2023年1月22日日曜日

1月29日(日)顕現後第4主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎日曜日、午後3時から始まります。

新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、

マスクを着けて、ぜひお出かけください!



本日は、信徒礼拝です。


(旧約聖書)ミカ書

       6章1節~8節                       

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一) 

       1章18節~31節  

(新約聖書)マタイによる福音書    
       5章1節~12節

心の貧しい人は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。








「 幸い 」 筑田 仁 牧師 原稿

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、

あながたにあるように。              アーメン

今日、私たちが分かち合った福音書はいわゆる山上の説教と言われるところです。先ほど読んだところをもう一度繰り返し読みます。マタイによる福音書53節から。

心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」

これまで、山上の説教を読みながら、キリスト・イエスは一体何を見ているのであろうかといぶかしんで思ったことがありました。心の貧しい人々が幸い、悲しむ人々は幸い、これらの言葉がこれまで私の心になかなか入ってきませんでした。なぜ主イエスはこのようなことを言われたのか。この山上の説教で言われていること自体が私には分からなかったのです。主イエスは軽い気持ちで、安易な思いで、心の貧しい者、悲しむ者に慰めを語られたのではないだろうかと、私はこのみ言葉に心を聞くことができませんでした。

主イエスは弟子たちをわざわざ集めてこのみ言葉を語られました。弟子たちの背後には、ユダヤの民衆がいたはずです。主イエスは、貧しい生活が骨の髄まで染みている民衆の生活をよく分かっていました。主イエスご自身も大工の仕事をして、生活の貧しさと厳しさを深く味わっていました。そのことをふまえて読んでみると、この山上の説教は決して軽い意味での慰めではなく、少し違う言葉であると思います。

主イエスが弟子たちに語られたこの山上の説教に、皆さん、「主イエスに従うならば」との言葉をつけ加えて読んでみてください。

「主イエスに従うならば、心の貧しい人々は幸いである。主イエスに従うならば、悲しむ人々は幸いである。主イエスに従うならば、柔和な人々は幸いである。」

少し読んだ後のフィーリングが変わるのです。主イエスは私たちの人生が、困難で覆われていることをよくよくご存じです。一人一人の人間の困窮した状態をふまえた上で、主イエスはあなたがもし、私、主イエスに従うならばとの思いを添えて、この慰めを弟子たちやユダヤの民衆に向けて語っているのだと私は思うのです。主イエスに従うならばとの言葉を加えて読むだけで、この言葉の真意がより伝わってくるように思います。

この人生、どのような困難を味わうとしても、主イエスが同伴してくださるならば、なんと幸せな歩みでしょうか。どのような不条理や人間関係の軋轢を味わったとしても、主イエスが共に歩みを揃えてくださるならば、なんと幸せな歩みでしょうか。

主イエス・キリストに全てを委ねて歩んでいく献身の思いで人生を生きている私たちです。このお方に従って人生の苦楽を味わうのならば、その苦楽はそもそも望むところなのです。このお方に従うのならば、貧しい人生、悲しみの人生、義に飢え渇く人生、どのような人生にも、主の慰めと、主がもたらす希望が、確かに備えられているのです。だからこそ、主に従いつつ私たちは安心してこの世の歩みを続けていきたいと思います。

主イエスに従うのならば、この歩みには必ず主の祝福が伴います。私たちは主に従い、人生のもっともっと深いところで本当の喜びを見いだしていくのです。私たちは人生を諦めることなく、前を向いて、日々の生活の深いところを見つめていき、神の祝福が、尽きることのない神の恵みが、豊かに私たちに注がれていることに気づいていくのです。

この人生、神の恵みを本当に実感することを求めるのならば、自分の過去を振り返ることが大切だと思います。これまでの人生を、これまでの自分の過去の歩みを、真摯に振り返ってみたときに、私たちは改めてこの人生に神の恵みが豊かに注がれてきたことを発見するのではないでしょうか。このことは大切なことです。神の恵みを見出そうとするならば、自分の人生のこれまでの歩みを振り返ることです。自分のこれまでの歩み、その歴史を思い返すときに、そこにこそ神の恵みが豊かに注がれていたと、私たちは気づくことができるのではないでしょうか。私は、神の恩寵を実感するためには、自分自身のこれまでの人生と生活を振り返ることが大切だと思います。

主イエスの山上の説教を今日は黙想してきました。苦労を重ねつつ歩むこの人生、主イエスに従う道を歩むからこそ、心の貧しい人々、悲しむ人々は、その人生の歩みの上で慰めを見出していくことができるのです。主イエスに従うこの道は、徹底的に神に祝福されている人生です。私たちはこれからも前を向いて、主イエスを仰ぎつつ、この人生をこつこつと積み重ねるように歩いていきたいと思います。

諏訪教会に集うお一人お一人の上に、今日も変わらぬ神の恵みと慰めが注がれますようにお祈りしております。 

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。            アーメン

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