(旧約聖書)アモス書 5章6節~15節
(新約聖書)ヘブライ人への手紙 3章1節~6節
(新約聖書)マルコよる福音書 10章17節~31節
子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。 |
『 神の国に入る難しさ 』 松岡 俊一郎 牧師 説教原稿
かつてウルグアイの大統領だったホセ・ムヒカ元大統領という人がいます。この方は、「世界一貧しい大統領」と呼ばれ、2012年に行われた地球の未来を話し合うリオ会議の演説で、世界の高消費社会を痛烈に批判したことで有名になりました。そしてその価値は、彼の言葉だけではなく彼自身の有言実行の生活にもありました。彼は給料の87%を国や貧しい人々に寄付し、彼の資産は粗末な家と小さな畑、友達からもらった小さなVWの自動車だけだったからです。演説の中で彼はこう言っています。少し長いですが引用させていただきます。「マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。」そして昔の賢人の言葉を引用して「貧乏な人とは少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人だ。」と言っています。消費社会先進国の日本に住み、そこにどっぷり浸かっている私たちには大変耳の痛いことです。
聖書の時代の人々が一番求めていたことは、永遠の命を受け継ぐこと神の国に入ることでした。そのために彼らは律法を求め、律法を守っていたのです。ここにひとりの人が登場してきます。マタイ福音書では青年、ルカ福音書ではある議員となっています。この人がイエス様に尋ねます。「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいでしょうか。」彼は律法を守ることがその道であることを知っていたはずです。知っていながらイエス様に尋ねたのは、イエス様を試すためではなく、律法を守りながらも、これで永遠の命を得られるだろうかというまじめな疑問にぶち当たっていたのではないでしょうか。マルチン・ルターもまた、厳しい修道生活を自ら実践しながらも、神の義を得られる実感が得られず苦悩していました。イエス様はモーセの十戒のことばをあげられます。すると彼は、それらは子供の時から守っていますと答えます。この時、彼は自慢げにというよりも、ちょっとがっかりしたかもしれません。もう少し違う答えを期待していたでしょう。するとイエス様は彼の予想を超えたことを言われます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」そしてさらに言われます。「それから、わたしに従いなさい。」これを聞いて、彼は気を落とし、悲しみながら立ち去ります。聖書は、彼がたくさんの財産を持っていたからと説明します。しかし、この説明は少し不十分です。たくさんの財産を持っていてもそれらを売り払って従うことは出来たからです。しかし聖書にある確信があります。たくさんの財産を持っている人はそこから離れられない、逃れられないということです。
それではなぜ金持ちは永遠の命を継ぐことが出来ないのか、神の国に入ることが出来ないのでしょうか。永遠の命も神の国も、人があるべき神様との正しい関係を言っています。その関係の中では、人は神様に向い、神様に従わなければなりません。それができて初めて神様との全き関係に入ることが出来、そこの関係の中でこそ永遠の命を受け継ぐことが出来るのです。しかし、人が財産を求め、財産を手にするときには、そこには全身全霊を持って神様に向っているとは言えません。何しろ財産を守ることに必死にならなければそれを失ってしまうからです。当然その人はイエス様に従うことが出来ないのです。聖書はそのような人の姿、人の弱さ、人の本質を見抜いているのです。だからこそ、今日の旧約聖書の日課を見てもわかりますが、聖書は権力者や金持ちに対して厳しい目を向けているのです。さらに当時の権力者や金持ちは、私腹を肥やし、弱いものを顧みず、むしろ抑圧していたからです。しかしそれはただ単純に権力者や金持ちに対する言葉ではありません。そうではなく、権力やお金や財産に執着する心に向けられていると言っていいでしょう。私たちは実際にそれらを持っていなくても、それに執着する心はあるからです。イエス様が「持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい」と言われるのは、ただ人に施すということではなく、それらの執着から解放され、自由になりなさいと言われているのです。執着は心をとらえ、心を縛ります。人を満足させるどころかかえって不自由にします。しかし私たちはこの縛りから自由になることが出来ません。そしてそれはもはや私たち個人の心だけでなく、ムヒカ元大統領が言うように社会の構造、世界そのものがそうなっているからです。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と言われるほどに、難しく不可能に近いならば、それではどうしたらいいのでしょうか。「それでは誰が救われるのだろうか」という弟子たちの間で沸き起こった疑問は私たちの疑問でもあります。このイエス様のことばの前で私たちも悲しみながら去らなければならないのでしょうか。
世界や文明そのものがそれに染まっているとするならば、私たちは自分の身を特別な環境におかなければ、その執着と欲望と価値観から抜けだすことはできないかもしれません。修道士たちは、修道院の中にそれを求めました。禁欲、労働、祈り、これに集中することによって、あらゆる執着から解放されようとしたのです。現在の私たちはどうするでしょうか。私たちも修道生活を始めるでしょうか。それとも消費社会から隔絶された自然環境に身を置くでしょうか。いずれも現実的ではありません。
イエス様は、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われます。私たちが自分の力や努力で執着から逃れようとしても、それはできません。しかし、イエス様は、神様はその力を持っておられると言われます。神様のみ心は人々を拒むことではありません。イエス様が言われるように、神様は私たちをどこまでも招いておられるのです。その招きの力はどこまでも私たちを追い求めます。この招きを拒まないことです。「神様にはできる」、私たちを救うことはこの一点に頼ることです。 どなたでも大歓迎です。教会に来てみてください。 ⇒地図はこちら
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