2019年1月27日日曜日

2月3日(日)顕現節第6主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。




(旧約聖書)エレミヤ書           17章5節~8節

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一) 12章27節~13章13

(新約聖書)ルカによる福音書       6章17節~26節

貧しい人々は、幸いである。
神の国はあなたがたのものである。



   『 幸せと不幸 』 徳野 昌博 牧師 説教原稿 


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにありますように。
今日は「顕現節」の第5主日です。今日の福音は、『ルカ福音書』6章17節以下です。その20節以下はイエス様の説教です。ここの説教は、『マタイ福音書』の5章から7章の、いわゆる「山上の説教」と内容において重なっている部分が多いです。『マタイ福音書』では、この説教が、ある山の上で語られたとされていて、「山上の説教」と呼ばれるのに対して、『ルカ福音書』は、17節に、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあることから「平地の説教」と呼ばれます。
さて、この平地の説教、冒頭に語られているのは、「山上の説教」と同じように、「幸い」についての教えです。こういう人々は幸いである、と言うことが語られていますが、マタイでは八回で、ルカでは、四回です。そして後の四つの代わりにと言うのは変かもしれませんが、24節以下には、マタイにはない、「このような人々は不幸である」という教えが、26節も含めて四つあります。つまりマタイが八つの幸せを語っているのに対して、ルカは幸せと不幸を四つずつ語っていて、しかも、この幸せと不幸がそれぞれ対応しているのです。「貧しい」に対して「富んでいる」、「飢えている」に対して「満腹している」、「泣いている」に対して「笑っている」、「人々に憎まれる」に対して「すべての人にほめられる」と言う具合に、です。つまりルカの「平地の説教」では、ここで四つの事柄をとりあげ、それぞれの事柄において幸いな人と不幸な人とが生じると言っているのです。
イエス様は先ず、「貧しい人々は幸いである」と語り、それと対にして、「富んでいるあなたがたは不幸である」と言います。「貧しい人は幸いであり、富んでいる人は不幸だ」と言っているのです。マタイではここは、「心の貧しい人々は幸いである」となっています。このマタイとの比較においてよく語られることは、イエス様がもともとお語りになったのは、ルカのようにただ「貧しい人々は幸いである」だった、イエス様ご自身はまさに経済的に貧しい人々、その日の暮らしにも困っているような人々のことを「幸いだ」と言われたのだ、マタイはそこに「心の」をつけ加えることによって、この教えを内面化、精神化して、富んでいる人であっても心が貧しいならばその人は幸いなのだという教えに変えたのだ、と言うことです。この考え方に立つならば、ルカの方がイエス様ご自身の教えである、と言うことになります。 果してそうなのでしょうか。
このことを考えていくための手がかりとなるのは、イエス様がこの説教を誰に向かって語られたのか、と言うことです。この説教の聞き手は誰だったのかと言うと、20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とあるように、それは弟子たちです。イエス様に従っている人々で、イエス様を信じている信仰者と言い換えても良いでしょう。この説教において「あなたがた」と言われているのは、先ずは弟子たちだと言うことです。ですからここでは、イエス様を信じ、従っている人たちが、その歩みにおいて幸いであると呼ばれる場合と、不幸であると呼ばれる場合とに分かれる、と言うことが語られているのです。つまりルカは、経済的に貧しい人は幸いだけれども、金持ち、富んでいる人は不幸だ、と単純に言っているわけではないのです。そのことは、貧しい人々に対して、「神の国はあなたがたのものである」と語られていることからも分かります。
貧しい人々が幸いであるのは、神様の支配の下で生きているからです。それがまさにイエス・キリストの弟子、信仰者にこそ与えられる幸いなのです。一方、富んでいる人が不幸だと言われるのはなぜかと言うと、24節に「あなたがたはもう慰めを受けている」とあります。経済的に豊かであることによって既に慰めを受けてしまっている、それが不幸だというのです。この「受けている」という言葉は、既に十分に受けており、これ以上はいらない、という意味です。と言うことは、この人たちは、富んでいることによって、既に慰めを十分に受けており、これ以上の慰めはもういらないと思っているわけです。イエス様に従う信仰者がそうなってしまったら、それは不幸だと言うのです。
なぜなら、それは神様からの慰めはもはやいらない、と言うことだからです。神様に慰めてもらわなくても、自分の財産、持っているもので十分慰めがある、安心できると言うことです。それは言い換えれば、自分の財産、持ち物に依り頼んで生きていると言うことです。
信仰者がそうなってしまったら、もう信仰を持つ意味がないのです。信仰者は、神様にこそ信頼を依せ、神様からの慰め、安心を求めて生きるのです。ですから、慰めと安心を神様に求めない信仰者は不幸だと言っているのです。この世の物で慰めを受けてしまっている富んだ人は、神様を見失い、この世のことしか見えなくなっている、そのことが、そもそも不幸なのです。この世しか目に入らなくなる時、私たちはこの世の事柄、例えばお金や地位や名誉などに捕われ、束縛されて、その奴隷になってしまいます。それが不幸なのです。
逆に貧しさの中でひたすら神様からの慰めを、安心を求めるところにこそ、この世からの自由が、束縛からの解放が与えられます。神の国、神様の支配の下で生きるところに、解放と自由があります。貧しい者が幸いであるのは、この神任せの自由を生きることができるからです。このように、この教えが、イエス様を信じて従っている信仰者たち、弟子たちに向けて語られたものであることを見つめていくならば、「貧しい人々」に「心の」が付いていてもいなくても、決定的な違いではないことが分かってきます。経済的に貧しいか富んでいるかによって人間の幸いと不幸が決まる、などと言うことではないと言うことです。
そこで、この第一のことを踏まえつつ、私たちはこの「平地の説教」でイエス様がとりあげておられる第二、第三の事柄をもしっかりと受け止めていきたいのです。「今飢えている人々は、幸いである」とイエス様は言われます。それと対をなすのが、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である」です。また「今泣いている人々は幸いである」と言われます。それと対をなすのは、「今笑っている人々は、不幸である」です。
これら、「飢えている」、「泣いている」と言うのは、先ほどの「貧しい」よりも、ずっと具体的で即物的です。金持ちか貧乏かは、感じ方の違いの余地がありますが、飢えている、泣いているは、「今、ここ」での現実です。イエス様はここで明らかに、神様の祝福、恵みは、貧しく、乏しく、困窮の内にあり、悲しみ、泣いている人々にこそ与えられると断言されたのです。逆に今、豊かさの中で満足し、喜び、笑っている者は神様の祝福、恵みから遠いと言われたのです。私たちは果してどちらの部類に入るのでしょうか。
イエス様が言われる幸いと不幸についてのみ言葉をありのままに、具体的にしっかりと聞く必要があります。私たちが信じ、従っているイエス様は、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々こそが幸いであると宣言されたのです。その幸いこそ、神の国、神の支配の下で生きる信仰者に与えられる幸いであると言うのです。逆に、信仰者でありながら、自分の富によって慰めを受けてしまっている者、今満腹しており、今笑っている者は不幸だと断言されるのです。この不幸ではなく、あの幸いにこそ与って生きる者となることを、私たちは真剣に求めていくのです。そのために私たちが先ずしなければならないことは、自分が富んでおり、満腹しており、笑っていればそれでよい、という自己中心の思い、不幸な思いを捨てることです。そして、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々のことを、目を開いて見つめることでしょう。そしてそこで自分に何が出来るのかを問うのです。
イエス様は、「今」を生きている人々に、今ではなく、「将来」を見つめさせようとしています。将来を見つめることによってこそ、本当の幸いと不幸とが分かります。「今」だけを見ているなら、富んでおり、満腹しており、笑っている人が幸いです。しかし将来を見つめるならば、貧しく、飢えており、泣いている人こそが幸いだと言うのです。その将来というのは、この世の人生の中のいつか、ではありません。これは、地上の人生が終わった後のことです。それは、第四の幸いと不幸について語っている23節に、「天には大きな報いがある」と語られていることから分かります。それぞれの人生が終わり、天において、神様のみ前に立つ時に、神様が報いてくださるとの約束です。この天における神様の報いによって、今の貧しさ、飢え、悲しみが、満腹と笑いとに逆転するのです。そのことが、第四の幸いと不幸についてのみ言葉ではっきりします。人々に憎まれることとほめられることが対照されていますが、それは自分の罪によって憎まれたり、自分の業績によってほめられることではありません。人の子主イエス・キリストのために追い出され、ののしられ、汚名を着せられ、憎まれるのです。ですからそれと対をなす、「すべての人にほめられるとき」の意味は、イエス様を信じる信仰を曖昧にして、この世に迎合し、神様のみ心に従うよりも人々が喜ぶような生き方をすること、そのことによって人々からほめられる時、のことです。信仰を貫いて生きるならば、人々に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられ、場合によっては殺されてしまうかもしれないのです。そういう時代が、この国にも、確かにありました。
しかしその時、あなたがたは幸いだと主イエスは言われるのです。それは、この世の命と人生を超えて私たちを支配し、導き、天において大きな報いを与えてくださる神様がおられるからです。その神様の目に見えない支配を見つめ、この神様との交わりに生きるところに、信仰者の幸いがあるのです。この幸いと不幸の教えにおいてイエス様は弟子たちに、私たちに、この世の人生の終わりである死をも超えてその先まで私たちを支配し、導き、報いを与えてくださる神様を見つめて生きる本当の幸いを与えようとしておられます。この幸いを私たちに与えるために、イエス様は人の子としてこの世に来てくださり、人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられて、この世から追い出されて、十字架につけられ殺されたのです。このイエス様の苦しみと十字架の死とによって私たちは罪を全て赦され、神様の前に安心して出ることができるようになりました。私たちはそのことを見つめ、そこに希望を置いて、今のこの地上の人生を、主イエス・キリストを信じる者として、喜びと感謝を持って安心のうちに歩むことができます。そこに、本当に幸いな人生が与えられていくのです。
 望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。     


どなたでも大歓迎です。教会に来てみてください。 ⇒地図はこちら 


     熊本及び九州各地で地震の被害に遭われた方々のために、
                      祈りましょう・・・


熊本地震 日本福音ルーテル教会九州教区対策本部
「できたしこ ルーテル」
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「できたしこ」とは・・・・?

「できたしこで行こう!」とは、今自分のできるだけのことを担っていこう!それで十分!という熊本弁だそうです。


2011年3月11日に起こった東日本大震災から、8年が経とうとしています。被害に遭われた方々の生活再建と、この悲劇が忘れ去られることのないよう、心よりお祈り申し上げます。日本福音ルーテル教会は、積極的にボランティアに参加しました。

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2019年1月20日日曜日

1月27日(日)顕現節第4主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。




(旧約聖書)エレミヤ書           1章9節~12節

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一) 12章12節~26

(新約聖書)ルカによる福音書       5章1節~11節


恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。

   『 沖へ漕ぎ出そう 』 松岡 俊一郎 牧師 説教原稿 


  人生何が起こるかわかりません。何が起こるかわからないという事は不安なことです。若いうちはドキドキ、ワクワク感があるかもしれませんが、そのうちに変化を好まなくなり、変わることに不安を覚えるのです。ですから、人は占いなどによってこれから起こることを知ろうとします。しかし、占いはあてになりませんし、分かったら分かったで、自分の思い通りの人生を送るならば、それもつまらない人生なのかもしれません。
今日の福音書の最初の場面は、ガリラヤ湖畔におられたイエス様のもとに、大勢の群衆が押し寄せてきたことから始まります。群衆は、すでにあちこちで神の言葉を伝え、癒しの奇跡を起こされてきたイエス様の評判を聞きつけて来たのです。そこでイエス様は、そこにいた二艘の漁師の舟の一艘に乗り、少しだけ岸から漕ぎ出すように願われます。その方が群衆の中でもみくちゃになりながら話をするより、話しやすかったからです。その漁師はシモンでした。当然そこには兄弟アンデレもいました。さらにもう一艘にはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネもいました。しかしルカによる福音書の強調点は、そこにはありませんでした。その後です。
 イエス様はシモンに「沖へ漕ぎ出して網をおろし、漁をしなさい」と言われます。シモンが言うように、彼らが網を洗っていたのは、夜通し漁をして、その片付けをしていたのです。そして、彼らは夜通し漁をしても何も取れなかったのです。ですからシモンがイエス様の申し出を断っても、ちっとも不思議ではありません。漁師の自分たちがどんなに苦労しても取れなかった魚が、陽が高く上った日中に取れるとは思えなかったからです。しかし、シモンは不満こそあったかもしれませんが、「しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」と言って網をおろすのです。この何気ない行動によって大逆転が起きます。おびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになって、もう一艘の舟を呼ぶほどだったのです。
 この出来事の中では、シモンの「お言葉ですから」という言葉が重要です。この言葉には、自分の経験や考えをわきに置いて、イエス様の言葉に従ったからです。人は自分の考えに固執します。いったんこうだと決めると、それを変えることはなかなかできません。その意志の強さ、頑固さは、個人差はあっても、人は自分の気持ちにこだわるのです。自分の考えをいったん置いて、人の言葉に従うのはたやすいことではありません。まして漁はシモン・ペトロたちにとって生業です。これまで自分たちは毎日その生活を続けてきたし、これからもその生活を続けるのです。そこには人の意見など付け入るスキがなかったかもしれません。しかしシモン・ペトロは「お言葉ですから」といってイエス様の言葉に従うのです。このペトロの行動は、この時彼にとっては思いつめたものではなく軽い気持ちだったと思います。それは後で、彼が「わたしは罪深い者なのです」と告白していることからもわかります。それはイエス様の力を信じて従ったのではなかったから懺悔しているのです。しかしこの何気なく従った一つの出来事が、ペトロの人生を大きく変えるのです。
 イエス様はシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われ、彼らは舟を陸に上げ、すべてを捨てて従います。「人間をとる漁師」とは少し詩的な言い方です。本来は「人を捕らえて生かす者」と訳される言葉です。これがこれからのシモンに託された使命であり、人生です。舟を陸に上げる、漁具を捨てる、それはこれまで彼らが生業としていたものを捨てて、全く新しい人生を歩みだしたことを示します。
ルカ福音書は弟子の召命を記録することによって、イエス様との出会いは、人の人生にこのような変化をもたらすことを伝えたかったのではないでしょうか。ここには弟子たちの気持ちは書かれていません。迷いはなかったか?不安はなかったか?きっとあったでしょう。変化に不安はつきものです。旧約聖書の日課はエレミヤの召命の時の記事です。その少し前には、エレミヤの不安がストレートに書かれています。神の選びの呼びかけの前で、エレミヤは「ああ、主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と躊躇いを言葉にしています。しかし弟子たちは、イエス様の言葉に従ったのです。もちろん弟子という意味では、まだ何もありません。他の人と同じように一般的なユダヤ教の教育は受けて来たでしょう。しかしのちに「無学な人」と呼ばれるように特別な教育は受けていませんでした。イエス様と数年過ごし後でも、彼らは弟子からぬ態度を度々見せてくれます。イエス様の言葉を理解してない、自分たちの中でだれが偉いか論争する、イエス様の受難予告をたしなめて逆に叱られる、そしてしまいにはイエス様の十字架の前で弟子であることを否定して散り散りに逃げ惑うのです。
イエス様も弟子たちを招くにあたり、彼らの中にそれにふさわしいものが備わっていたから招かれたのではありません。学問もない、信仰さえ不確か、これまで培ってきたものは不必要です。これは使徒パウロも同じです。彼は「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」と言っています。しかしパウロはキリストのゆえにそれまでの知識や考え、経歴をむしろ損失と思うほどに捨ててしまうのです。イエス様に従う時に、人が持っている力や能力、経歴など意味を持ちません。むしろそれらは邪魔になるのです。必要なことはみ言葉への信仰だけです。それもそれらも最初から備わっていることが条件ではないのです。大事なのはイエス様の召しとそれに応える信仰だけです。イエス様が漁師たちを弟子とされたことは私たちにとっても慰めです。それは私たちにも、ありのままの私でいいと言ってくださっているからです。私たちはもはや人間的にも信仰的にも虚勢を張る必要がないのです。自分が足りない人間だ、ダメな人間だと卑下する必要もないのです。ただ招きに応えるだけです。          


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     熊本及び九州各地で地震の被害に遭われた方々のために、
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「できたしこで行こう!」とは、今自分のできるだけのことを担っていこう!それで十分!という熊本弁だそうです。


2011年3月11日に起こった東日本大震災から、8年が経とうとしています。被害に遭われた方々の生活再建と、この悲劇が忘れ去られることのないよう、心よりお祈り申し上げます。日本福音ルーテル教会は、積極的にボランティアに参加しました。

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2019年1月13日日曜日

1月20日(日)顕現節第3主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。




(旧約聖書)エレミヤ書           1章4節~8節

(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一) 12章1節~11

(新約聖書)ルカによる福音書       4章16節~32節

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みと年を告げるためである。

   『 福音宣言 』 小勝 奈保子 牧師 

            

2019年1月7日月曜日

1月13日(日)主の洗礼日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。




(旧約聖書)イザヤ書            42章1節~7節

(新約聖書)使徒言行録          10章34節~38

(新約聖書)ルカによる福音書       3章15節~22節

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、
天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」
という声が、天から聞こえた。


   『 聖霊の働きによる洗礼 』 松岡 俊一郎 牧師 説教 


            


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「できたしこで行こう!」とは、今自分のできるだけのことを担っていこう!それで十分!という熊本弁だそうです。


2011年3月11日に起こった東日本大震災から、8年が経とうとしています。被害に遭われた方々の生活再建と、この悲劇が忘れ去られることのないよう、心よりお祈り申し上げます。日本福音ルーテル教会は、積極的にボランティアに参加しました。

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