2018年5月20日日曜日

5月27日(日)三位一体主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。


(旧約聖書) イザヤ書         6章1節~8節  

(新約聖書) ローマの信徒への手紙   8章14節~17

(新約聖書) ヨハネによる福音書    3章1節~12節


わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、
天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

  『 三位一体の神 』 徳野 昌博 牧師(原稿)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにありますように。
今日は三位一体主日です。今日の福音は『ヨハネ福音書』3章1節以下で、ニコデモという、ファリサイ派に属する、議員が登場します。ファリサイ派の人々は律法を守ることを強調し、そうするように人々に教え、指導する立場の人々です。神の戒めを守り、それに従って生きていることを誇りにしていた人々です。その誇りゆえに、律法を守ることのできない人々を自分たちから区別し、分離し、見下げていました。そしてこのニコデモは当時、最高法院と呼ばれていた議会のメンバーでした。かなりの権力を握っていた人々の一人であったということです。財産があり、名誉があり、プライドも高く、何の不足もないはずの人です。
それなのに彼の心は落ち着きません。周りの同僚はイエス様を憎み、なんとかして懲らしめてやろうと相談を繰り返しています。けれども彼はその相談の輪に加わることができず、考え悩んでいたのです。「あの男がしている行いは確かに神を冒涜しているようにも見える。けれどもこの数日間、あの男がエルサレムで行っているしるしはいったい何なのだ、あの男には何か特別な力があるようだ。実際のところ、あの男のしるしを見て、多くの人たちがあの男に従っていっているではないか」。こう思ったニコデモは、直接イエス様を訪ねることにしたのでした。何の不自由も不足もない暮らしの中で、ニコデモは安心できず、深いところで不安な思いがあったのかもしれません。イエス様が説いている「永遠の命」、「神の国」とは何なのか、一度直接会って話を聞いてみたいと思うようになったのです。
ニコデモはイエス様に会いに行く時として「夜」を選びました。日中は多くの人々に囲まれて忙しくしているお方だから、ゆっくり過ごせる夜に行って、膝と膝をつき合わせて語り合いたい、そう思ったのかもしれませんが、理由はそれだけではないでしょう。なにせ彼の同僚は皆、イエス様を訴え、裁判にかけようと機会をうかがっています。そんな中、自分が密かにイエス様と接触していたことがばれると、立場がなくなり、自分の身にも危険が及ぶかもしれません。そこで彼は人目を忍んで夜に出掛けていくしかなかったのでしょう。
ニコデモにイエス様は言われます、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3)と。「新たに生まれる」、それはどういうことでしょうか。ニコデモは、どうして人は母親の胎内に戻ってもう一回生まれ直すことができましょうか、と問い返します。彼はこの数日間、イエス様が為されたさまざまな「しるし」、奇蹟を見て、このお方には何かがあると思って、やって来ました。しかしイエス様は、「しるし」を見て信じるのはいけない、と言われます。しるし、奇蹟は、イエス様がどなたであるのかを指し示す矢印のようなものです。そのしるしに導かれて、私たちはイエス様がこの私にとってどなたなのかを見極めるのです。イエス様は、「だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」(5)と言われます。これはまぎれもなく洗礼を意味しています。水によって罪を洗い清められ、神の霊によって新たに造りかえられる出来事、それが洗礼です。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8)。ニコデモが訪ねたこの夜も、きっと静かに、心地よい風が吹いていたのでしょう。
この「風」という言葉には、「息」とか「霊」という意味もあります。また「音」という言葉には「声」という意味があります。ですから8節の言葉はこうも訳せます。「霊は自由に動く。あなた方はその声を聴くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者も皆それと同じである」。神の霊は風のように私たちに吹きつけて、私たちに神の声を聴かせてくださるのです。その時、弱さや欠けを持つ「肉」の目が見ることのできないイエス様の真実の姿に目が開かれ、神の国を仰ぎ見る幸いが与えられます。それは私たち人間が支配したり、コントロールしたりはできない、神様の自由の霊の働きです。神様が御心に従って、私たちを選び召し出してくださり、聖霊とみ言葉によって私たちにご自身を現してくださるのです。
(先週もそうでしたが)、礼拝の中で行われる洗礼を目の当たりにするたびに、人が神の霊によって新しく生まれるということは、人が予定したり計画したりすることではなく、神の自由な霊の働きによることなのだ、と言うことを再認識させられます。神の霊は、あらゆる時代と環境の中で、今この時という最もふさわしい時と場を備えてくださいます。すべては神の自由なる恵みが結んだ実りです。恵みのみです。ですから自らの手の働きを誇ることのできる人は誰もいなくなります。ただ神様だけがほめたたえられ、讃美されるのです。「誇る者は主を誇れ」というみ言葉が具体的に教会の中に形づくられていくのです。
「どうしてそんなことがありえましょうか」(9)と問い返すニコデモに、イエス様は天からのまなざしに目を向けるように促します。「心を高くあげよ」です。「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そしてモーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(13~14)。かつてイスラエルの民は荒れ野の中で神に対してつぶやき、モーセを非難する罪を犯したため、炎の蛇にかまれ、多くの死者を出しました。モーセは主なる神様のお命じになるまま青銅で炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇にかまれても、この青銅の蛇を仰いだ人は命を得たのです。
イスラエルの人々にとってあの青銅の蛇は、それを見上げることによって裁きの死を免れ、新しく命を得ることができたという恵みのしるしです。イエス様のエルサレムでのさまざまなしるし、また、あげられる青銅の蛇のしるしが指し示しているのは、イエス様の十字架と復活であり、そして、復活の主が高く上げられることです。あの蛇にかまれた者が青銅の蛇を仰いで命を救われたように、信ずる者が皆、天に上ったイエス・キリストを仰いで、イエス様と結ばれて永遠の命を得るようにと、神様は望んでおられるのです。
さて、今日の福音の日課は12節までですが、イエス様のお言葉は10節から始まり、21節まで続いています。その点、口語訳聖書では、イエス様のお言葉は15節で終わっています。つまり、3章16節の、ルターが「小さな聖書」とまで言った、あの有名なみ言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この言葉、口語訳聖書では福音書記者の解説になりますが、新共同訳聖書は新たに解釈して、イエス様ご自身のお言葉として、私たちは聞くのです。
イエス様が、父なる神様のお心を代弁して、こう宣言されます。この私が十字架と復活、そして天へ上げられる。このことを通して、あなたがたは裁きを免れ、闇から光の中に移されていると。
私たちは、神様の前で罪人。この一点において共通、平等です。誰もが、闇の力に捕らえられていたのです。その闇の力から救われるために、父なる神様がどれだけの犠牲を払われたか、改めてそのことを深く思い、味わい知りたいと思います。御子イエス・キリストの犠牲ゆえに、今の私たちがあるのです。何と幸いなこと、ありがたいことでしょう。
しかもこの犠牲は私たちキリスト者だけに差し出されているのでなく、この「世」と、そこにいるすべての人のために与えられているものだと、イエス様は言われます。「御子によって世が救われること」、これが父なる神様の願いなのです。
十字架のイエス・キリストによってもたらされた救いに対して、どのような態度を取るのか、それによって私たちが光の中を歩み始めるか、それとも闇の中に留まって自ら滅びへの道を歩むのかが、はっきり決まります。せっかく神様からイエス・キリストというラブ・レターが届いても、受け取りを拒否したり、破いて捨てたりするなら、それは神様のこの世に対する片思いに終わってしまいます。暗闇覆うこの世界で、ラブ・レターの受け取りを拒否している人はたくさんいます。そんな中、私たちがイエス・キリストという、まことの光に中に招き入れられていること。なんと大きな恵みでしょうか。感謝と喜びあるのみです。
あのニコデモはこの夜の対話に導かれ、次第に、まことの光である主イエス・キリストに従う者へと変えられていきました。イエス様の十字架刑に反対し、最後はアリマタヤのヨセフと共に、イエス様の遺体を葬りました。もはや夜の闇に隠れることなく、ローマの総督にイエス様の遺体の引取りを申し出たのです。ニコデモは変わりました。いや、イエス様との出会いによって、変えられたのです。私たちもそうです。あのニコデモのように、この主の日にさんさんと降り注ぐ上からのまことの光を受けて、光の子として歩み始めます。
そして闇夜の中、港へと船を導く灯台の光のように、まことの光であるイエス・キリストを高く掲げて、世の人々にこう告げ知らせましょう。「闇の夜は既に明け始めています。まことの光の下に集まりましょう」と。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。


5月20日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)でした。
 私たちは、何か赤い物を身に付けて集まり、礼拝堂に赤いバラを飾り、鳩のクッキーを食べました。この日は、「教会の誕生の日」とも言われています。
滝田浩之牧師を迎えて・・・




どなたでも大歓迎です。教会に来てみてください。 ⇒地図はこちら 


     熊本及び九州各地で地震の被害に遭われた方々のために、
                      祈りましょう・・・


熊本地震 日本福音ルーテル教会九州教区対策本部
「できたしこ ルーテル」
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「できたしこ」とは・・・・?


「できたしこで行こう!」とは、今自分のできるだけのことを担っていこう!それで十分!という熊本弁だそうです。


2011年3月11日に起こった東日本大震災から、7年が経ちました。被害に遭われた方々の生活再建と、この悲劇が忘れ去られることのないよう、心よりお祈り申し上げます。日本福音ルーテル教会は、積極的にボランティアに参加しました。

ルーテルとなりびとをご覧ください。

gatu 

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