2018年9月9日日曜日

9月16日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。




(旧約聖書)イザヤ書         35章4節~10節

(新約聖書)ヤコブの手紙      1章19節~27

(新約聖書)マルコよる福音書    7章31節~37節

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。
耳の聞こえない人を聞こえるようにし、
口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

   『 話さずにはいられない 』 松岡俊一郎 牧師原稿 
 私たちの周りは情報であふれています。特に最近は新聞、テレビやラジオだけでなく、スマートフォンやインターネットなど情報媒体が発達していますので、簡単に必要な情報が手に入り広まります。その情報の中には別に知りたくもないものもありますが、確かに便利な時代になりました。かつては「悪事、千里を走る」と言われ、悪い噂は早く遠いところまで伝わると言われていました。反対に「好事、門を出ず」と言って、いい話はなかなか広まらないと言われます。それは今も変わりませんが、広まり方は昔とは格段に速く遠くまで広がるようになっています。

さて、今日の福音書の日課では、イエス様はティルスの地方を去って、シドンを経てデカポリス地方を抜け、ガリラヤ湖へ戻ってこられました。シドンはティルスの北にあり、デカポリスは南東のヨルダン川の右岸の地方ですから、さらにガリラヤ湖はその北ですから、地理的に見るならばこの移動経路は少々無理があります。福音書記者マルコがこのように記した理由は、イエス様が福音をユダヤ人の地だけでなく異邦人の土地まで広く宣べ伝えたかったことにあります。

イエス様はガリラヤ湖のほとりに戻られました。そこに人々が、耳が聞こえず舌のまわらない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願い出たのです。この時代のこのような障碍を持った人たちがどのような生活、特に手話などない時代です。どのようにしてコミュニケーションをとっていたのかわかりません。日本は1949年には身体障碍者福祉法が定められましたが、一般国民の間で障碍者に対する見方が変わり始めたのは、1981年の国際障碍者年からだと思います。それまでは家族の中で障害を持つ人がいればひたすら隠していたと思います。障碍者についての課題は社会の影の一側面でしかありませんでした。ですから、今から二千年以上前のことです。社会から隔離され排除されていたとしてもおかしくありません。実際に、重い皮膚病の人たちは障碍のある人は悪霊に取りつかれていると考えら社会の共同体から隔離されていたのです。

福音書に登場する人は耳が聞こえない人ですから、自分でイエス様の噂を聞いたわけではなく、周りの人に半ば強引に連れてこられたのでしょう。友人たちが彼を連れて来たのです。この友人たちはどんな思いで連れてきたのでしょうか。この耳の聞こえない人のことを思って来たのでしょうか。それともイエス様の奇跡を見たくて彼を連れてきたのでしょうか。この障碍を持つ人はこれまで人前に出ることもなく、目立たないようにコソコソと生きてきたと思われます。そんな人が突然、群衆の中心にいるイエス様の前に連れて来られたのです。彼の緊張と恐れが伝わってくるようです。イエス様の奇跡の業は見せものではありませんから、人前で癒すことをされませんでした。イエス様はこの人だけを群衆の中から連れ出し、一対一で向き合われたのです。イエス様は私たちをただの群衆としては扱われません。一人一人の状況、課題、問題、痛み、苦しみを受け止めてくださるのです。イエス様は指を彼の両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。魔術的なしぐさです。しかしそれが魔術でないことは次の言葉から分かります。イエス様は天を仰ぎ、深くため息をつき、そしてその人に向かって「エッファタ、開け」と言われました。天を仰がれたことは、イエス様は父なる神様への祈りです。イエス様の力は天の父なる神様とつながっています。この奇跡が神の御心であることもわかります。そして深いため息は、この耳の不自由な人のそれまでの苦しみや辛さ、不自由さをしっかりと受け止められたことの現れです。人は誰でも同じ経験や同じ生活、同じ境遇にはありません。ですから、どんなにいろいろな経験をした人でも人と同じ気持ちになることはできません。同じ経験をしたとしてもそこでの感じ方は人それぞれですから、理解し合うことは容易ではありません。しかし人は心を通じ合わせることができます。それは愛と感受性です。相手を思いやる気持ち、相手と共感しようとする気持ちによって、限りなく近づくことは出来るのです。イエス様のため息の中には、そのような気持ちが込められているように思うのです。

イエス様は、この人の耳や口だけでなく、心に愛を注ぎ、彼を慈しみ、その苦しみと不自由さから解放されるのです。この愛はイエス様と向き合う私たちにも注がれています。誰にも話せないような思い、誰にも理解してもらえないような気持、誰とも通じ合うことができない心、そのような私たちの心をイエス様は聞いてくださり、受け止め、愛を注いでくださるのです。そのあかしが十字架です。すでにイエス様は十字架によって私たちのすべてを受け止めてくださっているのです。

耳は聞こえるようになりました。しゃべれるようになりました。彼は何を聞き、何を語り始めるのでしょうか。彼の耳にまず届いたのはイエス様の言葉です。なんと幸せなことでしょうか。そして最初に彼の口を衝いて出た言葉は、イエス様への感謝の言葉であったに違いありません。イエス様の言葉を聞き、感謝を述べること、これは人にとって幸せなことです。そのためにイエス様に開いてもらうのです。言葉が生きる瞬間です。

この奇跡を見て人々は驚嘆し、言いました。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださった。」この言葉はイザヤ書35章5節にある栄光の回復の預言の言葉です。イエス様のみ業は、一人の人に向けられた癒しの奇跡にとどまらず、神様の救いの成就でもあったのです。イエス様はこの癒しの出来事を人々に口止めされました。しかし、それを止めることはできませんでした。なぜならば、多くの人々がその癒しと救いを必要としていたからです。今の時代は悪いニュースがはびこる時代です。しかし私たちにも救いが必要です。私たちが必要とし、与えられる時、その救いを伝えるニュースは留まる事がないのです。教会はそのような場所です。留まる場所ではなく広がる場所です。私たちは自分自身の慰め、救いだけを考えがちです。しかしイエス様の救いは、教会の中だけで福音が留まるのではなく、世に広がるのです。            


どなたでも大歓迎です。教会に来てみてください。 ⇒地図はこちら 


     熊本及び九州各地で地震の被害に遭われた方々のために、
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熊本地震 日本福音ルーテル教会九州教区対策本部
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「できたしこで行こう!」とは、今自分のできるだけのことを担っていこう!それで十分!という熊本弁だそうです。


2011年3月11日に起こった東日本大震災から、7年半が経とうとしています。被害に遭われた方々の生活再建と、この悲劇が忘れ去られることのないよう、心よりお祈り申し上げます。日本福音ルーテル教会は、積極的にボランティアに参加しました。

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