(旧約聖書)ホセア書 2章16節~22節
(新約聖書)コリントの信徒への手紙(二) 3章1節~6節
(新約聖書)マルコよる福音書 2章18節~22節
だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしない。 そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もダメになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。 |
『 新しい教えは新しい器に 』 松岡俊一郎 牧師 説教原稿
食べるということは、排泄と並んで人が生きていく上で必要な基本的な行動です。だからこそ、食べないという行為は逆に意味をもってきます。ハンガーストライキなどがそうです。食べないことによって、命をかけて抗議の意思を表すのです。また、断食というと昨今ではダイエットのためとか、病気の治療のためと考えてしまいますが、本来断食はどんな宗教にも見られるように宗教的な行為でした。肉体を極限状態において精神を研ぎ澄ませるのです。ユダヤ教において断食は、神に対する罪の懺悔であり、罪の赦しを祈る行為でした。レビ記23章27節に「贖罪の日(ヨム・キプール)」として定められています。ここには「苦行」とあり、直接には断食とは書かれていませんが、口伝伝承を集めたタルムードが苦行を断食と解釈して、贖罪の日は断食をする日とされています。断食は贖罪の日以外にも民族的な不幸の日、疫病の流行、戦争、干ばつの時などにも行われ、個人としては喪に服する時、悔い改めの表現、祈りの準備、誓約の成就の時に行われていたようです。つまり、ユダヤ人にとって断食は、宗教的行為として当然の行為であったのです。
今日の福音書の日課では、人々がバプテスマのヨハネの弟子やファリサイ派の人々は断食をしているのに、なぜあなたの弟子はなぜ断食をしないのですかと尋ねます。そこにはユダヤ教の習慣に従わないことへの批判が込められていたかもしれません。これに対してイエス様は「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」と答えられます。もちろん、花婿とはイエス様ご自身を指しておられます。イエス様が一緒におられるのは、喜びの時です。喜びの時に断食する必要は全くありません。しかしイエス様が十字架の死を遂げられる時が来る。その時には弟子達は深い悲しみの中で喪に服すというのです。ここでは質問者たちの反応が書かれていませんので分かりませんが、たぶん彼らはこのイエス様の答えを理解することはできなかったでしょう。質問した人々が習慣について聞いているのに対して、イエス様はその習慣の持つ意味を見据えてお答えになっているからであり、さらに、イエス様ご自身が人々の罪の赦しのために十字架にかかられることを言っておられるからです。
律法学者やファリサイ派の人々が、律法だけでなく、そこからたくさんの戒律や戒めを作っていました。それと同じように、私たちも社会の様々な不文律を作っています。習慣であったり、常識と呼ばれるものです。さらにはステレオタイプと呼ばれるように、画一的に「~~はこうあるべきだ」、「こうあるはずだ」と考えてしまいます。それから少しでも離れてしまうと批判の的になったり、自分でも不安になったりするのです。特に昨今はクレームや批判が溢れる風潮がありますので、私たちは気づかないうちに自ら不自由さを招いていると言ってもいいでしょう。
さらにイエス様は「だれも、おりたての布から布切れをとって、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、敗れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われました。説明するまでもありませんが、最近では縮まない素材もあると思います。しかし聖書の時代です。化学繊維はありません。自然の生地だけです。新しい布は縮みます。破れやほころびを繕うのに新しい布を当てて縫えば、その部分が縮んで古い部分を破ってしまうのです。ぶどう酒も新しいぶどう酒は発酵が進むと膨張しますから、新しい革袋であれば膨張に合わせて伸びますが、古い革袋は伸びることができず破れてしまうのです。このたとえは、イエス様の新しい教えを受け入れるためには、古い考えのままではそれを受け入れることが出来ないと言っておられるのです。
それではイエス様の教えは何もかもが新しいのでしょうか。マタイ福音書5章17節以下でイエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一角も消えることはない」と言っておられます。イエス様は、どこまでも律法に忠実であられました。それは人々が習慣や伝統に忠実であったのに対して、律法の持つ心に忠実であられたのです。
使徒書の日課でパウロは「文字は殺しますが、霊は生かします。」と述べています。これは律法がその趣旨とは外れて受け取られ、人を縛りつけるものになっている、自由を奪い人を死に追いやっていると言っているように思います。それに対して、律法の中に込められている神様の愛と慈しみを見出すならば、それは人を自由にし、生かすのです。
律法の持つ心に忠実である時、つまり神様のみこころに忠実である時、それは古い教えに捕らわれている人にとっては、新しい教えとして響いてくるのです。
私たち自身はどうでしょう。新しい教えが与えられているのに、私たち自身も古いままでいるのではないでしょうか。私たちが持つこの世の習慣や価値観、判断基準、自己中心的な思い、様々なものが古いものとして残っています。そして時としてそれらは新しい教えを拒んでしまっています。
古いままでは新しく響くイエス様の言葉を受け入れることは、そう簡単ではありません。私たち自身もまた新しい革袋、新しい器、新しい鞄にならなければならないのです。どうしたら新しい革袋、器になることが出来るでしょうか。実は私たちの古さを新しくしてくださるのもイエス様です。イエス様は十字架の血によるあがないによって古い私たちを打ち砕き、滅ぼし、新しい命を与え新しいものにしてくださいました。これによってイエス・キリストを信じる私たちは、もはや古いままではないのです。イエス様によって新しくされたのです。私たちもイエス様を信じる時、新しい教えを受け入れる準備が出来ているのです。そして新しい革袋、器となって新しい愛の掟をたくさんいただくのです。これからはそれを自分の内にとどめるのではなく、隣人に運ぶものとなりたいと思います。キリストの新しい教えを必要としている人はたくさんいます。特に、病気や障碍で苦しんでいる人、生きる力を失っている人、孤独の中にある人など、イエス様ご自身が寄り添い友となられたように、私たちもそのような人々に愛の教えを届けたいと思います。
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