お知らせ 短縮礼拝を再開しました!!!
(旧約聖書)創世記
2章18節~24節
(新約聖書)ヘブライ人への手紙
1章1節~4節
2章5節~12節
私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
福音書は、その名前が示していますように、私たちに福音を示しています。私たちは福音書をとおして「福音」を、「良い知らせ」を聞くことができるということです。それでは福音書が示している「良い知らせ」とは、どのようなものでしょうか。いろいろな言葉で、言い表すことが出来ると思います。
「イエス・キリストがこの世界にお生まれになったこと」を良い知らせと言うことが出来ますし、「キリストによってもたらされた罪の赦し」を良い知らせということもできます。「神が共におられる」ということも良い知らせです。福音書が伝えている良い知らせは、さまざまな言い方で表すことができるのです。たださまざまな言い方ができても、それらは神の恵みであるということを思います。そのさまざまな言い方の一つである「神の国の到来」という良い知らせを、今日は共に聞きたいと思います。
マルコの福音書(1.15)は、イエス様が宣教を開始される時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたことを記しています。また「からし種」や「種まき」を題材にして「神の国」のたとえを話されました。ですからマルコの福音書は、「神の国の到来」という良い知らせを伝えようとしていると言うことが出来るのです。
そして「神の国の到来」が良い知らせであるということは、神の国が善いところであるということです。また私たちが神の国に招かれているということを伝えているのでなければ、私たちは神の国の到来を良い知らせとして聞くことができないということも思います。
今日の福音書の日課には、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。私たちは、この言葉を私たちに向けられた良い知らせとして聞くことが出来るのでしょうか。どう思われるでしょう。
イエス様に触れていただこうとして、人々が主の許に子どもたちを連れて来たということが記されています。親が自分の子どもたちを祝福していただこうとして連れてきたということでしょう。その時、弟子たちが人々を叱ったので、反対にイエス様は弟子たちをお叱りになり、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われたというのです。
「子供のように」とはどういうことでしょう。当時子どもたちは、大人よりも劣った存在とされていたようです。大人に比べて子どもたちは、力も弱く、大人に頼らなければ生きていくことが出来ない存在です。今日でも幼い子どもたちが痛ましい虐待を受けて命を奪われたという悲しいニュースが後を絶ちません。聖書の時代も、そのような力を持たない子どもたちは、弱い立場に置かれていました。今よりも低く見られていたと言ってもよいかもしれません。
今日の箇所には、自分の子どもを祝福していただこうとした大人たちが登場していますし、病にある自分の子どものことでイエス様にひれ伏し願ったという人々も福音書には登場していますから、自分の子どもに深い愛情を注いでいた親たちも大勢いたと思います。しかし社会の中では、子どもたちは低く見られ、小さく劣った存在とされていたのです。
しかしイエス様は違っていました。少し前の箇所(マルコ9.37)では、子どもの一人を受け入れることは、主を受け入れることと同じであり、それは神を受け入れることになるのだと弟子たちに教えておられます。イエス様は子どもたちを、一人のかけがえのない大切な存在として受け入れるべきであると、力が弱いからと言って決して軽く扱われてならないということを教えられたのです。
子どものように神の国を受け入れるということは、そのように小さくされている者として神の国を受け入れるということだと考えることが出来ます。小さくされている人の立場に自分を置き、さらに自分を低くして小さくされている人を受け入れるということです。神の国は、そのようにして受け入れ合う者たちのものだということです。
それではイエス様は弟子たちに対して、そのように自分を低くすることができれば、神の国に入ることが出来るということを教えられたということでしょうか。
今日の日課の前半には、イエス様を試みるためのファリサイ派の人々の質問に答えて、主が結婚について教えられたことが記されていました。このやり取りからファリサイ派の人々とイエス様では、律法に対して根本的に違った態度をとっておられたことが分かります。
ファリサイ派の人々の質問は、律法が離縁を認めているかということです。彼らは「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言っていますし、モーセは「離縁することを許しました」と考えていました。彼らは律法で何が許されているか、罪に定められずに何ができるかということ関心を持っていたと言えます。
しかしイエス様は違います。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と言われ、また離縁についての質問に対して、神の創造の業を伝える創世記の言葉を示されました。イエス様は、律法で何が許されるかということではなく、律法を通して神が何を命じておられること、神の御心を教えられたのです。それで離縁が許されるかという質問に、結婚をとおして示される神の御心を教えられたのです。それ相手を尊ぶこと、相手を大切にするということです。
当時女性も、男性より弱い立場に置かれ、低くされていました。しかし、神の前に男性も女性も等しい者であり、お互いに尊重し合うべきことが神の御心だということです。
神の国が、善いところであるのは、そこに神がおられ、人々が神の民として、お互いに受け入れ合い、尊び合いながら、神が与えてくださる命を生きるからだと言えるのではないでしょうか。神の国でも、この世界にあるような自分を人よりも強く見せよう、大きく見せようとするような考え方が支配していたとしたら、私たちはそこを良いところと思えるでしょうか。強い者が弱い者を虐げ、搾取していくような状況があったなら、私たちは神の国の民になることを望むでしょうか。
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」、神の国が、弱い立場に置かれていた子どもたちのものであるということは、自分を低くし、弱い立場に置かれていた人を受け入れる者たちのものであるということは、良い知らせであるということを思います。
けれども最初に申しましたように、私たちがそこに招かれているのでなければ、神の国の到来は良い知らせにはなりません。私たちの心の中には、自分を人よりも大きく見せようとする思いがあります。心の中で、受け入れることを難しいと感じる人を自分より小さくしようとしたりもします。そのような私たちは「子供のように神の国を受け入れる人」とは到底言えません。
しかしだからこそ、イエス様は十字架への道を歩んでくださり、私たちの罪を赦してくださるのです。そこに良い知らせがあります。主は私たちを神の国へと招いてくださったのです。聖書はただ神の恵みによってだれもが赦しへと、神の国へと招かれていることを私たちに伝えています。すべての人に良い知らせを伝えているのです。
だからこそ、私たちは神の国の民として、受け入れ合い、尊び合いながら、神が与えてくださる命を生きることを願い、歩んでいきたいと思います。イエス様が「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マルコ12.25)と教えられた箇所がありますから、神の国が完成する時に、私たちは神の御心を喜んで行う者とされ、互いに受け入れ合うことが出来るようになると考えてよいのかもしれません。
しかし、神の国は私たちがこの世の命を終えた時になって、初めて与えられるものではないということも忘れてはならないことです。罪を赦され、神の命を与えられて生きる時に、私たちは既に神の国の民とされているのです。今はまだ神の国にふさわしくない私たちですが、それでも罪を赦され、神の国の民とされていることに感謝し、互いに受け入れ合う者となることを願い、歩み出したいと思います。良い知らせを伝える者として歩んでいきたいと思うのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
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