復活の出来事を聞いて、イエスさまの言わんとしていたことを理解して、信仰に入ったのではないか、とおっしゃっている。なぜなら、イエスさまはなおもこの青年を愛しておられたからだ、と。私もそうだといいな、と思っています。
 いずれにしても他人事ではない。ひょっとして私たちも、この人以上に手放したくないものを後生大事に握りしめているのかもしれない。それが自分を救うことになるのだ、と。そうではない。私たちを救うことができるのは、神さまだけです。私たちの愛する人々、大切なものを救うことができるのも神さまだけ。そのことを忘れてしまっては、どんなにいいことをしても、熱心でも、家族を大切にしていても、本末転倒になってしまうのではないか。結局この人のように、あれだけ求めていても手に入れられない、せっかく招かれていても悩みつつ去っていってしまうことにならないだろうか。そのことをもう一度問われているように思います。
 
祈ります。
「天の父なる神さま。御名を賛美いたします。今日も御言葉によって気づきを与えてくださったことを感謝いたします。私たちは、この人のように多くの財産は持っていないかもしれませんが、自分自身のことも含めてあなた以上に頼るものを内に秘めていることを思います。それでいて、この人のように、確信を持てずに、いつも不安な中を彷徨っているのかもしれない。どうぞ憐れんでくださり、あなたこそが頼るべき方、救いを与え、神の国に招き、永遠の命に生かしてくださって、平安と喜びと真の自由を与えてくださる方であることをますます知らせてくださいますように、信頼を寄せていくことが出来ますようにお導きください。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」