(旧約聖書)エレミヤ書 26章7節~19節
(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節
(新約聖書)ルカによる福音書 18章31節~43節
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」 「見えるようになれ。あなたの進行があなたを救った。」 |
『 求め続ける 』 松岡 俊一郎 牧師 説教原稿
今の時代の言葉の移り変わりは大変大きいものがあります。壮年の言葉は、若者にとっては死語となり、若者の言葉は壮年層には外国の言葉のように感じられます。昨年末に新しい訳の聖書が発行されました。「聖書 聖書協会共同訳」です。ほとんど新共同訳がベースになっています。聖書の言葉は私たちの心になじむことが一番ですから、文語訳の方がしっくりくるという方も多いでしょう。例えば「求めよ、さらば与えられん」という言葉もそうでしょう。この言葉は、新共同訳の「求めなさい。そうすれば、与えられる」では、今ひとつしっくりきません。新しい聖書でも同じ訳です。この聖句は「求めよ」という強い言葉が大切だと思うからです。求める。聖書が言いたいのは、それは片手間に欲しがることではありません。あってもいいし、なくてもいいというものではありません。全身全霊をもって求めることであり、それが無ければ生きていけないというところのものです。
ここに命懸けで求めている人がいます。今日の福音書によるとイエス様の一行はエリコの町に入ろうとされていました。黒人霊歌に「ヨシュアは闘うエリコ」という歌がありますが、出エジプトを果たし、荒れ野の四十年を過ごしたユダヤの民が、約束の地に入ろうとして最初に来た町がこのエリコでした。この街はエルサレムに向かう街道沿いの荒れ野の中にある大変古い町です。この出来事のすぐ後にイエス様の一行はエルサレムに入られ、いよいよ受難の出来事が近づいていますので、過ぎ越しの祭が近いことが分かります。つまり、この街道はエルサレムに向かう人々が多く通っていたのです。そんなところにある目の不自由な人が座り込んで物乞いをしていたのです。マルコではこの人の名をバルティマイと記録されています。イエス様の時代は病気や障碍のある人は悪霊が取り付いているとか、罪の結果そうなっていると考えられていましたので、彼は差別され社会の中にあっても社会の一員ではなかったのです。そんな彼に仕事があるはずもなく、彼にとっては物乞いをして人の憐れみにすがって生きる以外にはなかったのです。そんな彼の前をイエス様の一行が通ります。イエス様には「大勢の群衆」が一緒でしたから、かなりの人通りでした。この耳の不自由な人はイエス様の噂を知っており、そのイエス様が通られることを耳にして「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。この時彼がひときわ大きく叫んだのは、ただ沢山の人が来たから多く恵んでもらえるというものではありませんでした。イエス様が自分にとって特別な人、自分の命の状況に変化を与えてくださるお方と直観的に確信したのです。しかし、イエス様の周りにいた弟子達や群衆は、そんなことには気づきません。いつものようにそれを叱りつけ追い払おうとしました。するとイエス様は足を止め、そばに連れてくるように命じられました。彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところに来ました。彼がどんなに喜んだかが分かります。そこでイエス様は「何をしてほしいのか」と言われます。彼は目が不自由でした。だからこそ社会の一員として扱われず、仕事もなく、物乞いするしかありませんでした。彼はすぐに「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えました。彼にとっては目が見えないということが、彼の人生を変えるカギであったのです。その意味では彼が求めた「救いの中心」であったと言っていいと思います。イエス様はこの時には、他の時にされたような眼に唾をつけて手を置くというようなことはされず、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われ、彼はすぐに見えるようになったのです。
「あなたの信仰があなたを救った」たいへん印象的な言葉です。しかし考えてみると、彼には私たちが知っているような聖書の知識も弟子達が直接に見聞きしていたようなイエス様の情報も、ほとんどなかったと言ってよいと思います。せいぜいあちらこちらで素晴らしい話をされる人がいる。病気やからだの不自由な人を目の前で治した、あるいは死んだ人を生き返らせたという情報だったかもしれません。しかしその程度です。教えの内容など何も知らなかったと思います。しかし、イエス様を知らなくてもイエス様を受け入れる素地は山とあったのです。障碍とそこからくる差別や排斥、人並みに仕事も生活もできないこと、貧困と空腹、病気への危機、人間不信と自分への絶望感、神様の憐れみを受けるには、神様の憐れみを求めるには十分な状況があったのです。現在でも、障碍者の相対的貧困率は健常者の四倍だと言われています。数々の不自由さと苦難を負ったこの人は、そこからの呻きとして「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。人々がそれを止めようとしても彼は叫び続けたのです。イエス様はこれを「信仰」と呼んでくださり、その信仰に神様の力が働いたのです。
このように見ると私たちの信仰がいかに頭でっかちになっているかと反省させられます。聖書の知識や神学の情報をため込むことによって信仰が増していくような気にさせられています。しかし、大切なことは自分の命、自分の生活の中でどうイエス様を求めていくのかということが教えられるのです。もちろん聖書の学びや神学の学びを必要ないと言っているのではありません。それらは心から神様の憐れみを求める信仰のために力を発揮するからです。まず私たちはイエス様の憐れみを求める信仰の原点に立つことが大切だと思うのです。子ども達は聖書知識も神学的知識もありません。キリスト教の神様と他の神様の区別もないかもしれません。しかし、子ども達には神様を信じる素朴な信仰がありますし、イエス様もまた子どものような信仰を持つことによって神の国に入ることが出来ると教えられました。疑いを持つのではなく、信じる心を持つことが大切なのです。私たちはイエス様に必死に求めているでしょうか。求める前からあきらめてはいないでしょうか。それ以前、神様に求めることさえもしていないかもしれません。
教会の大切な使命として救いを宣べ伝えるということがあります。しかしこの救いとは何からの救いなのでしょうか。あえて現代の私たちが救われたいと願っているとするならば、具体的に考えるとするならば、それは病の治癒、貧困からの脱出、ストレスの多い人間関係からの解放と言えるでしょう。もちろんそれだけではありません。むしろその背後にある私たちの心の渇き、特に宗派の教義では表し切れない宗教的罪への悔い改め、神様の愛と憐れみへの渇望や呻きがあります。私たちは生活の苦しい側面、辛いと所には出来るだけ目をつむりたい、避けて通りたい、触れないで置きたいというのが正直なところです。しかし、私たちの命、生活を真剣に生きようとするならば、どうしてもそこを避けて通ることができないのです。むしろこの盲人がそのどん底からイエス様に憐れみを求めたように、私たちも生活の真っただ中、心の苦しみの真っただ中から、イエス様の憐れみを求め続けるのです。そして私たちが主の憐れみを求め続ける時、主は十字架の上から「あなたの信仰があなたを救った」と教えてくださるのです。
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