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(旧約聖書)イザヤ書
65章17節~25節
(新約聖書)使徒言行録
10章34節~43節
(新約聖書)ヨハネによる福音書
20章1節~18節
イエスの頭を包んでいた覆いは、 亜麻布と同じ所には置いてなく、 離れた所に丸めてあった。 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、 見て、信じた。 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという 聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 |
「 復活 」 筑田 仁 牧師
≪牧師のコラム≫
~祝罪信仰へ~
「しかし、わたしたちが十字架につまずき、食材信仰を愚かなものとし、むしろ寄り添うことや共に生きることや、ありのままに認められることの方が福音だと考えるとき、わたしたちは十字架の主を手の中に置き、人間の思いで判断しています。御言葉の前にへりくだらせ、生きておられるあなたの御声を聴きとらせてください。」 小泉健著 『十字架への道』より
説教壇から力がなくなったと言われて久しい。説教者が語るみ言葉に力がないのである。この事実をどう受け止めるか。牧師には誘惑がある。語るみ言葉への誘惑である。一見、「寄り添う」ことや「共に生きる」こと、そして「あなたはありのままで受け入れられている」と、説教壇で語ることが妥当であり、福音的である、否、間違いなくこれが福音であると誤解してしまうのである。
「寄り添う」こと、それは心理カウンセラーがクライエントに語ることであろう。「共に生きる」こと、それは福祉や教育の現場の従事者が、利用者相手に語ることであろう。「ありのままに認められている」こと、これは最近流行りの言葉である。このようなヒューマニズムとキリスト教は、実は、相容れない。キリスト教は、あくまでも主イエスの十字架による罪の赦しを語ることが中心である。説教壇に力を取り戻すために、わたしたちは再びこの罪の赦しの告知に帰らなければならないと思う。これがキリスト教の原点であると思うからである。
この復活祭、あなたの心に主イエスの罪の赦しの幅員が確かに届いているであろうか・・・。
牧師 筑田 仁
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