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★ 主日の祈り
神様。
世のために苦しみの道を選ばれた御子に感謝し
ます。御子に倣って私たちが己を低くし、従順
の道を歩み、あなたの戒めに従うことができる
ように力を与えてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
(旧約聖書)エレミヤ書
15章15節~21節
(新約聖書)ローマの信徒への手紙
12章9節~21節
「イエスさまに付いて行くということ」
浅野 直樹 牧師
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
今朝の福音書の日課は、いわゆる「受難予告」と言われる箇所です。先週は、ペトロの信仰告白の場面を見てまいりました。ペトロは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエスさまからの問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派な信仰告白をいたしました。そのペトロの信仰告白をイエスさまは大変に喜ばれ、その告白の上に教会が建てられる、と言われるほどでした。しかし、今朝の箇所では、その舌の根も乾かないうちに大失態をしてしまいます。イエスさまの受難予告を聞いたペトロがそれを諌(いさ)めたからです。先ほどの祝福とは打って変わって、「サタン、引き下がれ」と言われてしまうほどに、イエスさまを不快にさせてしまいました。なぜ、そんなことが起こったのか。ペトロが「メシア」の意味を全く履き違えていたからです。確かに、ペトロは立派な信仰告白をしました。それは、神さまからの賜物でした。しかし、その内実について、果たしてペトロがどのように理解していたか、といえば、イエスさまの思いとは、もっと言えば、神さまのご計画とは遠くかけ離れていたわけです。ここに、私たちの信仰告白の姿を見るような気もいたします。
私たちもまた教会を訪れ、いろいろな経験を経て、信仰告白へと至りました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。しかし、どこまで分かっていたのか、と言えば、心もとない限りです。特に、受難…、十字架の意味など全く分かっていなかったのかもしれません。もっとも、受洗前教育などで教えとしては理解していたとしても、自分のこととして、その出来事がどれほどこの私にとって決定的な意味を持つ出来事であったか、といったことには、なかなか気づけていなかったのかもしれません。そういう意味では、私たちもまた、イエスさまから「サタン、引き下がれ」と言われてしまう者であったのかもしれない。それでも、やはり今朝の箇所を読んでいきますと、そんな不甲斐ない信仰告白であったとしても、意味があるように思わされます。21節でこう語られているからです。「このときから」。今日の箇所を含めて、マタイによる福音書には3つの受難予告が記されています。もっと正確にいえば、受難・十字架と復活の予告です。つまり、私たちキリスト者にとっての肝心要の教えが、この時からなされた、ということです。この信仰告白の前には、そのことは一切伏せられていた。つまり、後に「サタン、引き下がれ」と言われてしまうような不理解なペトロの信仰告白であったとしても、その告白がなければ受難と復活の教えは出てこなかった訳です。たとえ不完全であっても、十字架と復活の意味が全く理解できていなかったとしても、この「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白からはじまっていった。しかも、その告白を与えてくださったのも、神さまに他ならない訳です。それもまた、私たちの信仰告白の道筋ではないか。その信仰告白を確かなものとしてくださるためにも、まず神さまの恵みによってその告白へと導かれ、その告白の意味するところを十二分に理解する歩みへと導いてくださるのではないか。そうも思うからです。
ペトロはなぜこのとき、「サタン、引き下がれ」などと言われてしまったのか。先ほども言いましたように、受難を予告されたイエスさまを諌めたからです。しかし、それが、どうしてそれほど悪かったのか。実は、私たちにも良く分からないのだと思う。なぜならば、ペトロとしては良かれと思ってやったことに過ぎないからです。ペトロなりにイエスさまのことを慮(おもんぱか)ってのことだったからです。ペトロなりの親愛の情から生まれたものだったからです。
現在、来年の大統領選に向けて、徐々に熱がこもってきているようですが、自分が心酔し押す大統領候補がもし弱気な様子を見せたならば、「何弱気になってるんですか。大丈夫です。あなたならやれます。もっと堂々としていてください」と励まし、発破をかけないでしょうか。それと同じことをペトロはやっただけです。イエスさまをメシア・救い主と信じて止まなかったからです。しかし、それこそが間違いなのです。ここで非常に重要なことが語られている。「神のことを思わず、人間のことを思っている」と。私たちの間違いの原因は、大抵がここにかかっていると言っても言い過ぎではないでしょう。私たちは神さまのことを誤解している。何が本当に正しいことなのかも分かっていないのかもしれない。そして、悪魔のことも誤解しているのかもしれない。この悪魔のことを知りたければ、C.S.ルイスの『悪魔の手紙』を読まれたら良いと思います。ともかく、悪魔は私たちが想像するような毒々しい存在というよりも、いかにも善良そうにして近づいてくるのです。そして、私たちを神さまから引き離そうとする。もし、このペトロの提案通りにイエスさまが十字架の死と復活を辞めてしまわれたなら、それこそ人類の救いはありません。一見良さそうな、イエスさまのことを慮った提案のように思えても、文字通り、ペトロは人類の敵、悪魔になってしまうのです。しかし、当の本人はそんなことはちっとも思っていないのです。自分の心配が当然だと思っている。自分がちゃんとイエスさまを補佐して、その道筋を正してあげなければと思っている。これは、愛から生まれていることだ。善意から生まれていることだ。だから、間違うはずがない。ペトロは自分の信仰告白に確信をもってそうしたに違いないのです。しかし、その実は、善意のはずが、愛から出たはずが、神さまのご計画を破壊することになり、人類を救うというイエスさまの思いを踏みにじることになり、人類の救いの道を閉ざしてしまう人類の敵にさえなってしまいかねなかったわけです。それは、十二分に私たちも肝に命じておかなければならないことだと思う。なぜならば、私たちもペトロも全く同じだからです。自分ばかりを、人間ばかりを見ているからです。あなたは「神のことを思わず、人間のことを思っている」。私たちも、この過ちに真に気づき、戒めなければならない。
24節以下の自分を捨てよ、自分の十字架を背負え等の言葉も、このことを抜きにしては、おそらく理解しえないでしょう。「人間のこと」、つまり、私たち自身の思いとは全く正反対のことを言っているようにしか思えないからです。私たちは自分で自分の命を守ることこそ最良の道だ、と思っている。だから、何よりも自分を大切にしようとするわけです。しかし、本当にそれで人が幸せになれるのか、といえば、私はそうは思いません。私自身のことも含めてですが、多くの悩み相談などを受けると、大抵自分を苦しめているのは、当の自分自身だということが多いからです。自分自身に縛られているからこそ、生きにくくしていることが多い。自分の過去に、自分の性格に、自分の経験に、自分の考えに、自分の感覚・感性に、自分の生い立ち・生育歴に、自分の問題性に本当に人は縛られている。そこから解放されることは至難の技です。
私たちとは逆に、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことと正反対の生き方をされたのがイエスさまでした。「自分を捨て、自分の十字架を背負」われたのも、何よりもイエスさまご自身でした。イエスさまはご自分の命においてさえも自由でした。神さまの御手に一切を委ねておられたからです。だからこそ、イエスさまは命を得ていた。真の自分を持っておられた。真の自由の中を生きることがおできになった。
イエスさまは「わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいます。命とはもちろん、私たちにとって最も大切なものです。私の存在自体と言い換えても良いでしょう。そして、本来の私とは自由な存在である。自分自身の命に雁字搦めになるならば、かえって自分に縛られて真の自由を奪われてしまうことになってしまいますが、——それは命を失うと言っても良いでしょう——イエスさまに命を、私たちの存在すべてを預けて、委ねてしまうならば、真の私に、真の自由な私になっていける。それが、命を得る、ということでもあるのではないか。そう思うのです。
確かに、ペトロは大変な叱責を受けてしまいましたが、それは、この命に招かれているが故であることを忘れてはいけないと思います。私たちも、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をいたします。しかし、それは、まだまだ不十分で、「サタン、引き下がれ。あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われてしまうような有様かもしれません。しかし、それは、見放されているのではないのです。むしろ、招かれているのです。私に命を預けよ、と。私に、お前自身を委ねよ、と。そこに、真のあなた自身の姿になり得る道筋があるのだ、と。命を得る道筋が…。その招きを大切にしていきたいと思います。また、それが、イエスさまに付いて行く、ということになるのではないか。そう思うのです。
「憐れみ深い私たちの天の父なる神さま。御名を賛美いたします。今日も礼拝に招いてくださり、み言葉を与えてくださいましたことを心より感謝いたします。今日のみ言葉も、私たちにとっては大変痛い言葉で、身につまされる思いが致しました。しかし、それは、ペトロをはじめ、この私たちをも真の命へと招いてくださるためのものであったことを覚え感謝いたします。どうぞ自分自身や人間に囚われ過ぎるのではなく、イエスさまを見習って、あなたにこそ心を向け、真の自由を得て行くことができますように、弱い私たちをどうぞお導きください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」