(旧約聖書)ゼファニヤ書 3章18節~20節
(新約聖書)エフェソの信徒への手紙 4章1節~16節
(新約聖書)マルコよる福音書 6章45節~52節
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て幽霊だと思い、大声で叫んだ。 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 |
『 恐れることはない 』 松岡俊一郎 牧師 原稿
イエス様は五つのパンと二匹の魚によって五千人以上の人々の空腹を満たすという不思議な奇跡をおこなわれました。その時、五千人すべての人がそれを奇跡だと気づいたわけではなかったと思います。むしろ気づいたのは配った弟子たちとそれを手伝ったごくわずかな人々で、多くの人はただ与えられた食べ物をありがたくいただいただけだったと思います。弟子たちは奇跡の真っただ中にいました。なにしろ配っても配っても魚とパンはなくなるどころか増えていったからです。彼らは配りながら興奮の中にあったと思います。配るだけでなく今奇跡が起こっていると人々に伝えたかったに違いあいません。しかしもし彼らがそうしたならば、それは大変な事態を引き起こしたでしょう。五千人の人々が興奮し始めるからです。イエス様が弟子達だけを先に湖の対岸に行くようにされたのは、奇跡が広まるのを避けるためだったかもしれません。それにしても、その後イエス様がひとりで五千人の人を解散させるのは大変なことだったに違いありません。民衆を解散させた後、イエス様が一人で祈る時を求められたのも無理からぬことだったと思います。
一方、弟子達が舟で漕ぎ出した後、湖は荒れ始めました。ガリラヤ湖は東西を高い高地に挟まれていましたので、時に激しい風が吹き寄せ荒れることがあったのです。彼らのうちの何人かは漁師でしたから多少の荒波でも平気だったに違いありません。しかしそんな彼らも夜通し荒波と闘い、ヘトヘトに疲れていたと思われます。朝方、まだ夜も明けきらない時刻のことです。イエス様は波の上を歩いて弟子達のほうに行かれました。
マルコ福音書はここに不思議なことを書いています。イエス様が弟子たちのところに行かれたことは間違いないのですが、直接彼らのところに行くのではなく、「そばを通り過ぎようとされた」と記しているのです。これはいったいどういうことでしょうか。この「通り過ぎる」という表現は、特別な意味がありました。結論からいうと、神様がその姿を現される時、「通り過ぎる」のです。
出エジプト記33章21-23節には、神様がモーセに姿を現された時のことが記されています。主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」
神様がエリヤにその姿を現された時は(列王記19:11-22)、主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
つまり、福音書記者マルコはこの荒波の上を歩くイエス様の姿を、神様の姿として伝えたかったのです。なぜなら弟子たちは五千人の空腹を満たす奇跡を目の当たりにしながらも、まだイエス様の本当の姿に気づいていなかったからです。その証拠に、弟子達は波の上を歩くイエス様を見て「幽霊だ」と言っておびえ叫んでいたからです。確かに疲れ切った上に朝方です。眠たさもあり、見通しも悪かったでしょう。それ以上に荒波の上を人が歩いてくるなど誰にとってもあり得ないことでしたから、彼らが恐れたのも無理はありませんでした。イエス様はそんな彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われ舟に乗り込まれました。
この「安心しなさい。わたしだ。」という言葉には、弟子たちの疑いをも受け入れるイエス様の姿があります。信じない者を排除することもあり得ます。しかしイエス様はそうはされません。イエス様と身近にいても、イエス様の奇跡を目の当たりにしても信じられず幽霊と見間違い疑う弟子たちの無理解と不信仰、それをイエス様は丸ごと受け入れてくださっているのです。そして「恐れることはない」と言われるのです。
イエス様は荒波をも静められる神様です。列王記に記されているように、神は山や岩を砕くように激しい風の中にはおられず、地震の中にも、火の中にもおられず、すべてが静まった時にささやく声で語りかけてくださるのです。
私たちの生活の営みの中にも荒波は押し寄せます。予期しないような出来事、とても自分の力だけでは解決できそうにないこと、心を凍らせ、押しつぶしそうになることがあります。具体的には、仕事で成果をどのように出すか、会社の人間関係の難しさ、ご近所との関係、近いがゆえに難しい家族や親戚との関係、ストレスや年齢からくる心やからだの不調、日々の生活の中で感じる不安や寂しさ、自分自身の心のありよう、さまざまな事柄が私たちを苦しめ悩ませます。信仰があるのだから、それらを乗り切れるはずと自問するのですが、そう簡単にはいきません。信仰をもっていてもうまくいかない時はいかないのです。イエス様が水の上を歩かれた不思議な出来事とそこで弟子達と交わされた言葉は、そのような私たちに向かって語られる言葉でもあろうと思います。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」私たちの基本的な気持ちはイエス様に向かっています。それは偽りではありません。しかしそうであっても私たちは目の前の荒波のような出来事に翻弄され、目を奪われ、心はいつも不安に揺らいでいるのです。そこに恐れが生じます。恐れはイエス様から目をそらした時に起きるのです。
数週間前にも突風を静めるイエス様の姿を記した箇所が読まれました。そこではイエス様が最初から一緒に舟に乗っておられました。今日の個所ではイエス様は最初おられず、弟子たちだけでした。そこにも不安がありました。イエス様が一緒におられない、自分たちだけ、孤独と寂しさ。そこに荒波です。私たちもついそう考えがちです。イエス様が一緒におられない。でもそれは、一緒におられることに気づいていないのです。
イエス様の声に耳を傾ける、イエス様に心を向ける方法は、人それぞれ違います。祈りはもちろんその一つです。それ以外にも、静かに自然と向き合うこと、好きな音楽を聞きながら黙想すること、本を読むこと、誰かと静かに語らうこと、いろいろあると思います。大切な事は、どんな方法であるにしろイエス様が私たちと共におられ、私たちの波をなだめ、静かに語ってくださることを信じ、耳を傾けるのです。そこに「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」との御声が聞こえ、私たちを支えてくださいます。
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