2020年2月23日日曜日

3月1日(日)四旬節第1主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。


お知らせ  本日の礼拝は、新型コロナウィルス感染予防の

ため中止です!!



(旧約聖書)創世記          2章15節~17節

                    3章1節~7節

(新約聖書)ローマ信徒への手紙   章12~19

(新約聖書)マタイによる福音書   4章1節~11節

「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』
とも書いてある。」と言われた。


   『 神の言葉を生きる 』 筑田 仁 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
 先週の水曜日の灰の水曜日から四旬節・受難説に入っています。主イエス・キリストの受難、その十字架での苦しみを覚える季節を迎えているのです。
 今朝、礼拝堂の聖壇の布が紫になっていることをお気づきの方もおられると思います。紫は一年に二回、クリスマス前の四週間の待降節、そしてこの四旬節・受難説に用いられます。紫という色は、昔は高貴な身分、王族が着る衣の色です。同時に苦しみや悲しみを表す色でもあります。
 四旬節は、一年間の歩みの中で、主イエス・キリストの十字架を魂に深く覚えて礼拝を守る特別な季節です。キリストの苦しみと十字架を覚えるこの時期は、灰の水曜日、先週の26日から始まり、日曜日を抜いて40日間続きます。
 教会は古くから主イエス・キリストの苦難と復活を記念するこの季節を、悔い改めの祈りと、深い献身の思いを込めて守ってきました。自分自身の生き方をかえりみ、悔い改めの祈りと愛の捧げものによって、この季節を守っていきたく思います。
 
 今日の福音書に入っていきます。今日の福音書は、いわゆる主イエス・キリストの「荒野の誘惑」と言われているところです。この福音書を読むとき、皆さんはどのような印象を持たれるでしょうか。主イエスは四十日間の断食の後に、悪魔から誘惑を受けるのです。悪魔から受ける誘惑は三つありました。今日は、その一番初めの誘惑に耳を傾けていきたく思います。
 最初の誘惑は、「神の子よ、これらの石をパンに変えよ」ということです。経済的な貧しさに付け込んだ悪魔が、神の子イエスよ、お前ならこの石をパンに変えることができるはずだ。貧困で苦しむ民に、パンを与えなさい、と言われるのです。実は、この誘惑は切実なものです。貧困、貧しさの中で苦しむ民を主イエス・キリストは目の前にしていたはずです。この貧しさから何とか民を救いたいと思っていたはずです。悪魔からの誘惑でしたが、この誘惑は、ある意味、私たちが日常の中で誰もが思うものです。食べるものがない飢餓に苦しむ子供たちを目の前にするとき、私たちはどうしようもなく石をパンに変えたい、もっと言うと、自分の力で目の前で苦しむ子供たちを救いたい、そう思うときが多々あるのではないでしょうか。誰もが切実に思う事柄であり、私たちは、石をパンに変え、自分の力で目の前の子どもを救いたく願うのです。
 しかし、主イエス・キリストのみ心は、人間の抱く感情とは違うものでした。主イエスはお答えになります。マタイによる福音書4章4節。
「二とはパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
 私たちはもちろんパンで生きているのです。しかし、主イエス・キリストはこのことを前提に、もう少し踏み込んで、人間の本質をついてくるのです。人間にはパンが必要である。しかし、もっと根本的に、人間は神から出る一つ一つの言葉で生きる。人間が生活する日々の営み、食べることも、寝ることも、生活することそれ自体も、全て神にあって日々の日常がある。それだけではなく、聖書のみ言葉、神のみ言葉に保たれて、私たちは今、生かされているのです。信仰を神から与えられて、み言葉と共に、この世の旅路を生きているのです。神が、全てにおいて、全てとなって、私たちの生活が守られ、支えられていつということです。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
 神の言葉で生きる。この聖書の言葉は、私たちの浅はかな思いと願望を超えて、神へと、その根本に帰りなさい、立ち返りなさいと深い悔い改めに導く言葉なのです。
 石をパンに変えて飢餓に苦しむ子供たちを救いたいと、救いを自分の力でもたらしたく願うものです。その願いそのものは大切なことです。しかし、救いを自分の力に頼ることは控えなければなりません。あくまでも、石をパンに変える力と、その人間の救いをもたらすことができるのは神だけです。主イエス・キリストのみ業とその十字架のみなのです。
 そして、ここから話は少し変わります。実は、私たちは主イエス・キリストだけではなく、この心の緊張関係、この心を深みにある緊張を日々生きなければなりません。石をパンに変えたい切実な思い、それは心にいつもまとわりつくことです。スラムに住む子供たちへの思いだけではなく、貧しさ、貧困の中で暮らす人は、現実に多くいるのです。
 石をパンに変えるというような奇跡や英雄的な行為に、私たちは心惹かれてしまうのです。しかし、神のみ心は明らかに違うのです。「人間は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです。石をパンに変えたい思いと、しかし、神の言葉に日々生かされている現実が衝突します。石をパンに変える奇跡を起こしたがる自己中心的な思いと、神の言葉に謙虚に生かされている事実の中で、私たちはこの心の矛盾を生きなければならないのです。
 私たちは、たえず謙虚に、神のみ前にこうべを垂れて、神の言葉に生かされている自分自身の事実に気づき、この事実を受け入れていかなければなりません。石をパンに変えたいという人間の持つ深い欲望と、神との現実がここで衝突するとも言えるのです。人間の思いと神の思い、この矛盾、この心の緊張をそのままに私たちはそれでもなお、神に希望を置いて生きていきたく思うのです。

 今日の礼拝は、四旬節の中にあります。主イエス・キリストほど、私たちは神への献身、神の願いだけでは生きていけない現実があるかもしれません。石をパンに変えたい誘惑、神殿から飛び下りて奇跡を起こしたい誘惑、そして民と権力を手にしたい誘惑、それぞれが私たちの心にあるのです。この神に従いえない心の葛藤を抱えて、この不確かな心を抱えて、今日、私たちはこの心を、礼拝において神にお捧げしたく願います。人間は矛盾の中を生きる存在であるからこそ、神との葛藤と衝突を生きる存在であるからこそ、神への謙虚な信仰が本当の意味で大切なのではないでしょうか。
 悪魔から誘惑された主イエス・キリスト。この誘惑は人間の不信仰な姿を確かに指し示していました。であるからこそ、私たちは本当に神の言葉とともに、生きていきたく思うのです。ここで、主イエス・キリストの癒しに触れたある罪人の叫びが思い起こされます。
 「信じます。しかし、主よ、信仰のない私をお救いください。」と。
 人間のあくなき欲望と神の深いみ心を抱えつつ、私たちはこの矛盾と逆説をそのままに、しかし、私たち自身を神への捧げものとして捧げ感謝・讃美の礼拝に与かっていきたく思います。

 人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン。





 

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